第2話 怖いは慎重——雨の下り坂で心拍を録る
海側への迂回は、必然だった。ファルコの数字と、レンの録音が、同じ結論を示すからだ。遮断機の前で自転車を止め、俺は時刻・場所・天候をメモする。レンはポケットからレコーダーを出す。表示は無音だが、彼の耳は別の騒がしさを拾っている。
皓翔「兆候はあるか?」
レン「機械が、不安を鳴らしてる。静かな、ざわめき」
経過時間は群衆の苛立ちとして可視化される。指先のスワイプが速くなり、湿ったため息が増える。俺の体内時計は逆に冷える。一分、三分、五分。速度が上がるほど、思考は下がる——冷静になるための、思考のブレーキだ。
煌羽「やっぱダメ。こっち回ろ」
焦燥が、彼女の言い回しを短くする。
皓翔「海側の下りで行く」
煌羽「え、急だよ? 雨だし」
皓翔「ファルコのデータとレンのログが、そっちを推してる」
スマホの地図に、最小勾配で抜けるルートを重ねる。通知が震えた。澄実だ。
澄実「ごめんなさい、急げます? 豆が足りなくて」
皓翔「向かう。海側下りを試す」
送信してから、言い換えを自覚する。『向かう』じゃなく、『試す』だ。これはただの移動じゃない、実験だ。
レン「ぼくも同行します。君の風圧の揺れを録りたい」
皓翔「……揺れるかどうかは、俺にも分からん」
レン「音は、体が最初に教えてくれますから」
下りの入口へ向かう道は、意外に静かだった。迂回のせいで、車も人も薄い。濡れたアスファルトは色が濃く、跳ねる雨粒が白く割れる。
レン「静かですね。だからこそ、声の輪郭がくっきりする。雨音の、輪郭が」
レコーダーがポケットの内側で微かに震える。
左手の汗がグリップに滲む。恐怖はまず手に出る。自転車は体の延長で、増幅回路でもある。入口で深呼吸を一つ。
皓翔「……行くぞ」
風の音が変わる。車体が空気を裂く音が近くなる。チェーンの回転が高域に上がる。風圧の強まりと同期して、ハンドルに細い振動。潮の匂いが喉の奥に降り、記憶の焦げを呼び起こす。━━"ゴトン"。
ガードレールの継ぎ目で車体が小さく跳ね、心臓が喉元までせり上がる。
レン「大丈夫です。この風圧は、君の意識を研ぎ澄ますためのものです」
彼は片手だけハンドルを残し、身振りで減速合図。
過去と現在の境界が薄くなる。焦げの匂いが“いま”に侵入する前に、俺は先に減速する。そこで——前方からボールが飛び出してきた。━━"コロン"。
濡れた路面を滑り、前輪のすぐ先で止まった。
皓翔「危ない!」
ブレーキを握る指に、力が集まる。制動は成功。濡れたトレッドが路面に描く音が、かすかに聞こえる。道端から声が聞こえた。
子ども「ぼくの!」
皓翔「はい、気を付けるんだよ」
ボールを返す。シャンプーの甘い匂いが潮を一瞬だけ押しのける。無防備な匂いは、世界の優先度を入れ替える。
左手の汗がグリップの滑りを加速させ、ゴムの上で俺の指が迷子になる。下りの勾配は増すにつれ、自転車は加速し、俺の恐怖は増幅される。
レン「怖いですか?」
皓翔「怖いんじゃない。慎重なんだ」
レン「恐怖は、刃こぼれを減らすためのものですよ」
恐怖は、刃こぼれを減らすための感覚。言い換えは、力だ。
レン「うん。怖さは、刃こぼれを減らします」
俺はペダルを一段だけ踏み増す。恐怖を、慎重さに、そして、前進するためのエネルギーに変換する。雨のアスファルトが黒く光り、都市の灯りがにじむ。轍は、今の自分の速度を正直に描く。
やがて坂は終わる。俺は、平坦な道に出る。ペダルの回転を緩め、自転車を止める。
皓翔「……着いた」
レン「疲れてない?」
皓翔「……大丈夫だ」
レンがレコーダーを再生する。風、雨、チェーン、そして心拍。俺の音が、俺の外で鳴る。構造が分かると、少し怖くなくなる。
皓翔「……聴かせてくれ」
レン「どうぞ」
重ねた音は、たしかに旋律だった。俺は彼の機械から、俺の音を借りる。だから、俺は言葉で返す。
皓翔「……ありがとう」
レン「いえ。こちらこそ」
雨の匂いに、短い会話が溶ける。目的地は『灯下』だ。
ドアを押すと、暖かい空気がガラス越しの世界を切り替える。
澄実「いらっしゃい。濡れたね、タオルどうぞ」
皓翔「……ありがとう」
柔らかいタオルの匂いが、雨と入れ替わる。
澄実「コーヒー、淹れる?」
皓翔「……お願いする」
レン「ぼくもお願いします」
カウンターに座る。豆を挽く音が、室内の時間をゆっくりにする。
皓翔「……ファルコに、連絡する」
スマホを開き、通過時刻・待ち時間・天候・路面状態を送る。怒りで行くと怒りが返る。数字で行けば、数字が返る。
窓の外では、雨脚がわずかに細くなっていた。ブレーキは、やはり鳴らない。