正体不明の新兵。皇帝が泥の中で見つけた『生きる意味』
夜。
調練を終えた新兵たちは、薄暗い宿舎に戻ってきていた。
粗末な木造の建物で、壁の隙間からは冷たい風が入り込む。
床には藁が敷かれているだけで、寝台などはない。
廠はその藁の上に腰を下ろし、痛む脇腹をそっと押さえた。
昼間の組手で受けた膝の跡が、まだ残っている。
「……痛むか?」
声がして顔を上げると、姜延が水桶を抱えて立っていた。
灯りは油皿ひとつだけで、彼の表情は半分影に沈んでいる。
名を、姜延と言った。
その男も、蜀軍の新兵募集中の立札を見て、働き口として入隊を選んだのだと、話した。
「ああ」
廠は苦笑しながら答えた。
姜延は桶を置き、廠の前にしゃがむと、布を水に浸して差し出した。
「冷やせ。放っておくと腫れる」
廠は受け取り、脇腹に当てた。
冷たさが皮膚を刺し、思わず息が漏れる。
「ありがとう」
姜延は肩をすくめた。
「礼を言われるほどのことじゃないさ」
その言い方は淡々としていた。
廠は少し迷ってから、口を開く。
「姜延はどうして兵になろうと思ったんだ?」
姜延はしばらく黙っていた。
油皿の火が揺れ、彼の影が壁に伸びる。
「言っただろう? 金のためだ」
それだけ言うと、彼は藁の上にどさりと座り込んだ。
疲労が全身から滲み出ている。
「他の仕事もあっただろう?」
廠が聞く。
「一番手っ取り早く金を稼ぐにはこれしかない。
お前は?」
姜延が逆に尋ねてきた。
「俺は、強くなりたかっただけだ」
姜延は廠をじっと見た。
「お前こそ強くなりたいなら、他にもいろいろあっただろう?」
その言葉に、廠は思わず笑ってしまった。
「確かに」
「お前、名は?」
廠は一瞬、言葉を失った。
「……廠……」
「しょう?」
「劉廠だ」
「劉姓か……持つものは大体があれだろ。
どっかの偉い人の末裔なんだろ?」
廠は一瞬、息を止めた。
灯りの揺れが、姜延の横顔を照らす。
悪気はまったくない。
ただの世間話だ。
「……まあ、そういう家も多いらしいな」
曖昧に返すと、姜延は、へえ、とだけ言って肩をすくめた。
「俺の村にもいたよ。 劉って名の家。先祖がどっかの将軍だとか言ってたけど、結局は普通の農家だったな」
廠は苦笑した。
「お前はどうなんだ?」
姜延が、まっすぐに廠を見る。
その視線は鋭いが、探るような悪意はない。
ただ、同じ宿舎で寝る仲間としての興味だけだ。
廠は少しだけ目を伏せた。
「……俺も、普通の家だよ」
姜延はそれ以上追及しなかった。
ただ「そうか」と言って、藁に背を預けた。
「まあ、どこの家の出でも関係ない。ここじゃ、生きるか死ぬかだ」
そう言って、姜延は、藁の上に横になった。
廠のいる宿舎には姜延と自分しかいなかった。
四人で使う予定だったが、調練で二人は死んだらしい。
姜延の寝息は浅く、疲労がそのまま音になっているようだった。
姜延が寝静まったのを確認すると、
廠は宿舎をそっと出た。
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痛む脇腹を押さえながら、闇の中を少しだけ歩く。
背丈ほどある草の向こうから声がした。
「陛下、いかがですか?」
「紅陽」
姿は見えない。
声だけだ。
「……俺は、侮っていたよ、この調練を」
「……おわかりになられましたか」
「十分すぎるほどにな」
「ならば、結構です。
このまま、宮殿へ戻りましょう」
「いや、紅陽、続けさせてくれ」
「……本気ですか?」
「ああ、逃げたくはない」
「……まいりましたな……
張皇后とかすみに、なんと言えばいいですか?」
「あと一日だけ踏ん張る、と伝えてくれ」
「……かしこまりました」
紅陽の気配が消えた。
廠は、闇の中、来た道を引き返した。




