三人の沈黙、一人の執着
黄皓は、劉禅が鷹狩りを行ったという地に足を踏み入れた。
草が円形に押し倒され、不自然な空白がぽっかりと残っている。
「こちらです」
「ふむ」
黄皓は、そこに、何かが落ちていた、としか思えない痕跡を見つけた。
「確かに、何かが、ここにあった跡じゃな」
「はい」
しかし、本当に人が入れ替わるなどということがあり得るのか。
もし劉禅が殺され、別の者がその座にすり替わっているのだとしたら。
その者には、必ず目的がある。
近頃の劉禅の振る舞いを思い返す。
どうにも、自分たち宦官を敵視しているように見える。
宦官誅滅。それが目的だとすれば、誰が、何のために。
「……まさか」
「はっ」
「紅陽。あやつか……いや、あるいは皇后までもが」
「黄皓様?」
「宮殿に戻る」
黄皓は短く言い放つと、踵を返した。
いまは、とにかく思考を整理する必要があった。
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その日の交合の後。
劉禅が寝台で静かに眠りについたのを見届けてから、織はそっと寝室を出た。
廊下には、いつものようにかすみが控えている。
「かすみ。……紅陽は」
「はい。隣の部屋に控えております」
「少し、紅陽、かすみの二人と話がしたい」
「かしこまりました」
織は自室へ向かった。
やがて、かすみと紅陽が入室する。
「お呼びで」
「座って。かすみも」
「はっ」
織の正面に、二人が静かに並んで座った。
「……あれは、皇帝陛下ではない」
織がそう告げても、紅陽もかすみも驚いた様子を見せない。
「姿、顔は同じでも、やはり違う気がしてならないの」
「やはり、皇后様もそうお考えでしたか」
紅陽が低く続ける。
「だとして……どうなさるおつもりですか」
かすみが問う。
「鷹狩りの後、倒れていた陛下を見つけたのは紅陽でしたね?」
「はい。確かにこの目で」
「不可解な点はなかったか」
紅陽は、草原で劉禅を助けたときの様子を語った。
「誰かが、陛下と別の者を入れ替えた……そういうことですか」
「可能性があるとすれば、それしか」
二人が意見を交わす中、織は静かに首を振った。
「何者かが、陛下の“身体に入った”。そうは考えられない?」
「入った?」
「理屈は分からない。けれど、もし入れ替わったのなら、本物の陛下はすぐにでも助けを求めて宮殿に戻ってくるはず」
あれから、すでに三月が経っていた。
「仮に何者かが陛下に入ったとして……どうなさるおつもりです」
かすみの問いに、織は短く答えた。
「……このままでよい」
「皇后様」
「私たちにとっては、むしろ良い方向に進んでいる気がするの」
「確かに」
「それに、陛下は政にも軍事にも興味を持ち始められた」
「蔣琬殿にも、よくお尋ねになっていますし」
「悪いことではないと思うわ」
織がそう言うと、二人は言葉を失った。
「それに……」
「……なんでしょう」
紅陽が促す。
「今の陛下は、私を本当に大切にしてくださっている」
以前の劉禅とは明らかに違う。
日々の接し方、皇后としての自分への気遣い、そして交合のときの手つき。
そこには作為ではなく、純粋な愛情があった。
「確かに、私に対しても全く違います」
かすみが頷く。
「……いずれにしても」
織は静かに言った。
「陛下は陛下。今は、このままでよいと思うの」
「かしこまりました」
紅陽とかすみは深く頭を下げ、退室した。
部屋に一人残された織は、しばらく考え続けた。
陛下とは、一体どんな人なのだろう。
自分を抱く手は、房中術のような技巧ではない。
本当に、自分を愛してくれているような、温かい手だ。
母が言っていた。
「本当に好きな相手なら、触れ合うだけで分かるものだ」と。
粗暴だと言われた父も、家では違った。
母に寄り添い、子らを気づかい、静かな優しさを絶やさなかった。
今の劉禅には、あのときの父に似た優しさがある。
そして。
交合のとき、自分の身体は確かに応えている。
このままでは、いずれ本当に好きになってしまうかもしれない。
だが、真実が分かるまでは胸にしまっておくべきだ。
織はそう思った。




