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三国志の端っこで生きています  作者: 水原伊織


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38.五丈原の霧、成都の火種

五丈原で蜀軍十万が魏軍と対峙しているその頃。

成都の周辺では、別の火種が静かに燃え上がっていた。


最近の兵糧徴発は、各地の豪族たちに大きな負担を強いていた。

遠征軍のためとはいえ、蓄えを根こそぎ持っていかれた家々も多い。

不満は声にならぬまま積もり、やがて一部の豪族が密かに結託し始めた。


「今なら、成都は手薄だ」


その囁きが、夜の闇の中で広がっていく。


そしてついに、点在していた蜀軍の小部隊から、五丈原に展開中の蜀軍の本営へ急報が届いた。


「成都西方にて、豪族らの反乱発生!周辺の村々を扇動し、兵を集めつつあります!」


伝令の声は荒く、馬の汗がまだ乾いていない。

本営の幕内に、ざわりと緊張が走った。


本営は、諸葛亮以外にも魏延、姜維、といった将軍らが顔をそろえており、軍議の真っ最中だった。

「反乱の規模は?」

諸葛亮が聞く。


「現時点で千余。しかし、徴発に不満を抱く者が多く、雪だるま式に増える恐れがあります!」

その場にいた、幕僚たちの顔色が変わる。

成都は蜀の心臓部。

ここが揺らげば、前線の十万は背後を気にせざるを得なくなる。


「この時を狙っていたのか」

魏延が低く呟いた。

五丈原では魏軍と対峙している。後方では豪族たちの反乱が膨れ上がろうとしている。

伝令はさらに続けた。

「成都守備の一万では、抑えきれぬ可能性があります!本営として、いかなるご指示を」

幕内の空気が、張りつめた弦のように静まり返った。


沈黙が、幕内を重く覆った。

魏延も姜維も、言葉を失っている。

成都の反乱は看過できない。しかし、ここ五丈原で魏軍三十万と対峙している以上、兵を割く余裕はない。


諸葛亮は、しばし目を閉じた。

その表情には焦りも怒りもなく、ただ状況を正確に測る者の静かな思考だけがあった。

やがて、ゆっくりと目を開く。


「成都の守備一万に、任せる」


その声は驚くほど落ち着いていた。

だが、その言葉の重さに、幕内の空気がさらに沈む。


「丞相、それでは――」

魏延が思わず声を上げかけたが、諸葛亮は軽く手を上げて制した。


「兵を割けば、ここが崩れる。ここが崩れれば、成都どころか蜀そのものが持たぬ」


諸葛亮の視線は、地図の上の成都と五丈原を静かに往復する。


「成都の一万は、精鋭ではない。 だが、地の利がある。豪族の反乱は、規模が大きくとも烏合の衆。守りに徹すれば、持ちこたえられるはずだ」


その言葉には、揺るぎない確信があった。

不安を押し殺すのではなく、現実を見据えた上での判断だった。


「我らは、ここで魏軍を抑える。 成都は、成都で守らせる。それしか道はない」


幕僚たちは、諸葛亮の静かな決断に息を呑んだ。

誰もが危険を理解していたが、同時に、この男の言葉には、不思議と従うしかない力があった。


姜維が深く頭を下げる。


「承知しました。成都守備軍へ、丞相のご指示を伝えます」


諸葛亮は小さく頷いた。


「魏が、この隙をどう突いてくるかだ」


その瞬間、幕内の緊張はさらに高まった。

前線と後方、二つの危機が同時に動き出している。

だが諸葛亮は、ただ静かに、揺るがぬ眼差しで地図を見据えていた。



----



成都の反乱の報が魏軍にも届くのに、時間はかからなかった。


「蜀の後方が揺らいでおります。今こそ、攻め時かと」


魏軍の幕僚たちが声を揃える中、司馬懿はゆっくりと頷いた。


「諸葛亮は兵を割けぬ。ならば、こちらが動く番だ」


その一言で、魏軍三十万のうち先鋒が大きく動き出した。

渭水沿いに黒い波のように進む魏軍。

五丈原の蜀軍陣営にも、すぐにその動きが伝わった。


「魏軍、前進を開始!」


伝令の声に、蜀軍の陣内がざわめく。

だが、諸葛亮は微動だにしなかった。


「来たか。姜維、魏延。予定どおりに動け」


二人の将が深く頷き、すぐに部隊へと戻っていく。


蜀軍は迎撃の構えを見せるどころか、魏軍の前進に合わせて、左右へ散るように動き始めた。


「逃げるのか?」

魏軍の将が嘲るように言う。


だが、司馬懿は眉をひそめた。


「いや……これは、誘っている」


蜀軍は魏軍の進路に合わせて、丘陵や林の陰に部隊を潜ませ、魏軍が近づくと姿を見せては、すぐに退く。


追えば消え、退けば現れる。まるで蜀軍全体が霧のように掴みどころがない。


「何をしている! 追え!」

魏軍の先鋒が焦れて追撃に移る。


だがそのたびに、蜀軍は巧みに地形を使い、

魏軍を狭い谷へ誘い込み、あるいは高地から矢を浴びせ、または夜陰に紛れて別方向へ移動する。


魏軍は進んでいるつもりで、気づけば同じ場所をぐるぐると回らされていた。


「……まさか、これほどとは」


司馬懿の顔に、初めて苦味が浮かぶ。


蜀軍は決して決戦に応じず、しかし魏軍を前へ進ませもしない。

ただ、疲労と混乱だけを積み重ねていく。


三日目の夕刻。

魏軍の先鋒はついに足を止めた。


「これ以上は、兵が持ちませぬ……!」


司馬懿はしばし沈黙し、やがて静かに命じた。


「撤退する。陣へ戻れ」


その声は低かったが、誰も逆らえなかった。


魏軍は五丈原の前で、いいように振り回されたのである。

蜀軍に一度も決戦を許されぬまま、疲れ果てて陣へと引き返していった。



----



蜀軍の陣では、諸葛亮が静かに地図を見つめていた。


これで司馬懿は陣に籠ったままだろう。ゆっくりと雍州南部を制圧できる。


「……あとは、成都をどうするかだ」

その声は、風に消えるほどの低さだった。


しかし、その一言に込められた重さは、誰よりも彼自身が知っていた。

後方では豪族たちの反乱が燻り続けている。

諸葛亮は地図に視線を落とし、成都の位置を指先でそっと押さえた。

「持ちこたえてくれよ」

その呟きは祈りではなく、願いでもなく、ただ現実を受け止めた者の静かな覚悟だった。


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