第1話 借りは返す、まず受け取る——湾岸の接触と『灯下』
潮と油の匂いが混ざった初夏の風が頬を撫でる。俺、鵲宮皓翔の自転車が刻むリズムに、湾岸のアスファルトはわずかに湿って応える。配達バッグのベルトが汗ばんだ肩に食い込み、痛みは『今日の始業』を知らせる通知だ。街という回路を縫うための、ありふれた装置だ。
平日の朝は、退屈なほど規則的だ。車の流れ、信号の切り替わり、通勤の足取り。すべてが計算に従う。俺はその計算の一変数にすぎない。配達先がA、次がBなら最短は一つ——理屈はそう言う。
経路は二つ。直進して急な下りを抜けるか、一ブロック迂回して緩いカーブで行くか。消費カロリー的には下りが正解。時速十五の惰性で着く。計算は肯定。でも俺は、ペダルを切り返して迂回を選ぶ。理由は匂いだ。強くブレーキをかけた時に立つ、焦げた金属とゴムの混合臭。過去の転倒とセットで保存された、開けたくないファイル。理屈に勝つ嗅覚がある。感情的バイアス、と言ってもいい。
迂回の代償は九十秒。取り返すため、交差点では最短の角度を狙う。そこで影が一つ、視界へ滑り込んだ。━━"キィ"。
小さくブレーキが鳴く。俺がハンドルを切り、相手も身を捻る。軽微な接触。定義上は事故に含まれる、でも不幸中幸いの軽さだ。
前輪が、相手のズボンの裾をかすめた。
レン「ごめんなさい」
低めの丁寧な日本語。金髪の青年は、アスファルトに落ちた金属片を拾い上げる。彼はレン・ハルベルグ。言葉をパズルみたいに一つずつ置くタイプだ。
皓翔「……俺の不注意だ」
経路選択のミスが接触を生んだ。原因は俺。ここで借りは俺が持つ。
レン「いえ、ぼくの確認不足で——」
謝罪の応酬は、温度を上げがちだ。俺の内部ルールは単純だ。借りは、返す。だからまず、誰の借りか決める。
皓翔「こちらの責任だ」
切った。これ以上の言い換えは無駄だ。無駄は、俺の許容範囲外。
再スタートしようとしたとき、違和感。配達バッグのバックルが外れ、中身がわずかに揺れる。さっきの接触で金具が飛んだらしい。俺が止まると、彼はまだ立っていた。
レン「これ、君のですか?」
掌に錆びた金属片。俺のバックルの欠片だ。拾ってくれた。借りを返す前に、別の借りが積まれる。算術が狂う。
レンはポケットから小さな機械を出す。フィールドレコーダーだ。
レン「録音、してました。接触音、ちょっと面白い周波数で……」
操作を見ていると、彼は指で角を指した。
レン「……あ、バックルの落ちた音がしてました。この角の、あそこです」
目で探すより先に、音で場所を言い当てる。不思議だが、実利的だ。伏線は静かに回収される。俺は欠片を回収し、短く礼を言う。
皓翔「……借りは、返す」
レン「返すために、まず受け取るんだよ」
彼は微笑む。潮とは違う、遠い空気の温度を連れてくる笑いだ。レコーダーは遠いサイレンまで拾っている。俺は欠片をポケットに収め、テープでバックルを仮止めする。ざらついた粘着が指に引っかかる。
レン「近くに、良いカフェがあるんですよ。『灯下』っていう。ガラス張りの、静かな場所です」
寄り道はタイムロス。でも修理が先だ。理屈が頷く。
皓翔「先にこの配達だけ済ませたい」
レンは頷く。俺はさらに一ブロック分迂回。下りは避ける。その先で、誤作動気味の踏切の前に出た。サイレンが鳴り、遮断機が下りる。なのに電車は来ない。行列の苛立ちが増幅する。ここで俺は時刻を記録して迂回に切り替える。危険な抜け道は使わない。安全と記録が先だ。
配達を終え、カフェ『灯下』へ。ガラスが街の喧騒を一段だけ遠ざける。焙煎豆と柑橘ピールの匂い。店主の鷺原澄実が穏やかに迎える。
澄実「いらっしゃい。ガラス越しの会話は、熱が落ち着くんですよ」
言葉の温度が下がる理屈を、実地で証明してくれる人だ。俺は珈琲を注文する。ほどなくドアが開き、レンが入ってくる。
レン「先に来てたんですね」
向かいに座ると、俺のバッグを覗き込み、透明ビニールと布ガムテープを出す。
レン「応急処置、やっていいですか? 北欧式の簡易版です」
手際は無駄がない。ビニールを被せ、テンションを保ったままテープで固定。指が押し切るたび、━━"ペタッ"。
店の静けさに小さな音が刻まれる。音で直し、音で守る。彼の専門は、生活の役に立つ。
レン「これで雨でも大丈夫。雨の予報、ありますから」
俺は珈琲を啜る。焙煎の苦みが口の中の油っぽさを洗う。この香りは、街の油の匂いとは全く違う世界のものだ。レンは、その香りに似ている。
澄実「降ってきましたね」
ガラスの向こうで雨粒が増える。濡れたアスファルトの匂いが薄く混じる。俺は修理ヶ所を指で確かめ、立ち上がる。
皓翔「……ありがとう。借りは、返す」
レン「返すために、まず受け取る——ね」
彼はわざと俺の言い方に合わせる。言葉の温度を測る人だ。ドアの前で、雨脚は一段強まる。━━"カタン"。
折りたたみ傘の骨が開く音。
レン「持っていってください。返さ……いや、必ず返してくださいね」
彼は、わざとらしく言葉を途中で変えた。俺は頷いて傘を受け取る。
皓翔「……必ず」
外へ出る。雨は街全体の速度をほんの少し落とす。俺には都合がいい遅さだ。修理したバッグは乾いたまま。粘着が湿気に負けないうちに、次へ。
メッセージが震える。差出人は、配達仲間の砂守煌羽。
煌羽「近所の踏切、おかしくない? さっき十数分開かなかった」
敏感で、要点が速い。俺は先ほどの誤作動を思い出す。
皓翔「海側の下りは速いが、今は避けた方が良い」
煌羽「私は迂回した。サイレン鳴って遮断機下りたのに、電車来ない」
皓翔「了解」
必要な情報だけで会話は閉じる。これも貸し借りだ。情報の貸し、警戒の借り。
もう一件。留学生会計係、ファルコ・リヴェントから。
ファルコ「データ共有。あの踏切、過去一ヶ月の誤作動は週三の平均。今日は既に二回。異常値だ」
彼のメッセージは、数字だ。客観的で、冷たい。だが、その数字が、問題の深刻さを物語っている。
皓翔「誰に報告してる?」
ファルコ「まずは集計だ。サンプルを増やす。君も記録を——通過時刻、待ち時間、天候。これで足りる」
皓翔「わかった」
ファルコ「数字は、嘘をつかない。だからこそ、信用できる」
彼は、そう言って、メッセージを終えた。レンのレコーダー、俺の時刻メモ、煌羽の現場感覚、ファルコの表——偶然に見える必然ほど、説明書きが要る。
俺はハンドルを握り直す。雨はまだ強い。けれど、ブレーキは鳴かない。
皓翔「……返す。傘も、借りも、順番も」
独白という名の、次の約束だ。