一兵卒の生き様を知るために――皇帝、訓練を望む
黄皓らを宮殿から一掃した後、まず取り組むべきは、宮中に広がった混乱の収束であった。
織から状況を聞き取りつつ、廠は自ら判断し、次々と指示を下していく。
最初に着手したのは、宮人の再配置と宮殿内の再点検である。
長らく黄皓派が牛耳っていたため、各部署は歪み、機能不全に陥っていた。
さらに、失われた人員を補うため、新たな宮人を大量に登用する必要もあった。
廠は、蔣琬にもいくつかの指示を与え、問われたことには即座に答えた。
その合間にも決裁は山のように積み上がり、息つく暇もない忙しさだった。
――だが、織たちに素性を暴かれてからは、廠もどこか吹っ切れた。
どうせ隠し通せないのなら、やりたいようにやるだけだ。
まず見直したのは、毎日の“過剰な食事”である。
ずっと気になっていた。劉禅のこの体型は、どう考えても食べ過ぎだ。
朝は、あの豚汁のような味の汁物だけにし、昼まで何も口にしない。
廠は転生前から朝食を摂らない生活だった。食べると身体が重くなるのだ。
昼は状況に応じて、穀物を少量だけ。
昼に食べ過ぎると眠気が襲うため、ここも最低限に抑える。
その代わり、夜は好きなだけ食べ、酒も楽しむ。
一日の終わりくらいは、自由でいい。
こうして廠の劉禅改革は、まず食卓から始まった。
内政については、基本的に蔣琬の意見を聞きつつ、必要に応じて諸葛亮へ早馬を飛ばして確認を取った。
もっとも、廠自身はまだ諸葛亮と直接顔を合わせたことがない。
(ていうか、会ってない武将、多すぎるんだよな)
転生して以来、宮殿の外にほとんど出ていないことに、今さらながら気づく。
謁見に関しても、転生前から“身代わり”が務めていた。
黄皓の息のかかった者である。
黄皓が死んだことで反乱でも起こすかと案じていたが、本人は逆らう気もないらしく、今も黙って座っている。
ただ座っているだけの役目なら、正直、誰でも務まる。
廠は、そんな現状を苦笑しながら受け入れていた。
とある日。
一通り整備を指示を出した後で、廠は紅陽を居室に呼んだ。
「実は、考えていることがあって」
「陛下、なんでしょう?」
紅陽は、廠の前に座った。
目の前にいる男は、陛下であって、陛下ではない。
だが、今までの劉禅よりもずっとましだった。
「蜀軍の、歩兵の訓練を経験してみたい」
「何ですと?訓練を」
「ああ」
「…遊びでは、ございませんぞ?」
「もちろん」
廠が言うには、この間の宦官との戦で、剣が抜けなかったのがどうしても納得がいかなかったらしい。
織が守ってくれたからよかったものの、情けなさを感じた、ということだった。
「…陛下、ですが、今後陛下が直接手を下すことはございません」
「あと、さ、この時代の一兵卒は、どんな感じで生きているのかが知りたい」
「…兵卒の生き方、ですか」
兵卒の多くは、最前線に送り込まれて死ぬ。
生き残った者のみが、将校となり、将軍となるが、結局はみな戦で死ぬ。
兵卒から始まって、老齢による退役を迎える軍人などほぼいない。
いるとすれば、戦場に出ない兵士だけだ。
「恐れながら、陛下が、わざわざ知るようなことでしょうか?」
「いや、なんだか、そういう人間の気持ちを知らないで、皇帝って名乗るのもおこがましいというか、なんというか」
理想論でも、慈悲を誇示する言葉でもない。
どこか、己を測るような、妙に現実的な声音だった。
「皇帝は、そんなことを考えません」
紅陽は、思わずそう言った。
これまで紅陽が仕えてきた劉禅は、兵の生き死に興味など示さなかった。
「そんなもんか」
「陛下、いや石川裕介様」
「廠でいい」
「では、廠殿。はるか未来の日本の皇帝は、兵卒に興味があるのでしょうか?」
「紅陽、俺のいた時代の皇帝とは……少し、いや、だいぶ違う」
廠は、言葉を選ぶように一拍置いた。
「俺の国の皇帝は、天皇はな、軍を率いない。命令もしない。戦を決めることすらない」
紅陽は、眉をひそめた。
「……では、何をなさるのです?」
「国の象徴だ」
「……象徴?」
「政治も、軍事も、全部別の人間がやる。天皇は、民の前に立ち、歴史を背負っている存在だ」
紅陽は、驚愕した。
今、まさに、蜀が目指そうとしている国の形だと思った。
国家には秩序の中心が必要なのだ。
誰が政治を行うにせよ、秩序の中心は別に必要で、
それが帝であり、天皇なのだ、というのは、
蜀の考える国のありようと一致していた。
百年後にも続くような国のあり方を目指すならば、
間違ってはいなかった。
「…この国もそれを目指して、今も戦っております」
「分かっている。だからこそ、現場の最前線の人間を知りたい」
「このことは、他には?」
「まだ誰にも。兵に関わることだから、まずは紅陽に相談しようと思った」
「そうでしたか。では、一度、張皇后ともご相談ください」
「分かった」
廠は、織を呼んだ。宮人のひとりが去っていった。




