表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/4

第1話 借りは返す、まず受け取る——湾岸の接触と『灯下』

挿絵(By みてみん)

 潮と油の匂いが混ざった初夏の風が頬を撫でる。俺、鵲宮(じゃくみや)皓翔(あきと)の自転車が刻むリズムに、湾岸のアスファルトはわずかに湿って応える。配達バッグのベルトが汗ばんだ肩に食い込み、痛みは『今日の始業』を知らせる通知だ。街という回路を縫うための、ありふれた装置だ。


 平日の朝は、退屈なほど規則的だ。車の流れ、信号の切り替わり、通勤の足取り。すべてが計算に従う。俺はその計算の一変数にすぎない。配達先がA、次がBなら最短は一つ——理屈はそう言う。


 経路は二つ。直進して急な下りを抜けるか、一ブロック迂回して緩いカーブで行くか。消費カロリー的には下りが正解。時速十五の惰性(だせい)で着く。計算は肯定(こうてい)。でも俺は、ペダルを切り返して迂回を選ぶ。理由は匂いだ。強くブレーキをかけた時に立つ、焦げた金属とゴムの混合臭。過去の転倒とセットで保存された、開けたくないファイル。理屈に勝つ嗅覚がある。感情的バイアス、と言ってもいい。


 迂回の代償は九十秒。取り返すため、交差点では最短の角度を狙う。そこで影が一つ、視界へ滑り込んだ。━━"キィ"。

 小さくブレーキが鳴く。俺がハンドルを切り、相手も身を捻る。軽微な接触。定義上は事故に含まれる、でも不幸中幸いの軽さだ。

 前輪が、相手のズボンの裾をかすめた。


 レン「ごめんなさい」


 低めの丁寧な日本語。金髪の青年は、アスファルトに落ちた金属片を拾い上げる。彼はレン・ハルベルグ。言葉をパズルみたいに一つずつ置くタイプだ。


 皓翔「……俺の不注意だ」


 経路選択のミスが接触を生んだ。原因は俺。ここで借りは俺が持つ。


 レン「いえ、ぼくの確認不足で——」


 謝罪の応酬は、温度を上げがちだ。俺の内部ルールは単純だ。借りは、返す。だからまず、誰の借りか決める。


 皓翔「こちらの責任だ」


 切った。これ以上の言い換えは無駄だ。無駄は、俺の許容範囲外。

 再スタートしようとしたとき、違和感。配達バッグのバックルが外れ、中身がわずかに揺れる。さっきの接触で金具が飛んだらしい。俺が止まると、彼はまだ立っていた。


 レン「これ、君のですか?」


 掌に錆びた金属片。俺のバックルの欠片だ。拾ってくれた。借りを返す前に、別の借りが積まれる。算術が狂う。

 レンはポケットから小さな機械を出す。フィールドレコーダーだ。


 レン「録音、してました。接触音、ちょっと面白い周波数で……」


 操作を見ていると、彼は指で角を指した。


 レン「……あ、バックルの落ちた音がしてました。この角の、あそこです」


 目で探すより先に、音で場所を言い当てる。不思議だが、実利的だ。伏線は静かに回収される。俺は欠片を回収し、短く礼を言う。


 皓翔「……借りは、返す」

 レン「返すために、まず受け取るんだよ」


 彼は微笑む。潮とは違う、遠い空気の温度を連れてくる笑いだ。レコーダーは遠いサイレンまで拾っている。俺は欠片をポケットに収め、テープでバックルを仮止めする。ざらついた粘着が指に引っかかる。


 レン「近くに、良いカフェがあるんですよ。『灯下』っていう。ガラス張りの、静かな場所です」


 寄り道はタイムロス。でも修理が先だ。理屈が頷く。


 皓翔「先にこの配達だけ済ませたい」


 レンは頷く。俺はさらに一ブロック分迂回。下りは避ける。その先で、誤作動気味の踏切の前に出た。サイレンが鳴り、遮断機(しゃだんき)が下りる。なのに電車は来ない。行列の苛立ちが増幅する。ここで俺は時刻を記録して迂回に切り替える。危険な抜け道は使わない。安全と記録が先だ。


 配達を終え、カフェ『灯下』へ。ガラスが街の喧騒を一段だけ遠ざける。焙煎豆と柑橘ピールの匂い。店主の鷺原(さぎはら)澄実(すみ)が穏やかに迎える。


 澄実「いらっしゃい。ガラス越しの会話は、熱が落ち着くんですよ」


 言葉の温度が下がる理屈を、実地で証明してくれる人だ。俺は珈琲を注文する。ほどなくドアが開き、レンが入ってくる。


 レン「先に来てたんですね」


 向かいに座ると、俺のバッグを覗き込み、透明ビニールと布ガムテープを出す。


 レン「応急処置、やっていいですか? 北欧式の簡易版です」


 手際は無駄がない。ビニールを被せ、テンションを保ったままテープで固定。指が押し切るたび、━━"ペタッ"。

 店の静けさに小さな音が刻まれる。音で直し、音で守る。彼の専門は、生活の役に立つ。


 レン「これで雨でも大丈夫。雨の予報、ありますから」


 俺は珈琲を(すす)る。焙煎の苦みが口の中の油っぽさを洗う。この香りは、街の油の匂いとは全く違う世界のものだ。レンは、その香りに似ている。


 澄実「降ってきましたね」


 ガラスの向こうで雨粒が増える。濡れたアスファルトの匂いが薄く混じる。俺は修理ヶ所を指で確かめ、立ち上がる。


 皓翔「……ありがとう。借りは、返す」

 レン「返すために、まず受け取る——ね」


 彼はわざと俺の言い方に合わせる。言葉の温度を測る人だ。ドアの前で、雨脚は一段強まる。━━"カタン"。

 折りたたみ傘の骨が開く音。


 レン「持っていってください。返さ……いや、必ず返してくださいね」


 彼は、わざとらしく言葉を途中で変えた。俺は頷いて傘を受け取る。


 皓翔「……必ず」


 外へ出る。雨は街全体の速度をほんの少し落とす。俺には都合がいい遅さだ。修理したバッグは乾いたまま。粘着が湿気に負けないうちに、次へ。

 メッセージが震える。差出人は、配達仲間の砂守(すなもり)煌羽(こうう)


 煌羽「近所の踏切、おかしくない? さっき十数分開かなかった」


 敏感で、要点が速い。俺は先ほどの誤作動を思い出す。


 皓翔「海側の下りは速いが、今は避けた方が良い」

 煌羽「私は迂回した。サイレン鳴って遮断機下りたのに、電車来ない」

 皓翔「了解」


 必要な情報だけで会話は閉じる。これも貸し借りだ。情報の貸し、警戒の借り。

 もう一件。留学生会計係、ファルコ・リヴェントから。


 ファルコ「データ共有。あの踏切、過去一ヶ月の誤作動は週三の平均。今日は既に二回。異常値だ」


 彼のメッセージは、数字だ。客観的で、冷たい。だが、その数字が、問題の深刻さを物語っている。


 皓翔「誰に報告してる?」

 ファルコ「まずは集計だ。サンプルを増やす。君も記録を——通過時刻、待ち時間、天候。これで足りる」

 皓翔「わかった」

 ファルコ「数字は、嘘をつかない。だからこそ、信用できる」


 彼は、そう言って、メッセージを終えた。レンのレコーダー、俺の時刻メモ、煌羽の現場感覚、ファルコの表——偶然に見える必然ほど、説明書きが要る。

 俺はハンドルを握り直す。雨はまだ強い。けれど、ブレーキは鳴かない。


 皓翔「……返す。傘も、借りも、順番も」


 独白という名の、次の約束だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ