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三国志の端っこで生きています  作者: 水原伊織


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42.皇帝自ら囮(デコイ)志願!? 魏軍三十万を誘い出す『死ぬはずのない劉禅』の独壇場

涼州へ向かった馬岱が、五丈原の本営へ戻ってきた。

幕舎の入口をくぐった瞬間、彼は廠の姿を見つけて目を丸くした。


「へ、陛下……?!」

声が裏返るほどの驚きだった。


無理もない。

廠もまた、事前に、馬岱帰還、の報告がなければ、目の前の男が誰なのか一瞬わからなかったほどだ。


「馬岱、戻ったか」

廠がそう言うと、馬岱は慌てて膝をつきかけ、しかし廠が手で制すると、気まずそうに姿勢を正した。


「涼州から戻りました。まずはご報告をと思い…丞相は?」

馬岱の顔には、遠征の疲れと、故郷を見た者だけが持つ複雑な色が混じっていた。


魏延が手短にこれまでの経緯を説明していた。


「そうだったのですか…」


馬岱がそう言うと、廠は言った。


「涼州はどうだった?」

「涼州はまだ動きませぬ。いや、動けません。民も兵も、こちらを見てはいるが、決断はしておりません」

「分かった。今はそれで十分だ」


廠の声は落ち着いていた。

実は、朧を通じて、ある程度の状況は把握していた。

膠着しているこの状況では、どちらか勝つかはまだ分からない。

そのため馬岱軍、いや蜀軍に味方して、蜀が負ければ蜂起する意味も無い。


「姜維が戻り次第、軍議を開いて、今後を決める」


馬岱は深くうなずいた。



----



その日の夕刻。 遠くから砂煙が上がり、鋭い馬蹄の音が近づいてきた。


「姜維将軍、帰還!」


伝令の声が陣中に響き、将たちが一斉に顔を上げる。

廠が幕舎の外へ出ると、汗にまみれた姜維が馬を降り、深く頭を下げた。


「陛下。ただいま成都より戻りました」

「ご苦労。孔明は?」

「医師の診立てでは、今はまだ何とも言えないと。いずれにしてもしばらく静養は必要とのことです」

「そうか…」

「……それで、戦況は?」

「馬岱が涼州を揺らしてきたが、まだ動けないだろう」

「なるほど。では、ここからが本番ですね」


姜維の目が鋭く光った。

その視線には、孔明の不在を補う覚悟と、若き将としての闘志が宿っている。


廠はうなずき、地図の前に立った。


「皆、軍議を始める」

「御意」


五丈原の空気が、再び動き始めた。



----



成都の城門が見えたころ、輿車の中で横たわっていた孔明は、わずかに瞼を開いた。

長い道のりの揺れに耐え続けた身体はまだ重い。

だが、懐かしい空気の匂いが、かすかに胸を温めた。


「もうすぐご自宅です、丞相」

輿車の外から、姜維の声が静かに返る。


孔明は小さく息をつき、目を閉じた。

戦場では決して見せない、疲れ切った人間の表情だった。


輿車が止まると、家の門が勢いよく開いた。

最初に飛び出してきたのは、孔明の妻・黄氏だった。


「あなた」

黄氏は駆け寄り、輿車の帷をめくった。

そこに横たわる孔明の姿を見た瞬間、息を呑む。


「こんなに痩せて」


孔明はゆっくりと身を起こし、微笑んだ。


「心配をかけた」

その声はかすれていたが、確かに生きている声だった。

黄氏の目に涙が浮かぶ。


「おかえりなさい」


孔明は妻の手を取り、静かに握った。

その手は、戦場の冷たさとは違い、温かかった。


家の中へ運ばれ、寝台に横たわると、孔明は天井を見つめた。

戦場の喧騒も、魏との駆け引きも、今は遠い。


廠の顔が脳裏に浮かぶ。


歴史では、私は五丈原で死ぬはずだった。

だが、廠はそれを許さなかった。あの若き帝は、私の命を選んだ。


「生きねばなりませんな」


誰に聞かせるでもなく、孔明は呟いた。その声には、静かな決意が宿っていた。



----



祁山の戦いでは、魏軍が蜀の本隊に迫る直前、姜維率いる騎馬隊が、魏軍の本陣にいる司馬懿を急襲した。

あと一歩のところで首が取れなかった。

あと矢が一本あれば。

逃げる司馬懿の背中を射て、動きを止めて、首を飛ばしてやれたのだ。

姜維はあの日からずっと後悔していた。


劉禅が近衛兵を率いて、本営に合流してきた。

もはや昔の劉禅では無かった。

鷹狩りの際に頭を打っておかしくなった。

本人はそう言うが、明らかに別人だった。

身体つきは精悍な兵士そのもので、言葉もはっきりしている。

紅陽が密かに挿げ替えたのではないか、という噂すらある。

紅陽が挿げ替えた別人という噂もあった。


ただ、姜維にとっては、いや多分蜀にとっては、別人であろうとなかろうとどうでもいい。

劉禅は劉禅なのである。


その劉禅が、地図を前に戦略を語り始める。

姜維は静かに、その横顔を見つめていた。



「そろそろ、魏軍には、勅命がまた下るはずだ。蜀を攻めよ、ってね」


机を囲む将軍たちに対して廠は言った。


「では、司馬懿は陣を出てきますね?」


魏延が言う。


「ああ、近いうちに必ずな」

「それにしても、女の着物を送りつけるとは」


姜維が苦笑いしながら言った。


「ついでに、孔明は成都に帰したって、伝文も添えておいた」


廠はそう続けた。

朧の手の者の情報によると、魏軍の主戦論は頂点に達しており、遂に司馬懿が洛陽に早馬を送ったという。


「陣形を決める」


幕舎の中には、魏延、馬岱、姜維、紅陽含むそれぞれの軍を率いる将軍が並んでいた。


「総大将は、魏延」

「…は?陛下ではないのですか?」

「いや、魏延、お前だ。お前が蜀軍全軍を率いるのだ」

「…わ、私がですか?」

「副将は、馬岱。頼むぞ」

「はい、わかりました」


魏延は、武者震いをしているのか、身体が小刻みになっている。


「かしこまりました。この魏延、全身全霊をもって魏軍と相対します」

「よし。で、姜維、紅陽」


「は」

「はは」

二人が返事をした。


「魏延率いる本体が、司馬懿を陣から引きずり出す。ただ、前回の事もある。周囲は近習に固く守られている」


姜維が唇をかみしめる。


「姜維は騎馬隊を率いて、紅陽は近衛騎馬兵全騎を率いて、側面からその近習を打ち破り、司馬懿の首を取れ」

「必ずや」


姜維が言うと、魏延が続けて言った。

「姜維、これを持っていけ」

そう言って、槍を差し出した。


「魏延将軍、これは?」

魏延が差し出した槍は、鞘に包まれていてもただ者ではない気配を放っていた。

姜維が両手で受け取ると、ずしりとした重みが腕に伝わる。


「……これは……」

握った瞬間、姜維は思わず息を呑んだ。


魏延が静かに言う。

「趙雲殿が最後に求めた槍だ。完成を待たずに亡くなられた。その後、鍛冶屋が私に託した。 この槍を振るうにふさわしい者に渡してほしいとな」


「趙雲殿の槍……」

祁山で司馬懿を逃したあの日の悔しさが、再び蘇る。


魏延が言う。

「姜維。今度こそ司馬懿の首を取れ」


姜維は深く頷き、槍を胸に抱いた。

「必ずや。この槍で、あの日の悔いを晴らします」


その言葉に、紅陽も静かに頷いた。


魏延がそこである疑問を呈した。


「ところで…陛下は、本陣に?」

「いや、俺はここに」


地図の上、先鋒の歩兵が五千、中央に配置されており、その一番先を指さした。


「紅仁率いる重装歩兵のさらに先頭に立つ」

「陛下、私と陛下の位置が逆でございます」


魏延が慌てて、言う。


「ここに蜀漢の旗を立てて、魏軍を引きつける」

「危険でございます」


「魏延、俺は、帝だ。いい餌だろ?」

「…魏軍は陛下を目指して殺到してきますぞ」


「とはいっても、せいぜい最初にぶつかるのは、前の五十人くらいだ」

「ですが」


「魏延」

「はい」


「俺を信じろ」

「陛下…かしこまりました」


廠は周囲を見渡した。


「皆も、いいな?」

「ははっ!」


力強い声が返る。


「絶対、軍が動く間の間隙はできる。それは前回と同じだ。違うのは、司馬懿の鎧の数」


「はい」

姜維が槍を握りしめた。


「大丈夫だ、姜維。紅陽が必ず鎧を剥がす。その後で必ず首を取れ」

「必ず、必ずや」


紅陽も静かに頷いた。


「では、明朝、出陣だ」

軍議はそこで散会になった。

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