第二章 私の命の速さ #9
あの子はとても美しい娘でした。
私達の村の″祈りの間″に勤める精霊助師の両親の元へ生まれ、一番敬虔な使徒として村の皆に愛されて育ったんです。
黄金色に輝く髪と深い湖を思わせる瞳を持つその姿そのものが妖精のようで、誰しも心惹かれずにはいられませんでした。
私はあの子の家の隣に住んでおり、私達夫婦に子どもがいなかったこともあり、とりわけあの子を気にかけていました。
忙しい両親に代わって本を読み聞かせたり、畑仕事を教えたり‥あの子の母も″私より母親らしい″と言ってくれたほどです。
あの子が日々成長していく姿が私の生きる糧であり、また村の宝でもあったのです。
だから…誰もあんな事になるなんて思っていなかったのです。
あの日の事は一生忘れられそうにありません…今も時々夢に見ます。
あの時…足がすくんで動けなかった自分を恨んでいます。あの時、あの子をかばってあげられたら何か違っていたのかも…そういった気持ちがずっと私の中に積もり続けています。
風の噂で‥‥あの子は森で魔女となって生きているというのです。
東の森は昔から近付いてはいけない‥妖精が住んでいるとか、また魔物が棲みついているとか、色々な言い伝えがあるのです。
そんな森で、あの子がどう生きているのか…
私に何か出来る事はないのか、でも森へ行こうとすると誰かしらが止めるのです。
あの子のために何もしてあげられない自分など必要ないのではと何度も思いました。でも‥自ら命を絶つ事は精霊の教えに背く大きな罪です。
私は…とても無力な人間だったのだと、あの子のいない日々に思い知らされるのです。
あの日から半年ほど後の、そろそろ冬が訪れようかという頃…私は次の春を迎えるために畑に肥料を撒いたり、家の隣にあるかつて夫が使っていた工房で花の苗を育てる日々を送っていました。
あの子のことを思い出さない日なんてありません。
胸の痛みを誤魔化すため、私はかつてないほど作業に没頭していました。
でも…何をしていても同じでした。なぜなら‥、すぐ隣に立つあの子の家の燃えた跡が目に入るからです。
あの子がいなくなり、その日の夜にあの子の家は燃えました。あの子の両親と共に…
私の家も炎にあぶられて、屋根が煤で黒くなっています。
気を使ってくれた隣人の皆さんが屋根をきれいにしましょうと声をかけてくれましたが、私は断りました。
屋根をきれいにしたところで私の心は同じようにはならないのです。
あの子の家の跡地はほとんど手がつけられていないままでした。
皆…あの子の一家に世話になっていたはずなのに、あんな事になってからは口に出すことさえ忌み嫌う。
私の胸の痛みはおさまらず、お医者様に出していただいた薬を飲みやっと眠りにつく日々が続いていました。
美しくて懐かしい虫達の鳴き声。星空はこんなに広かっただろうか。
子ども達を寝かしつけた後、私は森へと逃げて以来初めて村へ戻ってきた。 夜の闇に紛れながら、鬼ごっこですらこんなに必死になったことはなく移動し続けた。
灯りの消えた見知った家達、露店の広場、祈りの間…
今まで夜に出歩くことも、道の端を歩くこともなかった。
出そうになる涙を必死に飲み込んで、私は生まれ育った家へ急ぐ。今は泣くべきじゃないんだ。
「… …家、は、お母さん…お父さん、は… … …」
私はもう寝付こうとして、いつもの癖で窓際に近寄り、あの子の燃えた家の跡を眺めていました。
そこに、確かに…雲から覗くわずかな月の光に照らされて、あの子が立っていました。
後ろ姿と、少し見える横顔は間違いなくあの子です。
大きな声を出しそうになるのを抑え、ゆっくり扉を開けてあの子の元へ向かいます。
あの子の姿がよりはっきりと見えるところに来た時、あの子が振り返りました。
「アリシスさん…」
今まで見たことのなかった顔でした。月の光のせいか、もとの白さがより増したのか、顔も腕も青白く見えます。
「ウィリアン…」
「… … …私の家は…両親は…」
私はウィリアンへと近付き、強く抱きしめました。
「………あなたの両親は…もう…ごめんなさい、何も出来なかったの…」
私より背の高いウィリアンの涙が私の髪へ次々に落ちてきて、私はもうこの子を逃さないように、強く抱きしめ続けました。
「ウィリアン、あなただけは無事でよかった…」
泣いていたのが少し落ち着いたウィリアンを、外では近所の人達に見つかるといけないので私の家へ入れて、ランプを置いたテーブルへと座らせました。
ひざ掛けを渡して、ウィリアンから目を離さないようにしながらお茶の準備をしている時…やはり照らされたランプの灯りの元でもこの子は青白く見える…と思いました。
「どうして私の家は燃えたんですか」
ウィリアンが私の目を見ないまま問いかけてきました。
「……あなたがいなくなったことを知らせようとした村の人達が、あなたの家へ行った時にはもう…」
「………」
「………ミルクは入れる?」
「‥はい‥」
そう声を掛けた時だけ、ウィリアンは微笑んだような気がしました。
「…ねえ…今どこに住んでいるの?」
「…異国の旅の人に助けられて…その人の元で暮らしています」
「異国の人…」
嫌な予感がしました。考えたくはないけれど……娼婦のようなこともしているのではないかと…
「(ウィリアン…)」
けれど、きけるはずなどありません…
私には、責める権利もありませんし、こうしてもう一度会えたことを精霊に感謝しなければいけないのです。
「あっ!」
連日の寝不足の疲労のせいで、ウィリアンにお茶を運ぼうとしていた途中で私は転んでしまいました。
「アリシスさん!」
ウィリアンはすぐに駆け寄ってきて、私を支えて起こしてくれました。
「大丈夫ですか?」
「ええ…少し脛を打ったかしら…!」
よくみると割れたティーカップで少し手のひらを切っていました。 ウィリアンもそれに気づいて、その時とても悲しそうな顔をして「薬箱は?」と訊いてきました。
私もまるで…あの日のことが過ぎりました。
「大丈夫…一人で出来るわ‥」
「この戸棚? 前と変わってないのね‥」
私はさっきまでウィリアンが座っていた席に座らされて、ウィリアンに手当てされました。
「‥あの時もこうしていればよかったですね。」
「…」
目の前が涙でにじんで、一粒ウィリアンの手に落としてしまいました。
ウィリアンはさっと立ち上がって、薬箱を片付けて、後ろの割れた食器を片付け始めました。
……昔ならこんな時必ずなぐさめてくれたのに……
ウィリアンは‥私の知っていたあの子は‥もうどこにもいないのかもしれません……
「破片は流しに置いてます。アリシスさん、…私の両親の墓に案内してくれませんか」
考え込んでいたら片付け終わったウィリアンが側に来ました。
「あっ、ええ…そうね‥お茶、もう一度入れるわね‥」
「‥帰ってから、頂きます。」
顔を上げた私を…私が会ったことのないウィリアンが‥見つめていました。
ウィリアンの家があった場所のすぐ近くの林に入って、私はウィリアンの少し前を歩いていました。
「…村の共同墓地じゃないんですね」
「……」
私の胸はまた痛みを告げていました。
――木々がより密集して生えていて‥月明りはわずかしか届かない場所に建っている名前が刻まれていない墓石達の中に…ウィリアンの両親の墓はあります。
「…ここは…罪人の墓地ですよね」
「……」
「‥この墓ですか?……あまり汚れてない…アリシスさんが手入れを?」
「ええ…」
ウィリアンは黙って私に寄りかかってくれました。私は昔のようにウィリアンの頭をなでました。
「お父さん…お母さん…ただいま。」
ウィリアンは出掛ける前に持たせた花を置き、グラスへ注いだワインを両親のお墓に供えました。
本当は何か声を掛けたいのですが、今は黙って見守ります。
そのままじっと座り続けたかと思うと、おもむろに供えたワインを手に取って飲み干しました。
一杯だけかと思って見ていますと、またボトルから注いで飲もうとしていたので止めました。
「アリシスさんも飲みませんか」
ウィリアンはいたずらっぽく笑いながら私を見ました。 その表情は昔と変わらないのに‥目に光がありませんでした。
そこに、私は‥この子なりに私を気遣って励まそうとしているのだと察しました。
「頂くわ…」
ウィリアンは誰よりも優しいのです。その優しい心が誰よりも傷ついていても、いつも他の者を思い遣るのです。
それから私達は、なんてないひとりごとのような会話を交わしながら最後の一杯をお墓に供えるまで、一緒に過ごしました。
「う゛っ…はあっ…」
「大丈夫ですか?」
私は普段お酒を飲みません。でも今日は嬉しくて飲み過ぎてしまって、帰る途中で足元がふらついてうまく歩けませんでした。するとウィリアンは私の目の前でじゃがんで背中を向けました。
「どうぞ、乗って下さい。」
「…いくらウィリアンが大きくなったからって、私を背負うのは無理よ。」
「じゃあ肩を貸します。」
そっとこの子の肩に手をまわしました。
――私には自分の子どもはいません。
でも一人の子どもの成長をここまで見守ってこられたことを、今ほど精霊に感謝した瞬間はありませんでした。
戻ってくるとウィリアンは、自分の家があった場所に佇んで動こうとしませんでした。
…私はそのウィリアンの表情を見ても何を考えているか分かりませんでした。
「ウィリアン…私の家へ戻りましょう。」
「いえ…もう帰ります。」
「帰るって…」
「…子どもが待っているんです」
「子どもっ!?」
「私が産んだ子どもではないですけど…今の私の、唯一の家族です。」
「家族…」
やっぱり愛人がいて、その子ども?疑問がまた浮かんでも、私にはやはり訊く勇気がありませんでした。
「それなら…その子も連れて来て! 三人で一緒に暮らしましょう!」
「それは無理です…私がアリシスさんのところへ戻ってきたことが村の人間にばれたら…アリシスさんもどんな目にあわされるかわかりません。」
「そんな‥村の人達は優しいわ、大丈夫よ!」
「私が今もこんな目に遭っているのに?」
「… … …」
「私はアリシスさんのこと、愛してます。でも‥私は村から追放されました。 あの時の皆を見た時、私はもう魔女で、人間とすら思われていないのを肌で感じました。だから、私は…‥」
「私に、‥してあげられることは…ないの?…」
「‥ありません」
「ねぇ、ウィリアン…あなたは、家族に愛されている?」
「…はい」
「……。‥待ってて!すぐ戻ってくるから!」
私はウィリアンの返事も待たずに私の家へ引き返しました。
家に入るとすぐに戸棚のジャムの瓶をいくつも手に取って、麻袋へ入れます。
―もしかしてとウィリアンの気が変わることを期待したのではありません。
たとえ、愛されているかと訊かれて、それにつらそうな顔でも、はいと答えたあの子の信念のようなものに…背中を押したかっただけなのかもしれません。
急いでウィリアンの家の跡に戻ると、あの子は逃げずに待っていてくれました。
「はあ…ウィリアン。これ、私がつくったジャムよ。子どもにも食べさせてあげて」
「ありがとうございます。アリシスさん…」
ウィリアンは渡した麻袋を抱きしめて、少し泣いていました。
子どもの頃は、友達とおやつの取り合いをしていたこの子が‥こんな‥愛に満ちた涙を流せるようになるなんて…
「もう行きます…アリシスさん、さようなら」
「嫌になったら‥いつでも戻ってきて‥!」
ウィリアンは抱きしめた私の腕を強く掴んできました。
「もう戻りません」
最後に私の顔を覗き込んで微笑むと、私の腕の中から離れて森へと続く道へ消えてゆきました。




