40.洛陽を奪え! 皇后との情愛の果てに、皇帝が掴んだ真の『大義名分』
魏軍本営。
司馬懿は深い沈黙の中にいた。
蜀軍の奇妙な機動に翻弄された三日間。
陣に戻ってきた司馬懿は、居室に籠り、誰にも会わなかった。
翌日、軍議を開いた。
幕僚の一人が進言した。
「野戦を避け、全軍で蜀の陣を包囲しましょう」
司馬懿は首を横に振った。
「動かぬ」
その声は低く、しかし揺るぎなかった。
「蜀軍は我らを誘っている。諸葛亮は、我らが焦って陣から出てくるのを待っているのだ」
「では、どうなさるおつもりで……」
「陣を固める。動かぬ。諸葛亮が何を企んでいようと、こちらが動かなければよいのだ」
司馬懿は地図の上に手を置いた。
「成都の反乱。あれは蜀の内側を蝕む毒だ。諸葛亮が兵を割けぬ以上、時間は我らに味方する」
その言葉に、幕僚たちはようやく理解した。
司馬懿は、諸葛亮の策を逆手に取ったのだ。
蜀軍が誘うなら、誘いに乗らなければよい。
成都が揺らげば、いずれ蜀軍は前線を維持できなくなる。
「動かぬことこそ、勝ちへの道」
司馬懿は静かに目を閉じた。
その姿は、まるで深い闇の中で獲物を待つ老獅子のようだった。
魏軍三十万は、五丈原の陣に深く根を下ろした。
動かず、揺らがず、ただ沈黙だけが広がっていく。
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魏軍三十万は動かなかった。
五丈原の空気は、奇妙なほど静かだった。
その静寂の中心で、諸葛亮は机に向かっていた。
雍州の半分を取り、それから長安に攻め込む。
西には、この後、軍を出すつもりだった。
それからを馬岱を涼州へ派遣する。
「司馬懿。動かぬ策を選んだか、狙い通りだ」
諸葛亮は呟いたが、深い疲労が滲んでいた。
夜半、灯火が揺れる。
諸葛亮は筆を走らせながら、ふと胸に手を当てた。
「……っ」
短い息が漏れる。
胸の奥が焼けるように痛む。
ここ数日、同じ痛みが続いていた。
その瞬間、筆が手から滑り落ちた。
諸葛亮は机に手をつき、呼吸を整えようとした。
だが、肩が小刻みに震えている。
立ち上がろうとしたが、足がふらついた。
壁にもたれかかりながら、寝台へと向かった。
まだ、死ぬわけにはいかない。
ゆっくりと瞳を閉じた。
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織は、いつものように廠の求めに応じて寝台に身を横たえていた。
迎え入れた瞬間、廠の呼吸の荒さがはっきりと伝わる。
豪族たちの反乱軍を鎮圧した直後だった。
成都へ戻った廠を、織はまず労った。
廠は言葉を返す代わりに、織を湯殿へと連れていき、湯気の余韻が残るまま寝台へと招き寄せた。
廠の身体は熱を帯びていた。
戦の火照りを冷ましたい、その切実さが、触れ合うだけで分かった。
「織、また俺、行かなきゃ」
「…いつ、出立するの?」
交わりを終えるや否や、廠は身を起こし、衣を整え始めた。
いつもなら、余韻に身を沈めたまま、まどろみ、あるいはもう一度求め合うはずなのに。
「孔明のところに合流する」
「…そう」
「本当は、織とこうしていたい。けれど、どうしても行かなきゃならない気がするんだ」
「…あなたがそう決めたのなら」
「戦そのものは構わない。ただ、成都から――織から離れるのが嫌なんだ。戻るにも時間がかかるし」
「ふふ、そう言ってもらえるなんて、嬉しいわ」
織は、着替えを急ぐ廠の背にそっと腕を回した。
そして、耳元で囁くようにつぶやいた。
「それなら、随行しましょうか?」
「そうしたいくらいだけど……政が滞る。俺がいない間は、全部お前が決裁してくれているだろう」
廠の言葉には、頼もしさと後ろ髪を引かれる思いが入り混じっていた。
「じゃあ、廠。それなら、洛陽を奪って」
廠の背中に腕を回したまま、織は続けた。
「洛陽を?」
「あの近くに、漢の帝がいる。実質、幽閉よ」
漢の献帝・劉協は、洛陽の北西、太行山脈の南端に近い山陽へ移され、名ばかりの山陽公として、ほとんど幽閉同然の暮らしを送っていた。
「洛陽を押さえれば、帝を奪還できる。そうなれば――蜀が掲げる漢王朝復興は、ただの理想じゃなくなる。大義名分が、現実になる」
「そうなのか…」
「そうすれば、成都から遷都できる」
「洛陽のほうがいいのか」
「今後、貴方が、つまり帝が必要とされる戦は、洛陽のほうが近いはず」
魏に対しても呉に対しても、山陽公を擁して洛陽にいる方が、何かと利が大きい。
織はそう考えていた。
「そうか。分かった。洛陽を奪えばいいんだな?」
「そんなに簡単にはいかないと思うけど」
「目標があったほうが、動きやすい」
そこまで言うと、廠は立ち上がり、着替えを終えるための最後の準備に取りかかった。
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「じゃあ、行ってくる」
「気を付けてね」
廠はどこか寂しげだったが、その奥には“やらねばならない”という決意が宿っていた。
唇を重ねる。
廠は、なかなか織から離れようとしなかった。
半刻ほどそうしていたかもしれない。
そのくらい、離れなかった。
ようやく唇を離した廠は、名残惜しげに寝室を出ていった。
織も、静かに着替えを始めた。
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織は宮殿の高廊に立ち、出陣したばかりの紅陽軍を見送っていた。
近衛兵を中心に新たに編成された軍で、騎馬隊五百、重装歩兵五百。
移動の際は、全員が騎馬となる。
成都宮殿には、守護のために別の近衛兵五百が残っている。
もっとも、もはや大きな反乱が起こる気配はない。
今回の騒動も、不穏分子の中の一部過激派が扇動したに過ぎなかった。
徴発が厳しくならざるを得なかった理由は、民も皆、理解している。
織は、ゆっくりと寝室へ戻った。
つい先ほどまで、廠の体温に包まれていた余韻が、まだ肌に残っている。
豪族たちの反乱軍を鎮圧した直後だったせいか、廠はいつになく激しく、求めるように触れてきた。
その熱が、いまも身体の奥で脈打っている。
薄い衣が肌に触れるたび、廠の手の感触がふいに蘇る。
胸の奥に、静かな火がまだ消えずに灯っていた。
織は、力の抜けた身体を寝台に横たえて、ぼうっと考えていた。
洛陽を奪う。
廠には、そう口にしてはみたものの、今の蜀軍では、実現できたとしてもまだ遥か先の話だった。
いま対峙している司馬懿率いる魏軍を、仮に打ち破れたとしても、その先には長安に控える大軍がある。
長安の守りは異様なほど堅固だと、朧からの報告も届いていた。
迂回して洛陽を突くとなれば、漢中から魏興郡を抜ける必要がある。
だがその場合、上庸と長安の双方から挟撃を受ける可能性が高い。
そもそも、司馬懿の軍を正面から破るには、まだ兵力が足りない。
それが現実だった。
まず、雍州や涼州を奪わなければならない。
織の身にまとっているのは、細い肩紐だけで支えられた薄絹の寝衣だった。
ふと腰まわりの感触に意識を向けた。
廠の提案で、宮中に新たに導入された下衣、細い紐で留めるだけの、軽い絹布だ。
肌を清潔に保つために考案されたものだという。
本来なら、宮中の誰もがまだ慣れていないはずの新しい衣だが、織にとっては、廠が自分の身体を案じてくれた証のように思えた。
薄い布が肌に触れるたび、廠の手の温もりがふいに蘇る。
その感触を振り払うように寝台へ身を横たえたが、胸の奥に残る熱だけは、どうしても消えなかった。
母上もこうして、父上に、大切にされていたのだろう。
父を迎える母の目は、いつも穏やかだった。
「かすみ……いる?」
「はい。ここに」
寝台に身を横たえたまま、織はかすみを呼んだ。
「紅陽とは、最近どう?」
「え、最近……ですか?」
「ちゃんと、出来てる?」
かすみは一瞬、言葉を失ったように目を伏せた。
「え……あ、その……夜のことを仰っているのですか?」
「そうよ」
かすみは小さく息をのみ、ためらいがちに続けた。
「陛下がお休みになられたあと、紅陽さまは……はい。お呼びがあれば、私もお側におります」
「なら、良かった。それだけ聞きたかったの」
そう告げると、織はふっと力を抜き、まどろみへと沈みはじめた。




