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三国志の端っこで生きています  作者: 水原伊織


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41.天才軍師不在の五丈原。司馬懿の裏をかく、皇帝の『メタ知識』戦略

今回も、親征という形での出陣だった。

まず目指すのは、蜀軍本体が布陣している五丈原だった。


紅陽軍は、かつて張飛将軍が率いた精鋭中の精鋭たる騎兵を理想として編成された部隊である。

彼らは替え馬を駆使し、一千騎の急行でわずか十日余りのうちに目的地へと到達した。

廠もまた、その一員として他の近衛兵と変わらず馬を走らせ続けた。

帝が乗るような輿車に揺られて移動するなど、考えたことなど無い。


本営に入ると、魏延と姜維が出迎えた。


「陛下」

「あいさつはいい」


廠は、本営の中を見渡すが、そこに諸葛亮の姿はない。

「孔明は?」


廠が問うと、姜維が静かに答えた。

「ただいま幕舎の奥の寝台にて横になっておられます」

「……調子が悪いのか」

「疲労だとは思いますが、あまりに働きすぎです。休息を取るよう、申し上げました」


胸の奥に、嫌な予感がかすめた。


史実であれば、諸葛亮はこの五丈原で命を落とす。

だが、今は違う。

自分がいる。


「案内してもらえるか」

「御意」


姜維の後に続き、廠は幕舎の奥へと歩みを進めた。

その背後では、紅陽と魏延が戦況の確認にあたっている。


幕舎の奥へ入ると、簡易に設けられた寝台に諸葛亮が横たわっていた。

顔色は優れない。

廠に気づくと、諸葛亮はゆっくりと身を起こした。


「陛下」


微笑んではいるが、その声には深い疲労が滲んでいる。


「姜維」

「はっ」

「……外してもらえるか」


姜維は一礼し、静かに幕舎を出ていった。


廠は彼の背が消えたのを確認してから、寝台のそばの椅子に腰を下ろした。


「孔明。無理すんなって」

「……廠殿。歴史では、この後、私はどうなるのですか」

「……孔明はここで死ぬんだ」

「……そうですか」


短い沈黙が落ちた。


「だが、そうはさせない」

「なんです?」


廠は立ち上がり、諸葛亮を見下ろして告げた。


「孔明。成都への帰還を命じる」


諸葛亮は一瞬だけ目を見開き、戸惑いを隠せない様子で言った。


「何故です?」

「分かってくれよ。お前を死なせるわけにはいかないんだ」

「……ですが、この戦を放っておくわけには参りません」


廠は深く息をつき、言葉を選んだ。


「みんな、いるだろ。魏延、姜維、それに涼州の馬岱。みんなの力を合わせればいい」

「廠殿……」

「孔明、お前、何年も家に帰っていないんだってな」


漢中に入ってからの諸葛亮は、確かにそうだった。

成都に戻っても、すぐに前線へ戻る。


「……孔明の家族に会って聞いたよ」

「……そうですか」

「なあ。志も大事だが、お前が死んだら、何もならないだろ」

「ですが……」


廠は静かに、しかし強く言い切った。


「いいな。わかったな」


そう告げると、廠は幕舎を後にした。


----


翌日、孔明は寝台に横たわったまま、そっと寝台ごと輿車へと移された。

幕舎の外には、近衛兵や文官たちが整列し、誰もが声を潜めて見守っている。

戦場の喧噪とは無縁の、張りつめた静けさがあった。


輿車の帷が下ろされると、廠は姜維の方へ向き直った。


「成都に送り届けたら、またすぐにここへ戻ってきてくれ」

「は。矢のように戻ってまいります」


姜維は深く頭を下げ、輿車の横に立った。

その横顔には、託された使命の重さが入り混じっている。


輿車がゆっくりと動き出す。

車輪が土を踏む音だけが、静まり返った陣中に響いた。


廠はその背を見送りながら、胸の奥に小さな痛みを覚えた。

史実なら、ここで孔明の命は尽きる。


だが、今回は違う。

これで生きのこるはずだ。


成都に着けば、医者や養生の手立てはいくらでもある。

織にも、朧を通じて、伝わるはずだ。


輿車が遠ざかり、やがて塵の向こうに消えた。

廠は静かに息を吐き、戦場へ向き直った。


----


軍議の幕舎には、魏延をはじめとする将たちが集まっていた。

孔明を欠いた席は、そこだけぽっかりと空気が沈んでいる。


廠はその中央に立ち、皆の視線を受け止めた。


「孔明は、長年の戦で蓄積した疲労のため帰ってもらった。これからは、みんなの力を借りたい」


廠の言葉に、魏延が拝礼をした。


「我ら一同、身命を賭して陛下の御命に従う所存です」

「あ、つまらない拝礼とかいらないから、今後も」

「かしこまりました」


廠はうなずき、続けた。


「まず魏軍への対応だが、どうせ動かない。陣はこのままでいく」


その瞬間、幕舎の空気がわずかに揺れた。


魏延が眉をひそめ、前へ出る。


「恐れながら、陛下。丞相がこの陣におられぬことは、いずれ魏にも知れましょう」

「その隙を突いてくる、というわけか。魏延」

「その通りにございます」


廠は軽く息を吐き、静かに言い切った。


「大丈夫だ。司馬懿は動かない」

「……何か、根拠がおありで?」


廠は皆を見渡し、はっきりと言った。

「根拠なんていらない。あいつは動かない。絶対にだ」


その断言に、幕舎の空気が再び揺れたが、誰も反論はしなかった。

廠の声には、揺るぎない確信が宿っていた。


将たちは互いに目を見交わし、やがてその静かな確信に押されるように口を閉ざす。


「姜維が成都から戻るまで、こちらは動かない。兵を休め、補給を整える。司馬懿は、こちらが動くのを待っているだけだ。なら、乗らなきゃいい」


魏延はしばらく黙っていたが、やがて腕を組んでうなずいた。


「かしこまりました。姜維が戻るまで、陣を固めるとしましょう」


廠は軽く息をつき、皆を見渡した。


「孔明がいない間、俺たちが踏ん張るんだ。焦る必要はない。勝負は、まだ先にある」


将たちは深くうなずき、それぞれの持ち場へ散っていった。


皆が幕舎を出ていき、静けさが戻ったころ、魏延がそっと口を開いた。


「陛下、万が一、魏軍が動いた場合には?」

「……逃げる」

「は?」

「漢中まで逃げる」

「はあ……」


魏延は困惑したように眉を寄せたが、廠は軽く肩をすくめた。


「大丈夫。それはない。司馬懿は勅命を受けてる。陣を守ったまま動くな、とな」

「勅命を?…そうでしたか」


魏延の表情がわずかに変わる。

驚きと、納得と、そしてどこか感嘆の色が混じっていた。


「仮に孔明の不在に気づいたとしても、動くには洛陽の曹叡にお伺いを立てなきゃならないだろ?」

「確かに。そこまで読んでおられたとは」


魏延は深く息をつき、廠を見つめた。


その目には、主君への敬意がはっきりと宿っている。


「それまでには、姜維は戻ってくるさ」


廠がそう言うと、魏延は静かにうなずいた。


「陛下。お見事にございます」

その声は、戦場で猛将と恐れられる魏延のものとは思えないほど、素直で、深い敬意に満ちていた。


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