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29

 それから僕は遊園地の隅にあるベンチに座った。


 理想の人の元に行こうとは思えなかった。彼女の元に行くなはなんだか、月野に悪い気がしたから。


 スマホを取り出して、月野の連絡先を消去する。途中で変な気を起こして彼女に連絡するわけにはいかない。


「あー」と呟いてからベンチに体重をかけ、崩れるように空を見上げた。


 雲はどこまでも高く、空に伸びている。今日の空は、月野の義眼みたいに青く澄んでいて綺麗だった。その青さが、目に染みた。


 目に染みて染みて仕方ない。


 その光から逃げるように、僕は目を瞑った。


 瞼の裏側には、月野と過ごした日々が映っている。思考を止めようにも、映像を消そうとしても、その記憶は止めどなく溢れてくる。どうしようもないくらい、月野との思い出が流れてくる。


 これで、良かったのだろうか。一瞬そんな考えが浮かんだ。でも、すぐに振り払う。


 仕方なかったんだ。こうするしかなかった。月野の幸せを考えたら、こうするのが一番だったんだ。


「ねえ、なんで泣いてるの?」


 その時、頭上から声が降ってきた。忘れるはずがない。その声に、胸が震えてしまう。そんな自分が、酷く嫌だった。


 つぅ、と頬を伝っていた涙をぬぐってから、僕は目を開けた。そこには理想のあの子が、僕を覗き込むようにして立っている。彼女は僕を見てから、ぱぁっと表情を輝かせた。まさに向日葵のようなという表現が似合う笑顔だった。


「サンタくん……だよね?」


 サンタくん。なんだか、その呼ばれ方が物凄くしっくりと来た。でも、どうしてだろう。そう思わされているような気がする。


「そう、だよ」


「本当に、サンタくん……なんだよね?」


「うん」


 そう答えると、彼女は僕に飛びついてきた。


「わー! 本当にサンタくんなんだ! 良かった! 君を見つけられて、本当に良かったよ! 私、君をずっと待ってたんだよ!」


 目の前ではしゃぎ回る彼女を見て、胸が熱くなったのは確かだ。だけど、何かが足りない。その何かが何なのかなんて、考えたくもない。


「そっか……そうなんだね」


 僕も君に会いたくて会いたくて仕方なかった。でも、胸にぽっかりと空いた穴は埋まってくれない。一度満たされていた想いが、流れ出ていくのが分かった。


「あれ、もしかして、覚えてない? 私だよ、ほら、黄瀬百合子って、分からない?」


 僕の反応が悪いからだろうか、彼女は少し不安そうな表情で聞いてくる。キセユリコ。ああ、確かにそんな名前だったかもしれない。


「覚えてるよ。名前は今、思い出したけどね」

「あ、そっか……良かったぁ」


 彼女は安心したように胸に手を当ててからへなへなと僕の隣に座り込んだ。


「じゃ、行こ!」


「どこに?」


「そりゃあ、私達の家にだよ」


 そう言って、彼女は僕の手を引いていく。僕達はあっさりと遊園地を出て、黄瀬が住んでいるらしい家に向かった。僕は吸い込まれるようにして、彼女の家へと上がり込んだ。アパートの二階にある、一番奥の部屋だ。


「どう? 懐かしいでしょ」


 そこは綺麗に整えられた部屋だった。廊下を超えた先にリビングがあり、そのリビングには薄ピンクのカーペットが引かれている。その上に小さなテーブルとソファが置いてあった。カーペットの奥には彼女が寝ているベッドがある。


 それは確かに、僕の心が求めていた部屋だった。かつて一緒に暮らしていた部屋は、こんな感じだった筈だ。でも、じゃあ、僕の部屋にあったあの歯ブラシや服はいったいなんなんだよ。


「私、サンタくんがいつ来てもいいように、サンタくんのものをずっと残してたんだよ」


 洗面台の歯ブラシの色も、コップの色も、僕が使っていたものと同じだ。棚に置かれている煙草の銘柄も、ライターの色だって以前僕のよく使っていたものと同じだった。この家には確かに、僕の残り香があった。でも僕は彼女のために、禁煙を決意したはずだったのだ。


「サンタくんはさ、今日、お昼ご飯食べたりした?」


「いや、まだ食べてないよ」


 時計を見ると、もう昼の三時過ぎだった。月野が死ぬまで、後九時間しかない。目の前に黄瀬がいるのに、そんなことを考えてしまう。


「もうとっくにお昼過ぎちゃったけど、私も食べてないんだよね。ちょっと遅いけどお昼ご飯にしよっか」


 そう言って彼女は台所に向かった。正直食欲は全くなかったけれど、彼女の好意を無為にすることはできない。


 僕は「ありがとう」とだけ言って、エプロンを付ける彼女の後ろ姿を眺めていた。じゅうじゅうと心地よい音が鳴り、いい香りが鼻腔をくすぐる。


 料理をする時の立ち振る舞いや、髪を耳にかける仕草の一つ一つが、僕の微かな記憶と一致する。


「はい。どうぞ」


 ことん、とテーブルに食器が置かれる。とろとろの、ビーフシチューオムライスだった。


「食べてみてよ」


「うん。いただきます」


 スプーンで一口すくって、口へ運んだ。ほっぺたが落ちるとはこのことなんだな、と僕は思った。なんだかもう、気を抜いたら涙が出てきそうな味だ。この味は間違いなく、彼女のものだった。


 でも、心は満たされていかない。


「どう? 懐かしいでしょ?」


 黄瀬はテーブルに肘をついて笑いながら僕を見る。


「ああ、凄く懐かしい」


 僕は何度も何度もスプーンですくって、オムライスを口に運んだ。一心不乱に、オムライスを食べた。胸の中が満たされますようにと祈りながら、度も何度も。


「もー。そんなにがっつかなくてもまた作ってあげるよ」


 彼女は嬉しそうに笑っている。


 もう、何も考えなくていい。ただ、目の前の黄瀬のことだけを考えていればいいんだ。そうすれば、僕は幸せになれるんだよ。月野だって、今は幸せなはずなんだから。それでいいじゃないか。


「音楽かけよっか」


 昔も二人でこうやって曲を聴いたよね。彼女はそう言いながら、棚に並べられたCDの元まで歩いていく。 


 棚の中に並べられた音楽は、僕の家にあるCDとは違っていた。彼女が置いていったはずの音楽とは全く違うCDが並んでいる。


 そこにはYOASOBIの『THE BOOK』ずっと真夜中でいいのに。の『ぐされ』RADWIMPSの『おかずのごはん』SEKAI NO OWARIの『Tree』などのアルバムが入っている。


「うーん。じゃあ、YOASOBIでも聞こうかな」

 彼女はそう言って『THE BOOK』をカセットに入れてスイッチを押した。


 緩やかなインスト曲が流れてから『アンコール』が流れ出す。よりにもよって『アンコール』だった。


 黄瀬はテーブルに戻って、体を揺すりながら歌い始めた。


 明日世界は終わるんだって

 君にはもう会えないんだって


 僕は心を無にして、スプーンを動かす。


 またいつかって手を振ったって

 叶わないんだよ仕方ないね


 何も考えずに、ひたすら食事を続けた。それでも、自然と月野のことを考えてしまった。月野のことが頭に思い浮かんでは消えていく。彼女と過ごした日々が、繰り返し繰り返し脳裏をかすめていく。 


 今日、僕達の世界は終わる。そして、月野も死ぬ。僕はもう月野には会えない。最後に手を振ることもできていない。僕は最後、月野の背中を押してしまった。


 もう、自分を騙すのも限界だった。僕は、できることなら月野の元へ行きたい。月野と一緒に最後の瞬間を迎えたい。それはもう、争い難い欲求だった。 


 後九時間で、月野は死ぬ。その最後の瞬間まで彼女の隣にいたい。彼女を支えたい。でも、それは僕のエゴだ。僕なんかの欲求のせいで、月野の幸せを邪魔するわけにはいかない。 


 彼女は今、狂おしいほど望んでいた人と再会したばかりなのだ。その最後のかけがえのない時間を壊すことなんて、できない。できるわけがない。


 目の前では、黄瀬が美味しそうにビーフシチューオムライスを食べている。彼女の前でこんなことを考えてしまうのが申しわけなかった。

 それから僕は月野のことを極力考えないようにして、時間を潰して過ごした。月野の存在は時間が解決してくれると、そう、信じて。 


 でも、頭の中から月野は消えてくれなかった。


 これからこの世界が壊れて、彼女は死ぬ。


 僕と黄瀬は元の世界に帰って、失われた時間を取り戻すように日々を過ごしていく。そうしているうちに、僕の中から月野の記憶が薄れていく。いつしか僕にとって月野は過去の人になって、そんなこともあったな、なんて、軽い感傷に浸る程度の存在になる。 


 そういう世界がきっと、僕の前には広がっている。 


 そんなクソみたいな世界が、僕の前に用意されている。


 月野ユキが消えてしまった世界で、僕は彼女じゃない女の子の隣にいる。そんな世界を、僕は、生きていくんだ。


 生きていくしかないんだ。

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