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 家に辿り着くと、月野は無言で玄関を開けた。彼女の家は西洋風の美しい家だった。一見すると幸せそうな一般家庭に見えてしまいそうなくらいには、見栄えがいい。


 家の中に入ると、月野が言っていたように腐敗したような酷い悪臭がした。


「こちらです」


 彼女が案内した先、フローリングの廊下の一番奥に、洗面所はあった。


 そこに近づくにつれ、匂いがキツくなる。刃物のように鋭い匂いが、鼻孔を突き刺している。


「僕が先に行こう」


 人魚の死体を、常田に見せるわけにはいかない。一番先に確認しようと思い、洗面所の曇り扉を開けて風呂の中へ入った。


「うっ……」


 そこに広がる惨劇を目の当たりにして、僕は思わず口元に手を当ててしまった。


「どうなってるんだ?」


 常田が横から割り込もうとするのを、僕は引き止めた。


「常田、見ない方が……」


「いや、大丈夫だ」


 常田は僕を無理やり押し除け、浴槽に顔を覗かせた。そこには、昼間見たばかりのショートボブの人魚が無惨な死体となって転がっている。


 刃物で刺されたのだろうか、人魚は胸の中央から下腹部あたりまで深く切り裂かれていた。浴槽の壁一面にべっとりとついた鮮血が、その悲惨さを物語っている。


「ちくしょう……」


 ギリリ、と歯軋りの音が聞こえる。血が滲みそうなほど、常田はぎゅっと拳を握りしめた。


「父の部屋はこちらです」


 月野は親父の部屋の前まで僕らを案内し、一度目を瞑った。そして、覚悟を決めたように開く。


 彼女の後に続いて部屋に入ると、トドのように太った男がイビキをかいて気持ち良さそうに眠っていた。


「なんだよこれ」


 その部屋の異様さに、僕は思わず声を出してしまった。父親の部屋。そこは、一言で表すと「異常」だった。


 まず、壁一面に生き物の死体の写真が貼られている。そうして、棚の上にはホルマリン漬けにされた生き物の死体が並んでいた。


 それだけでも最低だというのに、それらを超えるものが部屋の壁に飾ってあった。


 恐らくそれは、前の世界から引き継いでこの世界に持ち込まれたものなのだろう。だから、月野からその記憶は消えなかった。額縁に飾られたその写真には、幼い月野が、右目を押さえて叫んでいる姿が映っている。彼女は眼球から血をボタボタと垂らし、苦悶の表情を浮かべている。


 この写真をどんな気持ちで撮影して、どんな心境で額縁に飾ったのだろうか。そして、それを見せられる月野は、どんな思いだったのだろうか。それを想像するだけで、腹の中が煮えくり帰りそうになった。


 常田は部屋に入り、その光景を一通り見て「チッ」と舌打ちした。


「ひどい趣味だな」


 そして最後に、額縁の写真に視線を向ける。それから彼女の右目を見て、色々と察したのだろう。


「悪いけど、まずは俺にやらせてくれ」


「ええ、大丈夫です」


 言ってから、月野は右目を手で押さえた。様々な感情が込められた動作だった。


「ああ、悪いな」


 常田は親父の布団を剥ぎ取って、彼の足元にしゃがみ込んだ。そして包丁を振り上げて、親父の太もも目掛けて振り下ろす。


 絶叫が響き渡った。咄嗟に上半身を起こした父親が、自分の右足を見て更に叫び声をあげた。


「あああ! なんだこれは!」


 そんな彼の様子を、その場にいた誰もが冷めた目で見ている。


「ユキか!?」


 親父は月野を見て顔を更に顔を歪めた。


「お前、復讐しに来たのか! こいつらはいったい誰なんだ」


「うるせえよ」


 常田はそのまま両足のアキレス腱に包丁を刺した。ブチン! と輪ゴムの弾けるような音が響き渡る。


「俺らが誰かなんて、関係ないだろ」


 ぎゃあぎゃあと叫ぶ父親に馬乗りになった常田は、今度は彼の胸に包丁を突き刺した。そして、すいーっと下腹部まで裂いていく。


 常田は目を瞑りながら作業を行なっていた。彼の瞼の裏には人魚と過ごした時間が映っているのだろうか。それとも、最後の死体を思い出しているのだろうか。


 血飛沫が常田の体を真っ赤に染め上げていく。彼は目を開けて苦痛に顔を歪める父親を見てから立ち上がると、包丁の刃先を自分に向けて月野に手渡した。


「やるか? 俺はもういいよ。色々と思うところは、あるんだろ?」


 彼女はその包丁を黙って見てから、こくりと頷いた。


 そうして、震える手で包丁を受け取る。


 刃物は自分の目を潰した。刃物で動物の死体を調理した。そりゃあ、先端恐怖症になったって不思議じゃない。


 その刃物で、自分を苦しめた男を殺したら、その呪縛から解き放たれるだろうか。


 月野は「あははっ」と笑ってから、父親の上に立った。


「ユキ……俺が悪かった。頼む……許してくれ」


 彼女は父親の懇願を無視して右側に流していた髪の毛をかき上げた。そのガラスのように、いや、文字通りガラス玉の美しい瞳で彼をマジマジと見つめてから、包丁を振り上げる。


 その時、僕は星の骸が言っていたことを思い出した。


『これは君達への道標になっているんだよ』


 あの言葉の意味は、こういうことだったのだろう。月野ユキの手によって、父親を殺させるという復讐行為に繋がっていたのだ。


 父親は月野の表情に全てを悟ったのか、声にならない声を上げて逃げようとした。だが、足が動かない。彼は無様にも、裂かれた腹から臓器を垂らして床を這った。


 月野はどん、と脇腹を蹴って、父親を再び仰向けに戻す。 


 そうして首元にしゃがみ込み、包丁を振り下ろした。父親の右目目掛けて。何度も、何度も。


 父親は、喉が張り裂けんばかりに叫んでいる。それに呼応するように、何度も何度も包丁を突き刺す。 


 そのうちビクンビクンと親父の手が痙攣しはじめた。でも、月野は刺すのを辞めない。父の命の灯火が消えるその瞬間まで、痛みを与え続けるつもりのようだ。次第に彼は動かなくなった。


 家の異変に気が付いたのか、恐る恐るといった様子で部屋の扉が開けられた。そこから顔を覗かせているのは、恐らく、月野の妹だ。


 頬までべっとりと返り血に染まった月野は眉一つ動かさずに立ち上がると、部屋の扉目掛けて包丁を投げた。


「消えて」


 包丁は扉に刺さり、妹は「ひっ」と頬を引き攣らせる。


 月野は頬についた血を拭ってから、僕達に視線を向けた。


「行きましょう」


 そう言った彼女の姿はなんだか神秘的だった。血に塗れ肩で息をしている姿はお世辞にも綺麗だとは言えない。しかし、絵画の中の人物のような神聖さを彼女は孕んでいるように見える。


 気を抜いたら心を奪われてしまいそうだった。或いはもう、僕は彼女に心を奪われているのかもしれない。

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