第3話 泡ノような
雄治さんは意外と押しが強い。
朝は苦手で低血圧のイメージまんまなはずなのに、朝から家の前にいるなんて…………
爽やかな顔をして、車に乗るよう促す。助手席に乗り込めば、視線を感じずにはいられない。
「かわいい……ワンピース、よく似合ってる」
「……ありがとうございます……」
「その顔、本気にしてないだろ?」
「そんなこと、ないですよ?」
頬が熱く、今ならチークがなくても色付いているだろうと、鏡を見なくても分かる。憧れの人が隣にいてときめかないはずがない。
車内では店でもよく聴く曲が流れているが、耳心地の良い声だけが届いていた。
「…………水族館……」
「あぁー、すきだって言ってただろ?」
「はい……」
店員と客の何気ない会話を記憶していた彼に驚きを隠せないが、それだけではない。ここは幼い頃に両親に連れられていった想い出の場所でもあった。
「久しぶりに来たなーー……」
「雄治さんも来たことあるんですか?」
「あぁー、って言っても写真で記憶してるだけだけどな」
「えっ?」
「行くよ」
手を取られた勢いのまま、館内を巡る。時折感じる視線に、いくら鈍感な春江でも気づく。手の繋げる距離にいるのだから逃れようがない。
海の中にいるような巨大な水槽を前に、ただ立ち尽くす。繋がれたままの手に熱を感じながら。
「ーーーーーーーー綺麗だな……」
「はい……」
まるで自身が言われたかのような錯覚さえ感じる。まっすぐに向けられる瞳に、それ以上は言葉にならない。
「…………ねぇ、あれって【風間雄治】じゃない?」
「えっ、嘘……本物??」
長身な彼に気づかないはずが無いと納得するが、爽やかな横顔で勘違いしたと思ったようだ。騒いでいたはずの二人組が『人違いじゃん』と言って離れていった。
安堵した春江を横目に笑みを浮かべる。彼自身は少しも気にしていない様子だ。
「…………心配してくれたんだ?」
耳元で響く声色に心音が速まる。嬉しそうに微笑まれれば、言葉を呑み込むしかない。
「ーーーーっ、行きますよ!」
「はい、はい」
イルカのショーを観て手拍子をすれば、同じように手を叩く姿に笑みが溢れる。
……雄治さんと、水族館に来たんだ…………
メロンソーダを片手に実感する。
デート終盤で気づく春江らしさが伝わったのだろう。眼鏡越しの穏やかな笑みに胸が高鳴る。それだけの破壊力が彼にはあった。
「…………今日は、ありがとうございました……」
「楽しかった?」
「…………はい」
偽れる筈がなく、当ててもらったぬいぐるみを抱き寄せて素直に頷けば、先程よりも綻んでいると分かる。
二人きりの車内ではよそ行きの顔ではなく、バーでよく見る素の雄治だ。よく話し、よく笑う、春江のすきな彼である。
会話が弾む中、真剣な眼差しを向けられ、ドキリと高鳴る。
「……春江ちゃんさ…………俺、告白したよね?」
「ーーーーえっ?」
「本気にしてなかった訳だ」
「……あ、あの…」
紡ごうとした言葉は、彼の指先に閉ざされる。間近で香りたつ匂いに酔いそうだ。
「ーーーー本気だよ?」
「…………でも、私は……」
唇に柔らかな感触があった。
「んっ……」
声は呑み込まれ、春江の言い訳は聞いてくれそうにない。
雄治さんにとっては些細なことでも、私にとっては一大事。
ふとした瞬間に想い出す……雄治さんの言葉……彼に惹かれない理由はない。
だって……雄治さんのつくる曲がすきで……ファンクラブに入ってるくらいなんだから…………だからこそ、現実的じゃない。
私にとって、神様みたいな存在なの。
耳に残るハスキーな歌声も、いつも新しい音色も…………すべてが、現実的じゃないの。
優しく触れる少しゴツゴツした手で、ギター弾きだと分かる。憧れの存在に迫られ、揺れない訳がない。釣り合わないと感じながらも、拒めるはずがないのだ。
受け入れられた瞬間に安堵したのは、彼の方であった。
「……春江ちゃん…………」
真っ赤に染まった頬に手が伸びれば、戸惑いながらもまっすぐな視線が向けられる。
「……すきだよ……」
「?!!」
瞬かせながら染まった頬が愛らしく、彼からは手放せそうにない。
好かれてる自覚はあり【風間雄治】という虚像にも慣れていたつもりだった。
売れっ子シンガーソングライターになってから急激に増えた作曲依頼。
ネームバリューに惑わされ過ぎと、視聴者を嫌ったくらいだ。
でも、マスターの娘は違った。
騒いでサインを求める事もなく、他の客と同じように接してくれた…………感謝しかなかった。
片親なのは知っていたし、彼自身もあまりいい家庭環境じゃなかったからだろう。一方的なシンパシーを感じながらも、この子には幸せになってもらいたいと思うようになるのに、そう時間はかからなかった。気づけば彼女に会うために足を運んでいたのだから。
「…………雄治さん…………あの……」
「ん? どうした?」
押しに弱い春江の弱点は把握済みだ。直球で攻められれば、上手く回避できない不器用さが浮き彫りになる。
「……ち、近いです……」
ようやく発した言葉に笑みが浮かべられ、それ以上は声にならず、間近に迫る瞳に魅せられるしかない。
「…………春江ちゃん……返事、待ってるから」
「えっ?」
不敵な笑みに退くも、シートベルトのままでは避けようがない。また唇が触れそうな至近距離になり、ぎゅっと瞼を閉じれば、手の甲に感触があった。
「……次は、ハルちゃんからしてね」
自身の唇を指差す意味を理解し、急激に染まって思い切り顔を逸らす。
「ーーーーっ、次はありません!」
すっかりと雄治のペースに巻き込まれ、その後は何事もなかったかのように、デートはイタリアンで締めくくられた。
「春江ちゃん、またね」
「はい……」
素直に頷き返せば微笑まれ、声にならない。
遠ざかる車を見送り手を振れば、ハザードライトが点滅していた。
他人事のようにロマンチストだと感じながら、手元にあるぬいぐるみを抱き寄せれば、柔らかな感触が現実だと告げているようだった。
「……ただいま…………」
「おかえり、お風呂は沸いてるよ」
「うん、ありがとう……これ、お土産ね」
「あぁー、ありがとう…………」
リビングのローテーブルに置かれたお菓子で、想い出の水族館に行ったと分かる。そして、心ここに在らずの娘の様子でキャパオーバーであるとも。
「……春江、楽しかったかい?」
「えっ……」
一瞬だけ戸惑いの色が浮かびながらも、素直に頷く純粋さに誠は笑みを浮かべた。彼の知る【風間雄治】になら、娘を託して良いとさえ感じていたのだろう。微笑ましい二人に蘇る記憶があった。
自身の言動に気づき足早に部屋に戻れば、ベットに置いたばかりのぬいぐるみが目に入る。つぶらな瞳のアザラシを撫でる勇気はなく視線を逸らせば、未開封のままになったCDに気づく。
……そうだった…………開けたら、覚めそうだったから……
フイルムを取り除き、ジャケットに映るシルエットをそっとなぞる。そこには、一緒に過ごしたばかりの彼の姿があった。
…………雄治さんは…………なんで…………
冗談と言われた方がしっくりくるのだろう。湯船に浸かっても考えてしまうのは、彼のことであった。
彼の言葉を信じていない訳ではないが、憧れの人に告げられて舞い上がりそうな想いが、一気に縮んでいった。
『風間雄治、熱愛発覚か?!』
ネットニュースの上位にある見出しに揺れる。見るのを躊躇ってしまうほどに、彼が特別であると意識せざるを得ない。
『結婚秒読みか?!』 『お忍びデート!!』
様々な文字の羅列だが、どれも一つを指していた。彼に恋人がいたという事だ。
それ以上は読む気になれず、見出しを視界の隅から追いやった。逸らした所で現実は変わらず、大学では人気のシンガーソングライターが話題に上がっていた。
「えーーっ、ショック……」 「独身でいてほしかった」
「相手は一般人なのかな?」 「新曲聴いたか?」
「聴いた!」 「めっちゃよかったよな!!」
映画の主題歌がリリースされた事もあり、ネットニュースは半信半疑のようだ。楽曲だけでなく彼自身にも惚れ込むファンがいるからこそ、反応はさまざまであった。
春江自身も驚きはあるが、どこかで納得はしていた。大学生と人気のシンガーソングライターとでは、不釣り合いであると。
携帯電話のバイブ音に気づき、通知を見れば彼からだと分かる。今もっとも話題の【風間雄治】からメッセージが届いていた。