第3話 数字と音で扉を叩く——分担・フォーマット・短い警告
俺はスマホでファルコとのスレッドを開く。報告は『管理会社へ送付済み』で止まっているらしい。結論は、まだ。
レン「返事は?」
皓翔「来てない。……でも、待つだけは違う」
レン「どうするの?」
皓翔「事実を増やす。俺たちにできるのは、まずそれだ」
レンは頷き、ポケットのレコーダーを指先で叩く。
澄実「コーヒー、できました」
カップがテーブルに置かれる。湯気に焙煎と柑橘の匂い。ガラス面に当たる雨は細く、店内は一段落ち着いた温度になる。
皓翔「……ありがとう」
澄実「コーヒーは、急ぐ人にも、ゆったりする人にも味方するよ」
ひと口。苦味が口の油を洗い、身体が落ち着きを思い出す。
皓翔「レン、傘。返すよ」
レン「うん。ぼくの傘でしたね。ありがとう」
受け渡しの手に、ぬめりの消えたタオルの繊維が触れる。返却は清算だ。けれど、今はそれだけじゃ足りない。
レン「ねえ。ぼくの傘が君の雨を止めて、君の慎重がぼくの録音を豊かにした。これは貸し借りってより、共有ですね」
皓翔「……共有」
レン「温度の相互調整、って言えばいいのかな。熱い側と冷たい側が混ざって、ちょうどよくなるような」
澄実が笑う。
澄実「算術と温度。どっちも正しい気がする。言い方の違いでしかないのかも」
言い方。貸し借りに慣れた俺には、まだ、受け入れがたい概念だ。
皓翔「俺にとっては、貸し借りの最終形だ。相殺して、それでも残る温度」
レン「ぼくにとっては、払い続ける関係。放っておくと冷めるから」
カップの縁から立つ湯気が、議論の温度をやわらげる。言葉の角が落ちるまで、俺たちは少し黙る。
澄実「ね、二人とも。束ね方を決めない? 店としても助かる」
現実が入ってくる。ここで話を段取りに変える。
皓翔「分担を決める。俺はルート上の危険点を洗い出す。見通しの悪い角、減速が必要な勾配、雨で滑る白線。地図に徐行マークを置く」
レン「ぼくは音のログ。ファイル名は日付と地点と時刻。遮断機が下りて電車が来ないケースを重点に」
澄実「私は店の被害メモ。遅延件数、欠品、売上の谷。クレームは温度を落として要約するね」
皓翔「煌羽にも頼む。住民の声。子どもの飛び出し、見張りの有無、近道の噂」
レン「ファルコは数字の束ね役ですね。週次の誤作動回数、平均待ち時間、時間帯の偏り」
言いながら、俺はスマホのメモに列名を打つ。
『日時/場所/天候/路面/遮断機状態/サイレン/電車通過有無/待ち時間/迂回の有無/備考』
澄実「フォーマットがあると、怒りが事実に変わるね」
通知が一件入る。ファルコだ。
ファルコ「受領。列名ナイス。受付番号を取りに行く。管理会社の窓口、明日の午後。誰か一緒に行くか?」
皓翔「行く。俺とレンで。現場の音を聴かせたい」
レン「同行します。音は説明書きの注釈になりますから」
短いやり取りの間にも、店の空気は少しずつ乾く。湯気の高さが落ち着き、ガラスの曇りが薄れる。温度は、言葉で動く。
レン「君のさっきの下り、慎重だった。恐怖は、刃こぼれを減らしましたね」
皓翔「怖いのは事実だ。でも、定義を変えれば踏める」
定義を変える——それが今日の一番の収穫だ。俺はもう一口コーヒーを飲む。苦味の奥に、甘さが残る。
澄実「会議はここでやったらいいわ。ガラスは温度を均すから」
皓翔「助かる。掲示物も作る。徐行ライン案と注意文。『止まれる速度で』『子ども優先』。言葉は短く、矢印は大きく」
レン「音声版も作りましょう。短いアナウンス。『この先、雨の日は減速』とか」
俺は頷き、手帳に走り書きする。ペン先の摩擦は、落ち着く音だ。
レン「ねえ、もう一つ。傘の話し、続けていいですか?」
皓翔「……ああ」
レン「返してもらったけど、借りは残ってていいと思うんです。返すために受け取り続ける。貸し借りのループを、関係の維持装置にできますし」
皓翔「その装置、壊れやすいぞ」
レン「だから、時々点検するんです。今日みたいに」
ガラスの外で、雨脚がさらに細くなる。通りの白線が、濡れた光を失い始める。ブレーキは——やはり鳴らない。
皓翔「明日、窓口。数字と音で行くぞ」
レン「うん。怒りは持って行かない。怒りで行くと、怒りが返るから」
澄実「帰りにこれ、持ってって。差し入れよ。砂糖は少なめ」
紙袋の口から、焼き菓子の香り。甘い匂いは、議論のあと味をやわらげる。俺は肩掛けを締め直し、立ち上がる。
皓翔「……借りは、返す。だから、明日も受け取る」
レン「返すために、まず受け取る」
同じ言葉が、同じ温度で返ってくる。店のドアを押すと、空気が入れ替わる。外の湿気は軽く、夜の手前の涼しさが混ざっている。
歩道の端で自転車を引き起こす。ハンドルのゴムは乾き、指先は迷わない。