王子は言う。婚約破棄して破滅した夢を見たと。
「エリザベート、僕は君との婚約を――……」
王宮での舞踏会。
婚約者である侯爵令嬢エリザベートではなく、男爵令嬢のアンリエッタをエスコートして現れたクロード王子は、エリザベートを睨みながら高らかに――……
何かを言おうとしていたが、決定的な言葉はいつまでも出てこなかった。
「……体調が優れない。失礼する」
「えっ? クロード様?」
王子と腕を組み誇らしげに微笑んでいたアンリエッタの腕をほどいて、とぼとぼと王子一人で退室していく。
エリザベートはぽかんとしながらその姿を見送った。
アンリエッタも、大広間にいた貴族たちも、同様にぽかんとしていた。
王子がいなくなっても舞踏会は続く。
音楽隊の演奏を聞きながらエリザベートはバルコニーで一人悶々としていた。
「いったいどうなっているのかしら……」
男爵令嬢アンリエッタとクロード王子の仲はエリザベートも知っていた。
王子はアンリエッタを側室にするつもりだと思い、エリザベートは王宮の習わしやマナーを事あるごとに伝えていた。
「大丈夫かい? エリー」
バルコニーで佇むエリザベートに声をかけてくる男性がいた。
「ディオン様……」
ディオン王弟。
エリザベートの未来の叔父となる予定の人物で、小さい頃からエリザベートにとても良くしてくれた。
三十五歳にも関わらず若いころからとても美形で、マダムにもマドモアゼルにも人気があり、だが独身を貫いている。どうやら心に決めた人がいると噂されている。
「聞いたよ。婚約破棄だなんて、あいつはいったい何を考えているのか……だが安心してくれ。これからは私が君を守り支えよう」
「……何をおっしゃっているのですか、ディオン様。わたくしは婚約破棄なんてされていませんが」
「え?」
「失礼します」
エリザベートはそそくさとバルコニーから出る。
(なんて失礼なのかしら! わたくしがクロード様に婚約破棄されただなんて!)
いくら親しい間柄とはいっても、言っていいことと悪いことがある。
婚約破棄だなんて、そんな事実はない。
だが、もしかしたらクロード王子はあの時エリザベートに婚約破棄を言い渡すつもりだったのかもしれない。アンリエッタをエスコートしていたのも、そのつもりだったからなのかもしれない。
そしてそれを事前に叔父であるディオン王弟に相談していたのかもしれない。
エリザベートはそこまで考えて、決断した。
――本人に話を聞きに行くしかない。
「どういうつもりでしょうか」
クロード王子の部屋に突撃したエリザベートは、ほとんど強引に部屋の中に入りクロード王子に詰め寄った。
「本日のパーティでわたくしではなくアンリエッタさんをエスコートされたことも。彼女を庇いながら何かを宣言しようとしたこともです。いったい何をおっしゃるつもりだったのですか」
エリザベートに詰め寄られても、クロード王子は意気消沈として椅子に座ったままただ外を見ていた。
元々気弱なところのあるクロード王子だったが、さすがに様子がおかしい。
アンリエッタと距離を縮めてからは少しは自信に溢れていたのに。
いまは散々に打ちのめされた剣の練習人形のよう、あるいはセミの抜け殻のようだった。
魂が星空を散歩しにいっているかのように心ここにあらずだった。
「……エリー。僕はもう王位継承権を放棄する。叔父上と幸せになってくれ……」
パーン。
「ぐはっ!」
「失礼しました。お顔に危険な虫が」
王子に平手打ちをしたエリザベートはそっと手の剣ダコを撫でる。
「王位継承権は放棄できるものではありません。――というか、どうしてわたくしが王弟殿下と?! わたくしと王弟殿下の間には何もございませんが?!」
エリザベートは気づいたら絶叫していた。
何故そうなるのか。まったくわからない。そんな未来考えたこともない。
「……未来を見てきたんだ」
「未来?」
クロード王子は悲しげな瞳でぽつりぽつりと話し始めた。
「僕はアンリエッタに夢中になって、君がアンリエッタをいじめたという話を信じて、舞踏会で君との婚約を破棄してしまった」
「…………」
「それを知った父上は激怒して、僕は継承権を剥奪されて北の砦に送られて、君は叔父上と結婚して、叔父上が王位を継いで――」
ぞわっとエリザベートの全身に悪寒が走る。
「僕は、寒い部屋でひとりで痛みに耐えながら、思ったんだ。君ともっと話をするべきだった。あの日に帰りたいって――そこで目を覚ましたら、君に婚約破棄を宣言する直前だった」
「随分と長い白昼夢だったのですね」
あの口ごもったわずかな時間にそこまで長い夢を見ていたとは。
エリザベートはずいっとクロード王子に詰め寄る。
「いいですか? わたくしはあなたの婚約者です」
「ああ……」
「アンリエッタさんの件につきましては、わたくしにも認識が甘いところがあったかもしれません。彼女が深く傷ついていたのでしたら、わたくしの不徳の致すところです」
そこは素直に非を認める。
エリザベートはクロード王子の瞳をじっと見上げた。
「クロード様、いまでもわたくしと婚約を破棄したいくらい、アンリエッタさんが好きなのですか?」
「いや、いまは、あんまり……」
それもまた失礼な話だと思いながらもエリザベートはほっとする。
白昼夢を見て目を覚ましてくれてよかったと心から思った。
そうでなければその怖ろしい未来が現実となっていたかもしれない。
「そもそも、アンリエッタさんのどこが好きだったのですか? きっかけは?」
「……よく覚えていない……気がついたら、彼女のことが好きでたまらなかった。いまはもう何とも思わないんだけど」
エリザベートは考える。
ひとつだけ思い当たることがあった。
「クロード様、いまからアンリエッタさんをここに呼んでください」
「ええっ?」
「おそらくですがアンリエッタさんは――……」
◆◇
アンリエッタはすぐに王子の部屋にやってきた。
エリザベートは物陰に隠れながらこっそりとその様子を眺める。
「クロード様どういうことですかぁ。今日こそエリザベート様との婚約を破棄してくださるっておっしゃっていたのに」
アンリエッタは甘い声で怒りながらクロードにすり寄っていく。
「……いや、体調が優れなくて」
クロード王子は瞼を下ろしたまま力なく答える。
「もう、仕方ありませんねぇ。ねえ、クロード様。あたしの目を見てください――」
クロード王子は言われるままにアンリエッタの方を向いて――しかし目を閉ざしたまま、懐に忍ばせていた鏡をアンリエッタの顔の前にかざした。
「なっ……なんて美しくて可愛らしいの。好き」
鏡を見つめながら一瞬硬直したアンリエッタは、頬を赤く染め恋する乙女の表情で呟く。
「好き、好き! あたし大好き! ごめんなさいクロード様。あたしはあたしのものですぅ。誰のものにもなってあげられません、ごめんなさい」
自分をぎゅっと抱きしめながらも鏡から目を離さない。クロード王子のことはもはや眼中になかった。
「あ、ああ……ところで君のその素敵な魅了眼、誰に施されたのかな?」
「はい。それはぁ――……」
誰もいない中庭でワルツの音楽を聞きながら、エリザベートは人を待つ。
待ち人はすぐに現れた。
「ディオン様、急にお呼びして申し訳ございません」
「可愛いエリーの頼みを断るわけがなかろう。どうしたんだい?」
「……クロード様が、わたくしを……う、ううっ」
エリザベートは顔を覆ってすすり泣く。
ディオン王弟はすぐにエリザベートの肩を抱いた。
「ああ、なんてことだ。私の可愛いエリー。もう何も心配しなくていい。これからは私が君を守ろう」
「ですが……わたくしは……」
「何も言わなくていい。私は君を愛しているんだ、ずっと前から。そう、十年前に君に会ったときから」
肩を抱く手にぎゅっと力がこもる。
「十年前はわたくし六歳なのですが」
「愛があれば歳なんて関係ないさ」
「そうですね、愛があれば……ディオン様は、わたくしのことをずっと見てくださいますか」
「ああ、もちろんだ」
エリザベートはさっと取り出した手鏡を、自分の顔の前にかざす。
「うっ……」
ディオン王弟は苦しげに呻き、エリザベートの鏡を奪い取った。
「美しい……なんて美しいんだ! 正に神がつくりたもうたこの世の至宝ではないか……!」
「王弟殿下、禁じられた魅了眼を持ち出すだなんて、困った方ですね」
エリザベートは鏡を食い入るように見つめるディオン王弟を白い目で見た。
――魅了眼。
至近距離で目が合った相手の心を奪う魔法。現在は城の魔法研究塔に封印されている禁呪。
対抗策は鏡。
魅了眼が来ることがわかっていれば気を強く持てばすぐにはかからない。
その間に鏡をかざせば魅了の魔法は相手に跳ね返る。
そのことをエリザベートは王妃教育の中で知った。
「魅了眼をアンリエッタさんに施してクロード様を魅了させて、わたくしと婚約破棄させて、陛下に継承権を取り上げさせて、ご自身が王位を継いでわたくしと結婚されるつもりだったのですか」
ディオン王弟は鏡を見つめたまま答える。
「そのとおりだがいまはもうそんな気はない。私が愛しているのは私だからね」
「一番愛する方と結ばれて、本当におめでとうございます。このことは陛下に報告させていただきますので」
◆◇
禁呪を持ち出したことによりディオン王弟は継承権剥奪の上で東の監獄送りに。
アンリエッタも魅了眼を使った罪で同じく東の監獄送りになった。
二度と王都に戻ってくることはできないが、愛する人がいつでも一番近くにいる二人はきっと幸せだろうと、エリザベートは思った。
「エリー、君は本当に強い」
騒動が片付いたあと、クロード王子とエリザベートは久しぶりにふたりきりで茶会を行った。
「僕は、君の隣に立つのが怖くて逃げてしまったんだ」
「クロード様。不安にさせてしまって申し訳ございません。ですがわたくしはあなたの第一の味方です」
エリザベートは微笑む。愛と自信に溢れた表情で。
「わたくしが強いとしたら、あなたをお守りするためです。あなたを愛しているから強くなれるのです」
「エリー……」
クロード王子が俯きかけだった顔を上げる。
昔から少し気弱なところがあった彼だが、いまはその優しい瞳の奥に、強い決意の光が灯っていた。
「ごめんエリー。僕は君にふさわしい男になれるように頑張るよ」
「はい、わたくしも頑張ります」
あの舞踏会でクロード王子が白昼夢を見て正気に戻ってよかったと、エリザベートは心から思う。そうでなければ王弟の策略により白昼夢の通りになっただろう。
――あるいは。
クロード王子は、本当にいつかの未来から「あの日」に帰ってきたのかもしれない。
(そんな未来は考えたくもないですけれどね)
その後、王と王妃になるふたりは切磋琢磨しながら愛し合い、よく助け合って、国の発展と民の幸せのために尽くしたという。