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三国志の端っこで生きています  作者: 水原伊織


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36.【凱旋】戦場から戻った皇帝を待つ、皇后の甘い洗礼と口づけ

紅陽率いる近衛兵たちと共に、廠は成都へ戻ってきた。

これで往復の調練は終わりである。

およそひと月。

廠にとって、成都を離れるのはこれが初めてだった。


その間、廠は近衛兵の列に紛れ、兵士たちと同じ飯を食い、同じ幕舎で寝起きした。

皇帝としてではなく、一人の若者として兵たちの生活に身を置いた日々だった。


祁山から蜀軍は漢中へと撤退し、その地で李厳の処分が下された。

あらかじめ定められた量の兵糧を運ばなかった。

兵の死を恐れ、運ぶ人数を減らし、回数を減らしたためだという。

その知らせを聞いたのは、漢中から成都へ戻る途上のことだった。


「なあ、紅陽」

「はい、陛下」


馬を並べながら、廠はぽつりと口を開いた。


「李厳の気持ちも、わからなくはないけど……前線の兵は納得しないよな」

「……こたびの処分の件でございますか」

「ああ。ああでもしないと、みんな収まらないんだろう?」


李厳は平民に落とされ、成都から出ることを禁じられた。

それが今回の処分だった。


「……そうです」

「……終わらせたいよな、こんなこと」

「……陛下……」


言葉が続かないまま、二人の前に成都の城門がゆっくりと姿を現した。



----



宮殿に帰ってきて、湯殿に入った時に、やっと有難さが分かった気がした。

浴室の扉が開く。

織だった。

「お疲れ様でした」

微笑みながら、かすみとともに入ってきた織の衣をかすみが解き始める。

やがて一糸まとわぬ身となった織は、ためらいのない所作で湯へと身を沈め、廠の隣へと寄り添う。

その動きには、皇后としての気高さと、夫としての廠だけに見せる柔らかさが同時に宿っていた。


「織」

「兵糧を運ぶなんて、無茶しましたね」


織は朧を通じて、廠や紅陽たちの動きはすべて掌中にある。

そのうえでの言葉なのだと、廠はすぐに悟った。


「いやあ、間に合わないと分かっていても、やってみたかったんだよ」

「でも、廠」


そう言った瞬間、織はためらいもなく唇を重ねてきた。

湯気の中で、時間がゆっくりとほどけていく。

しばらくして唇を離すと、織は静かに言った。


「もう、無理しないで。貴方に何かあったら…私は耐えられません」

「分かってるよ。孔明にも散々言われた」


そっと織の身体へ手を伸ばす。

織はその手つきに逆らわず、ただ受け入れていた。


「…戦に出るときは、織も連れていきたい」

「…どうして?」


織の問いに、廠はまっすぐその身体を見つめた。


「…何か月も我慢できないだろ?」

「……まあ」


湯殿に満ちる静けさの中で、しばらく互いの温もりを確かめ合い、やがて廠は湯から上がった。



ーー



寝室に入ると、外の冷気が帳の向こうへ遠ざかり、そこだけが別世界だった。


織は寝台の端に腰を下ろし、濡れた髪を肩に流しながら、廠を見つめていた。

織の肩に触れる。


「廠…」


織の頬に手を添えた。

その瞬間、織は目を閉じた。


「…無事で、良かった」


その囁きは、ただ廠を想い続けた一人の女性の声だった。


廠は織を抱き寄せた。

織の身体は湯の温もりを残していて、その温かさが胸の奥まで染み込んでいく。


抱きしめるだけで、戦の緊張も、離れていた時間の寂しさも、すべてがほどけていくようだった。


織は廠の胸元に顔を寄せ、小さく息を吸い込む。


「…廠の匂いがする」


廠は織の肩に手を滑らせ、織はその動きに合わせて自然と身体を寄せる。

拒む気配はどこにもなく、むしろ、ようやく触れられたことに安堵しているようだった。


寝台の帳が静かに揺れ、外の世界が遠ざかっていく。

二人の呼吸が重なり、言葉よりも深い想いが、触れ合うたびに静かに満ちていく。


その夜は、互いの存在を確かめ合うために、深く、親密に、静かに流れていった。



ーー



その夜、宮殿のあちこちで灯りが静かに揺れていた。

廠と織が寝殿で互いの温もりを確かめ合っていた頃、別の一室にも、ひそやかな気配が満ちていた。


紅陽は、戦の疲れを隠すように深く息を吐き、かすみはその横顔を静かに見つめていた。

普段は毅然とした近衛の二人も、今だけは柔らかな空気をまとっている。


「かすみ、皇后様のそばにいなくてもよかったのか?」

「ええ。もう陛下にも、織さまにも許可はいただいています」


その声は、いつもの報告口調とは違っていた。


「そうだったのか」

「ええ。皆さまが調練に出ておられる間に、皇后様には思いをお伝えしました」


紅陽は、隣に横たわるかすみを腕に抱き寄せる。

二人とも、もう鎧は纏っていなかった。


「……なんとおっしゃっていた?」

「いつ打ち明けてくれるのか、待っていたと」

「そうか。まあ……お見通し、というわけだな」


実のところ、紅陽もまた、漢中への調練の折に、皇帝である廠へかすみのことを伝えていた。


「陛下は、なんと?」

「何も気にしてはいなかった」

「……らしいですね」


劉禅であって、もはや劉禅ではない。

それでも紅陽は、あの男を信じるに足る人物だと判断していた。


歩兵の訓練に向けた、あのひたむきさ。

漢中行軍で見せた必死な姿。

政に向ける眼差しと、国を思う言葉。

そして、張皇后に注がれる、偽りのないまなざし。


「あの男は多分、天からの贈り物だ。そう考えておこう」

「紅陽…」

皇后たちのそばには、別の女官が控えていた。

今夜、かすみはこの手の中だった。

「かすみ、これからも共に生きていこう」

「…ええ」

天からの贈り物かどうかは、いずれ分かる。

だがこの夜、紅陽は初めて未来を信じようとしていた。


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