白露の香りが運んだ目覚め
廠は、まるで深い水底に沈んだように微動だにしない。
寝台の脇に座る織は、何度目か分からないほど廠の手首に触れ、脈の確かさを確かめる。
温かい。
生きている。
呼びかけても、まぶたは閉じたまま。
宮殿に運ばれてから、三日は経つ。
部屋は静かで、外の宮廷のざわめきだけが遠くに聞こえる。
「張皇后」
紅陽が居室に入ってくる。
「…まだ、目を覚まさないの」
「傷はもう癒えているはずですが」
このまま目を覚ますことがなければ、崩御ということにでもなれば、調練に送り出した織も咎を負う。
紅陽も、だ。
そして、調練に参加していた兵士達全員もだ。
だが、そんなことよりも、何よりも、織は廠と離れて過ごすようになって分かった。
愛しているのだ。
廠、その人を。今は劉禅としているが、その中の廠を。
愛してしまった。
紅陽は寝台に近づき、廠の顔を覗き込んだ。
その表情は、眠りに落ちた子どものように穏やかだった。
織は、廠の手を包み込むように握りしめたまま、微動だにしない。
「張皇后。あなたも休まねば」
織は答えずに、黙ったままだった。
紅陽は静かに息を吐き、そっと部屋を出た。
二人だけにしておくべきだと思った。
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どこまでも静かだった。
水の底のようであり、風のない夜のようでもある。
廠は、ゆっくりと目を開けた。
「……ここは……」
声は自分のものなのに、どこか遠く響く。
「ようやく来たか」
背後から聞こえた声に振り返ると、そこに立っていたのは劉禅だった。
皇帝としての威厳をまといながらも、どこか疲れたような、諦めを含んだ眼差し。
「お前が、劉禅」
「そうだ」
二人は向かい合う。
同じ顔、同じ声。
だが、纏う気配はまるで違う。
廠は眉をひそめた。
「どうして、こうなった?」
劉禅は、廠の問いにすぐには答えなかった。
ただ、深い溜息をひとつ落とし、虚無のような空間を見渡す。
「……私は、乱世が嫌だったのだ」
その声は、皇帝の威厳とは裏腹に、どこか幼いほどの弱さを帯びていた。
廠は目を細める。
「乱世が嫌?」
劉禅はゆっくりと頷いた。
「私は生まれた時から、皇帝という檻の中にいた」
「知っているよ。小説や歴史に書いてあるからな」
「お前の頭の中は面白い」
「分かるのか?」
「ああ」
静かに劉禅は語りだした。
「別の魂を入れれば、器は保たれたまま、私は眠れると、あの男は言った」
「あの男?」
劉禅は質問には答えずに続けた。
「私は、ただ静かに生きたかった。争いも、責任も、血も何も見たくなかった」
劉禅は廠をまっすぐに見つめる。
「そして来たのがお前だ」
廠は拳を握りしめた。
「俺は、勝手に巻き込まれたってわけか」
「そうだ」
沈黙が流れる。
「じゃあ、俺はこれからどうすればいい?」
「私の代わりに、乱世を生きてくれ」
「なんだと、お前はどうなる?」
「解放されるのだ、全てから」
「死ぬという事か」
「そうだ、意識だけな」
そこまで言うと、劉禅の姿がぼやけ始める。
「待て」
「裕介といったか、いや、廠」
「なんだ」
「好きに生きてくれ」
勝手に人を呼んでおいて、勝手に消える。
そしてあとの人生は丸投げ。
怒りが湧いた。
「待て」
「さらばだ」
劉禅が笑って言った。
視界が白く染まっていった。
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かすみは、織に椀を差し出した。
「皇后様、せめてこれを」
「ありがとう」
椀を手に取って、口をつける。
廠が好きなあの白露の椀だった。
ひと口ふくむと、舌の上で、露のようにすっと消えることから名づけられた。
後からじんわりと旨味が広がり、身体の芯に温かさが落ちていく。
滋養強壮に効くとされ、生命の核として、子宝祈願の供物に使われる伝承がある霊胡桃の砕いたものが加えてある。
廠は、ある時から、毎朝、これしか摂らなくなった。
食べ物を口にすると、動きが鈍くなると言っていた。
「廠、これ好きなのよね」
織は口に含むと、少量ずつ染み込む様に、唇を重ねて廠に飲ませた。
廠ののどが鳴った気がした。
織がそっと廠の唇を離したとき、その胸の奥で、かすかな息づきが揺れた。
長く閉ざされていたまぶたが、露を払うようにゆっくりと震える。
「織?」
かすれた声が、確かに彼の喉から漏れた。
白露の温もりが、まだその体の内側で灯っているようだった。
織は思わず息を呑み、
廠の手を包み込む。
「廠」
廠は焦点の合わない瞳で織を探し、やがてその姿を捉えると、微かに笑んだ。
「織」
その一言が、織の張りつめていたものを一気にほどいた。
喉の奥が熱くなり、視界がにじむ。涙がこぼれそうになるのを堪えようとしたが、頬を伝う温かさは止められなかった。
「廠……廠……」
声にならない声が漏れ、織は震える指で廠の手を包み込む。
廠はまだ焦点の合わない瞳で織を探し、やがてその姿を捉えると、微かに笑った。
「白露の香りがした…」
その言葉に、織の涙がぽろりと落ちた。
廠が毎朝のように口にしていた、あの静かな滋味。
生命を満たす露の椀が、彼をこの世界へ引き戻してくれたのだと、胸の奥で確かに感じた。
織は涙を拭うことも忘れ、ただ廠の名を呼んだ。
その声は震えていたが、そこには深い安堵と戻ってきた命への限りない喜びが宿っていた。




