紅陽の追憶:張飛の背中とかすみの面影
夜明け前。
空はまだ墨のように暗く、東の端だけがわずかに白み始めていた。
廠が宿舎に戻ると、姜延はまだ浅い眠りの中にいた。
藁の上で身じろぎし、うめくように息を吐く。
疲労が骨の奥まで染み込んでいるのが見て取れた。
廠はそっと自分の場所に戻り、横にならずに膝を抱えた。
眠気はあるが、今寝たら、起きれそうにない。
(あと一日、か…)
自分で言ったことだった。
やがて、外から角笛が鳴った。
まだ夜の冷気が残る空気を切り裂くような音だった。
姜延がびくりと身体を起こす。
「……もう朝かよ……」
寝ぼけた声で呟き、顔をしかめる。
廠も立ち上がり、脇腹を押さえながら外へ出た。
外は薄闇の中、すでに何十人もの新兵が集まっていた。
皆、疲れ切った顔をしている。
だが、誰も弱音を吐かない。
吐けば、昨日の二人のように置いていかれるだけだ。
教官の厳しい声が響く。
「走れ! 昨日より遅い者は置いていく!」
その言葉に、ざわりと空気が揺れた。
姜延が廠の肩を軽く叩く。
「行くぞ、廠」
廠はうなずき、列に並んだ。
角笛が再び鳴る。
新兵たちは一斉に駆け出した。
冷たい空気が肺に刺さる。
脇腹の痛みが走るたび、廠は歯を食いしばった。
(マジで、きつい…)
自分に言い聞かせるように、足を前へ出す。
隣では姜延が、荒い息を吐きながらも一定の速度を保っていた。
「遅れるな」
姜延が叫ぶ。
廠は返事をする余裕もなく、ただ前を見た。
そのとき、教官の怒号が飛ぶ。
「そこのお前!足が止まっているぞ!」
廠の心臓が跳ねた。
だが、ここで弱さを見せるわけにはいかない。
廠は痛む脇腹を押さえ、さらに速度を上げた。
廠は息を切らしながらも、前だけを見続けた。
やがて、最初の坂に差し掛かる。
昨日、多くの新兵がここで脱落した場所だ。
廠は足を止めず、坂を駆け上がった。
脇腹が焼けるように痛む。
視界が揺れる。
(…小説で読んだけど、限界の先にある、限界…か)
廠は自分にそう言い聞かせた。
夜明けの薄光が、山の端をかすかに染め始めていた。
調練場からは、荒い息と土を蹴る音が絶え間なく響いてくる。
新兵たちが坂を駆け上がり、また転がり落ち、怒号が飛び交う。
その喧噪から離れた林の影に、一人の男が立っていた。
紅陽である。
彼は木々の間に身を潜め、調練場を見下ろす位置に立っていた。
風が吹くたび、枝葉が揺れ、紅陽の衣の裾がわずかに揺れる。
だが、彼自身は微動だにしない。
視線は、坂を登る廠へ向けられていた。
廠が脇腹を押さえながらも、必死に足を前へ出す姿。
痛みを隠し、息を切らし、倒れそうになりながらも踏みとどまる姿。
そのすべてを、紅陽は静かに見つめていた。
「……陛下」
声には出さず、唇だけがわずかに動く。
廠の周囲には、他の新兵たちが倒れ込み、呻き声を上げている。
「あの男も、なかなかだな」
姜延だけが廠の隣で踏ん張り、互いに言葉を交わしている。
紅陽はその様子も見逃さなかった。
紅陽は木の幹に手を置き、わずかに体重を預けた。
その指先には、戦場で鍛えられた者特有の硬さがある。
だが、その手は震えてはいない。
廠が再び走り出す。
あの劉禅が、こんなことをしているとは誰も思わない。
たとえ、廠の言っている事が本当の事だとしても紅陽にとっては、どうでもよかった。
兵を率いて、戦場に出るのが夢なのだ。
張飛将軍に憧れて、兵士になった。
粗暴と言われていたが、調練の厳しさからそう思われていた。
実際には、優しい将軍だった。
ぶっきらぼうだが、深い愛情を家族にも注いでいた。
張皇后もそんな父を敬愛していた。
夷陵に向かう途中の戦陣で、暗殺されたと聞いた時、そんなことがあるものかと思った。
呉の手の者に違いは無かった。
あれが無ければ、張飛率いる騎馬隊は今ごろ、荊州の原野を席巻し、ひょっとしたら孫権の首を取っていたかもしれない。
自分が横に居れば。
あの報を聞いた時から、いつか軍を率いて、仇を討つ事だけを考えて生きてきた。
それに、かすみ。
宮殿入りした時に張皇后の侍女として一緒についてきた。
張飛将軍にもとにいたころから、知っていたのだ。
今は皇后となった織のそばに、やはり侍女として、共にいつも行動をしていた。
いつか、娶りたかった。
想いを伝えた後、皆が寝静まった頃、密かに通じたこともある。
紅陽は林の奥へと身を引いた。




