第5話 食事
石畳を蹴る足音が、静まり返ったアランソンに響く。
俺たちは無我夢中で走り続け、あの薄暗い路地裏から、少し開けた広場まで逃れてきた。
「はぁ……はぁ……っ」
ここまで来れば、あのゴロツキたちも追っては来ないだろう。荒い息を吐きながら、俺は足を止めた。
俺は、彼女の手を強く握りしめたままだった。
「あ、すまない。痛かっただろう」
慌てて手を離す。
その細い指の感触が離れていく瞬間、胸の奥がチクリと痛んだ。
「いえ……。助けていただいて、本当にありがとうございます。」
大きな瞳、少し垂れ下がった眉、そして緊張すると口元を隠す癖。
どこをどう切り取っても、俺の前世で知り合った『楓』そのものだった。
――楓、だよな?
喉まで出かかった言葉を、理性が必死に押し留める。違う。ここは1788年のフランスだ。彼女は日本なんて知らないし、俺との思い出なんて欠片も持っていない。
「……俺はマサト。君の名前は?」
精一杯の愛想笑いを作って、俺はそう名乗った。
「マサトさん、ですね。私はラーブルと申します。レース職人の見習いをしております」
「ラーブル……」
楓ではない。ラーブル。
その響きが、彼女が別人であるという決定的な証拠のように突き刺さる。
「あの、先ほどの技……魔法のようでした。あんな戦い方があるのですね」
「あぁ、あれはうちの親父が教えてくれた武術だよ。……まあ、護身用だよ」
会話が続かない。
前世の俺たちなら、沈黙さえも心地よかったはずなのに。
今の彼女にとって、俺は「助けてくれた人」であって、まだ「赤の他人」という 警戒対象でしかないのだ。その距離感が、もどかしくてたまらない。
その時だった。
「――グゥゥゥゥ……」
なんとも可愛らしくない、盛大な音が広場に響き渡った。
俺の腹ではない。音の出処は、目の前のラーブルの腹からだ。
「あ……」
ラーブルの顔が、一瞬で真っ赤に染まる。
さっきまでの気まずい空気が、音を立てて崩れ去った。
「う、うう……申し訳ありません、あの、その……よろしければお食事でもどうですか?助けて頂いたのでご馳走しますよ?」
その慌てふためく仕草も、空腹に正直なところも、やっぱりあいつに似ている。
「ご馳走するって……さっき君、あの男たちに『パンを買う金もない』って言ってなかったか?」
「それは、お金を渡さないための方便ってやつですよ。私行きつけのお店があるんです、行きましょう」
ちょうどお昼時だと思うし、ここの通貨も持ってないからお言葉に甘えるとするか。
「では、お言葉に甘えてご馳走になります。」
ラーブルに案内されたのは、エールが入ってそうなジョッキの看板を掲げた、古びた居酒屋らしき店だった。
重い木の扉を開けると、ムッとするような熱気と、発酵した酸っぱい匂いが鼻をつく。
薄暗い店内は、昼休憩の労働者や職人たちでごった返していた。蝋燭のすすで黒ずんだ壁が、この店の歴史と衛生状態を物語っている。
「……ここ、大丈夫か?」
「はい! ここはスープが具沢山で有名なんです。それに、お値段も安いですし」
ラーブルが誇らしげに言うので、俺は大人しく従うことにした。
隅の空いているテーブルに座ると、無愛想な親父がやってきた。
「注文は?」
「あ、えっと……野菜のスープをと、パンを。飲み物としてシードルを、それから……」
ラーブルが俺の顔色を伺う。
「俺も一緒でいいよ。」
無愛想な親父が注文を繰り返し言ってくれる
「あいよ。野菜スープとパン、シードルニつな」
俺は苦笑して、頷いた。
親父が奥へ引っ込む。
俺は何気なく、壁に掛けられたメニュー表のような板を眺めた。……読めない。
神様!話す言葉を日本語にしてくれたのは嬉しいけど、文字も読めるようにしてくれよ! これじゃ文盲と同じじゃないか。
俺は目を細めて、必死にアルファベットを追う。
そして俺は何とかそれっぽい物を見つけた。
『Cidre』
多分これだろ。英語の成績悪かったが、まぁ勘だ。
となりの数字、おそらく十中八九値段だろう。俺は他のやつも含め見比べる。
Cidre …… 1 sol
Poiré …… 2 sol
Bière …… 3 sol
おいおい、シードルってやつ激安じゃないか、大丈夫か、泥水でも出てくるんじゃないか?
この solって通貨が日本円に直すと100円くらいになる事を願ってたら料理が来た。
俺は密かに眉をひそめた。 ――これが、具沢山?
木椀に入っていたのは、コンソメみたいな香りがして、いい感じに煮込まれたカブと玉ねぎが浮いているだけの代物だ。お世辞にも具沢山とは言えず、現代日本でこれを具沢山と言って売ると、絶対詐欺と言われて叩かれるんだろうな。
そしてパンだ。
レンガのように硬く、そして所々に藁のようなものが混じっている。
そして、問題のシードル。
色的にはリンゴジュースであるが、これが1番恐ろしと言ってもいい。
……これが1788年の『主食』か。あまり景気が良くないんだろうな。現代日本のコンビニならギリギリ廃棄処分レベルだろう。
だが、目の前のラーブルは違った。彼女の瞳が、宝石のように輝いている。まるで高級フレンチのフルコースを前にしたようなはしゃぎようだ。
「……冷めないうちに食べよう」
「はい! いただきます!」
彼女は小さな手を合わせスプーンを口に運んだ。
「んん〜っ! 温かい……!」
一口飲んだだけで、彼女の頬が緩む。
続いて、あの硬いパンをスープに浸し、柔らかくしてから口へ運ぶ。
リスが木の実を頬張るような、小動物的な動き。
そして、肝心な俺はどれから手を付けようか、慎重に検討しているのであった。




