第4話 合意は記録になる——掲示許可と黄色いライン
窓口の向こうは、数字と書類で武装されている。まずファルコが台帳を開き、週次の誤作動回数を指でなぞる。━━"カタン"。
無機質な綴じ具の音。
皓翔「今日だけで正午までに二回。平均より三割超過してる」
レン「この音、聴いてください」
レコーダーから流れるのは、遮断機が下りて電車が来ない不自然な静寂と、遠いサイレン。怒りより、記録は強い。
担当者「……データは受け取りました。ただ、直ちに対応するのは——」
皓翔「『難しい』は結論じゃない。理由を開示してほしい」
担当者「調査と予算が——」
レン「なら、その間の暫定策を。現場の安全は、待てない」
俺は徐行マーク入りの地図と注意文を差し出す。
皓翔「掲示の許可だけください。設置はこちらの責任でやる」
レン「音声の短い警告も用意します」
一瞬の逡巡。ファルコは黙って腕を組み、数字を見張る。蛍光灯の白、紙の乾いた匂い、机の角の冷たさ。担当者は視線を落とし、やがて頷いた。
担当者「……掲示の許可と文面の受領をします。設置は自己責任でお願いいたします」
皓翔「了解」
赤いランプが点り、合意は記録になった。
『灯下』のドアを押すと、焙煎と柑橘の匂い。ガラスの曇りは薄い。澄実がカウンターの内側でポットを傾ける。
澄実「どうだった?」
レン「掲示許可、降りました。注意文も」
皓翔「徐行ライン、貼りに行く」
湯気が一段柔らかくなる。空気が一つの温度に集まっていくのが分かる。
皓翔「それと——今日のカップ、少し深い。柑橘が隠れてる」
澄実「……そうか。客に合わせすぎたのかも」
皓翔「この店の温度は、この店が決めていいと思う」
澄実は短く頷き、焙煎度のノートをめくる。彼女の手の動きが戻る。俺はカップを受け取る。
踏切前のアスファルトに黄色いラインが一本、雨上がりの光を返していた。ラインの手前に臨時の誘導員。高視認ベスト、笛、手旗。
誘導員「ご協力ありがとうございます。遠回り、すみません」
皓翔「安全のためだ」
紙の糊の匂いが、湿気の中でかすかに立つ。掲示板の注意文が新しい。レンは誘導の笛、鳥の声、草の擦れ、チェーンの回転——新しい日常を録る。笛は警報ではない、合図だ。
誘導員「お気をつけて」
遠くのサイレンは、もうただの背景音になっていた。
店に戻ると、カウンターで煌羽が早口のまま水を飲み干す。
煌羽「本当に置かれたよ、誘導員! ママたち、角の飛び出し気にしなくてよくなったって! 『灯下』も人戻って——」
皓翔「……鎮静しろ。事実の報告を」
煌羽「事実よ! あの下りの角、子どもが飛び出さないかみんなヒヤヒヤしてたのに、誘導員がいるからママたちも安心して買い物に行けるって! 『灯下』の客、増えたって」
レンはレコーダーから二つの音を流す。かつての不協和、いまの秩序。人の声、笛、チェーンが重なるのに、ぶつからない。
澄実「焙煎、戻したよ」
新しいカップ。柑橘が立つ。香りが、不安の角を落とす。
皓翔「……ありがとう」
レン「ひとつ知らせ。ぼくの滞在期間、延長されたんです」
皓翔「……どういうことだ」
レン「母の研究がうまくいって、ぼくの帰国時期を見直してもらえることになったんです。あの踏切の音データが、彼女の環境音響学の論文に使えるって」
カップを置く音が、少し大きく響いた。胸のどこかで温度が上がる。
レン「だから、君のブレーキの焦げ——録音、もう少し続けられる」
皓翔「相変わらずだな」
レン「ええ。相変わらず、だよ」
言葉は短く、でも十分だ。貸し借りの算術と、温度の相互調整。相殺して、それでも残ったものが、目の前にある。
皓翔「……借りは、返す」
レン「返すために、まず受け取る」
窓の外、黄色いラインの表面はもう乾いている。笛の音が一度だけ響き、すぐ、街の音へ溶けた。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
本作は、原作長編『焼けば早い世界で——私は焼かない』の“核”だけを引き継いだ、現代・友情フォーカスの別物語です。
原作そのものは 外部サイト「Tales」 にて連載中です。
タイトルは同名『焼けば早い世界で——私は焼かない』。
https://tales.note.com/noveng_musiq/wazh0546ck91r
読み順はどちらからでもOK。
・こちら(なろう版)は、湾岸のカフェ『灯下』を舞台に“記録と合意”で問題をほぐすスピンオフ。
・Tales版は、より大きなスケールで『焼かずに繋ぎ直す』選択を掘り下げた本編です。
片方だけでも楽しめます。
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それでは、次話でまた。