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三国志の端っこで生きています  作者: 水原伊織


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37.全軍進発! 十万の蜀軍が挑む、運命の五丈原決戦

祁山の戦いから、すでに半年ほどが過ぎた。

その間、廠は帝として蜀領の慰撫に心を砕き、荒れた民心の立て直しに努めていた。

先の戦では、兵糧の無理な徴発が続き、領内は深く疲弊していたのである。

諸葛亮は漢中からたびたび成都へ戻り、蔣琬とともに内政の諸事について協議を重ねていた。


紅陽は、弟である紅仁とともに、部隊編成を改めていた。

騎馬一千騎は紅陽が率い、紅仁は重装歩兵を統率する。

戦場で廠を守る盾となるのは、主として紅仁の率いる重装歩兵である。

次に出陣する時は、廠自らが軍を率いる正式な親征となるだろう。

その備えを怠るわけにはいかなかった。


諸葛亮とも、これまでに幾度も語り合った。

今は内政を整え、来たるべき出陣に備える時期である。

そのため、国中の無駄を徹底して削ぎ落としていった。

さらに廠は、転生前、日本での記憶を、思い出せる限り諸葛亮に語って聞かせた。

理解されるはずもないと覚悟していたが、諸葛亮には意外にも、腑に落ちる部分があるらしく、深く頷く場面もあった。




「ただ、孔明……ひとつ気になることがある」

「気になることとは?」

成都の廠の居室だった。成都に来ていた諸葛亮を、廠が呼び寄せたのだ。


「俺がここにいることで、おそらく歴史が変わってしまっている」

「ほう。歴史そのものが違ってきている、と?」


本来なら董允が死ぬのは、もっとずっと後のはずだった。

廠は、その事実を静かに語った。

「なるほど。貴方という存在が歴史に干渉していると考えれば、確かに合点がいきます」


「だから、俺が知っている“結末”も、これからは役に立たないかもしれない」

「つまり、貴方の知る歴史とは別の道筋を歩み始めている、と?」


「そうだ」


諸葛亮は腕を組み、しばし沈思したのち、口を開いた。


「いずれにしても、我らのやるべきことは変わりません」

「確かに、そうだが……」


廠が知っている歴史は、あくまで年表のような大まかな流れにすぎない。

実際の現場で何が起き、誰がどう動いたのか、その細部までは分からないのだ。


諸葛亮は腕を組んだまま、廠の言葉を正面から受け止めていた。

その眼差しには驚きも動揺もなく、ただ状況を測り、次に打つべき手を探る静かな光だけが宿っている。


「歴史が変わろうと、変わるまいと」

ゆっくりと、しかし揺るぎない声音で続けた。


「我らが国を支え、人々を守るという大義は揺らぎません。道筋が変わるなら、変わった先で最善を尽くすだけのこと」


その言葉には、未来が読めなくとも歩みを止めない者だけが持つ重みがあった。

廠は、胸の奥にわずかな安堵が広がるのを感じた。


「貴方が知る歴史が役に立たぬとしても、それは決して不利ではありません」

諸葛亮は静かに言い切った。

「むしろ、誰も知らぬ未来を共に切り拓けるということ。私にとっては、それで十分です」

その声音には、廠の存在を疑わず、恐れず、ただ事実として受け入れる強さがあった。

廠は思わず息を呑んだ。

「私は、未来を読むことはできません」

諸葛亮は静かに続けた。

「しかし、未来を恐れて歩みを止めることは、もっとできません」

その言葉が、廠の胸の奥に深く刺さった。


「……孔明。俺も、できることをやるよ」

その声は大きくはなかったが、迷いの影は消えていた。

諸葛亮が視線を向ける。

その眼差しは、廠の変化を見抜いているようだった。

「まずは、俺が知っている限りの未来の知識を整理する。どこまで役に立つかは分からないが、少なくとも判断材料にはなるはずだ」

この国の行く末に、自分も関わる。そう腹を括った。

「それに、俺がここにいることで歴史が変わるなら、変わった先を見届ける責任もある。ただ傍観しているわけにはいかない」

諸葛亮はわずかに微笑んだ。

それは賞賛でも慰めでもなく、同じ方向を向く者に向ける静かな敬意だった。

「では、共に歩みましょう。変わる未来の、その先へ」

廠は深く頷いた。



----


廠は、それからも内政を整え、近衛兵と共に調練を繰り返していた。

その間、諸葛亮も、蜀軍を少しずつであるが、漢中に兵を集結させていた。

さらに半年ほどが過ぎ、祁山の戦いから約一年後。



----



蜀の遠征軍、約十万が漢中に集結していた。

諸葛亮は南鄭の本営にあり、刻一刻と変わる情勢を静かに見据えていた。

使いの者たちが、途切れることなく魏軍の報告を運んでくる。

司馬懿率いる魏軍本体、およそ三十万。

さらに長安には十五万――とはいえ、こちらは留守部隊で、実質は頭数を揃えただけの兵力にすぎない。

そして洛陽には五万。曹叡の近衛兵を中心とした精鋭である。

対する蜀軍は、漢中の十万のほかには、成都近郊に一万が点在しているのみ。

ほぼ全軍を投じた決戦だった。

ここで敗れて、全滅するようなことがあれば、すべてが終わる。


報告が積み重なるたび、本営の空気は静かに、しかし確実に緊張を深めていった。

やがて、魏軍の先鋒が動き始めたとの報が入る。

遠征軍十万は、諸葛亮の号令を待っていた。


「進発せよ」

その一声で、蜀軍の先鋒が動き出した。

諸葛亮の本体は、姜維の軍を中心に編成されている。

もとは趙雲軍の三万で、精鋭中の精鋭。装備も良く、馬も豊富だった。


「丞相、ご武運を」

漢中に来ていた蔣琬が、本体の進発を見送るために姿を見せた。

「ああ」

諸葛亮は短く応じ、静かに馬へと跨った。


----


諸葛亮が馬に跨がると、周囲の将兵たちが一斉に姿勢を正した。

遠征軍十万の気配が、大地の下から響くように伝わってくる。


南鄭を発した蜀軍は、北へ向けて静かに動き始めた。

旗が風を受け、甲冑が触れ合う音が、長い行軍の始まりを告げる。


諸葛亮は前方を見据えたまま、わずかに息を整えた。


魏軍の先鋒が動いた以上、もはや退く道はない。

蜀軍は漢中を抜け、渭水を望む要地・五丈原へと進む。


そこは、魏軍と真正面から対峙するための広大な平地だった。

諸葛亮は、あらかじめ地形を読み、補給線を計算し、ここを決戦の舞台に選んでいた。


やがて、五丈原の地平が見えてくる。

乾いた風が吹き抜け、遠くに魏軍の旗が揺れているのが見えた。


「ここを本営とする」


諸葛亮の声は静かだったが、誰もがその言葉の重さを理解していた。

蜀軍十万が次々と布陣を開始し、五丈原の大地に陣幕が張られていく。


戦いの幕が、いよいよ上がろうとしていた。


----


魏軍本体三十万が陣を敷く渭水北岸。

その中央の大幕で、司馬懿は静かに報告を受けていた。


「蜀軍、南鄭を発し、北上を開始しました」


伝令の声は緊張を帯びていたが、司馬懿の表情は微動だにしない。

ただ、手元の地図に視線を落とし、蜀軍の進路を指先でなぞる。


「……やはり五丈原か」


呟きは低く、しかし確信に満ちていた。


諸葛亮が選ぶであろう地形は、すでに読み切っている。

広く平坦で、補給線を確保しやすく、かつ魏軍の動きを見渡せる場所。

五丈原は、蜀軍にとって最も理にかなった布陣地だった。


「丞相、いかがいたしますか。こちらも前進を?」


側に控える郭淮が問う。

だが司馬懿は首を横に振った。


「急く必要はない。蜀軍十万が動く以上、必ず五丈原に陣を敷く。 我らはそれを見届けてから動けばよい」


その声音には、焦りも高揚もない。

ただ、相手の手を読み切った者だけが持つ静かな自信があった。


「蜀軍は全軍を投じてきた。 ならば、我らは動かずして勝つ」


司馬懿は幕の外に目を向けた。

渭水の向こう、まだ見えぬ五丈原の方角に、薄い笑みを浮かべる。


「諸葛亮よ。そなたがどれほど周到であろうと、兵站は天が決める。長くはもつまい」


魏軍の陣営は、すでに長期戦の構えを整えつつあった。

兵糧庫の増設、補給路の再確認、渭水沿いの防衛線の強化。

すべてが「動かずに相手を疲弊させる」ための準備だった。


「こちらは、いつでも迎え撃てる」


司馬懿の指示が飛ぶと、魏軍の巨大な陣が静かに動き始めた。

その動きは大軍とは思えぬほど整然としており、まるで一つの巨大な生き物のようだった。


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