第2話 遠いヒト
何事もなかったかのように、助手席へ乗るように促された。
この人…………自分が有名人だっていう自覚ある?
「誠さんなら、大丈夫だよ」
「…………はい」
結局、入院先まで送ってもらう事になった。
信じられない…………あの【風間雄治】が、隣にいるなんて……
「ん?」
「い、いえ……」
昨夜のことを思い出すと、頬が染まる。恥ずかしさと緊張感が相まって複雑な心境だ。
『今度、デートしようか』
そう雄治さんは言ってくれたけど、そんなの出来るはずがない。
だって、彼は…………有名なシンガーソングライターだから……
「ーーーーん、春江ちゃん、春江ちゃん!」
「うわっ……」
間近にある顔に転びそうになった次の瞬間には、背中を支えられていた。
「ったく、たまに抜けてるよな」
「ちょっと!」
言い方よ!!
確かに、否定できないところが痛いけど……
「ほら、選ぶんだろ?」
「は、はい……」
お父さんのお見舞いで花屋に寄るって言ったら、一緒について来てるし……
眼鏡をかけたラフな格好の彼は、春江の隣で真剣な表情だ。
「春江ちゃん、これは?」
「…………ガーベラ、ですか?」
「あぁー、店にもよく飾ってあっただろ?」
「ーーーーはい……」
よく、見てるよね…………雄治さんの来店頻度は、常連さんの中でも多いほうだと思うけど…………それでも、花まで見ている人は滅多にいない。
大抵レコードというか、音楽に興味のある人が集うような場所だから……
「これでラッピングして下さい」
「あ、あの……」
春江がぼんやりと花を眺めている間に、会計まで済ませる雄治。お財布を出そうとして、押し止められた。
「俺達からのお見舞いの品って事で」
「ーーーーはい……」
有無を言わせぬ瞳に、小さく頷いて応えるしかない。
こんな時に、オーラを出さなくても…………
溜め息を呑み込んで再び車に乗り込めば、手元で咲き誇る花に落ち着かない。思ったよりも大きな花束になり、また静かに溜め息を呑み込んでいた。
車を降りた途端に手を握られ、病室に向かう。
慣れた感じ……入院の手続きも、必要な物も、私も初めてじゃないけど…………雄治さんの方が、もっと手慣れている感じで……
感心した様子が顔に出ていたのだろう。悪そうな笑みを浮かべたかと思えば、一気に近づく。思わず後退りするが、ガッチリと肩を掴まれ敵わない。
耳元に唇が触れそうな距離に心音は忙しないが、春江の表情は変わっていない。ポーカーフェイスには慣れたものである。
「ーーーーーーーーハルちゃん、惚れた?」
「ーーーーっ、ほ、惚れません!!」
反応を面白がる雄治に呆れ気味の春江は、側から見れば仲の良いカップルだろう。彼女の父のお見舞いに揃って来たという図である。
「雄治くんも来てくれたんだね……ありがとう……」
思っていたよりも顔色の良い父に安堵の息を吐けば、雄治も穏やかに微笑む。それは、テレビで見るクールな印象とは異なり豊かな表情だ。
「……春江、花をいけてきてくれるか?」
「うん」
素直に頷く姿に揃って微笑ましい視線が向けられ、居心地の悪さから逃げ出すように花瓶に差していく。
いつの間に……二人は仲良くなったんだろう…………
春江の気づかなうちに、雄治は信頼を得ていた。普段は穏やかな誠だが、こだわり尽くしな店と同じく、彼自身もこだわりが強い。
雄治が気づいた花は、母の一番好きな花であった。
「ーーーーすぐに退院できそうで良かったな」
「はい……」
自分の事のように嬉しそうな様子に、頷くことしか出来ない。急激に距離を詰められ、上手く言語化できずにいた。
車で送ってもらったはずなのに、曖昧な記憶しかない……
緊張していたのもあるが、お見舞いに行った夜の生放送に雄治が出演していた事も要因の一つだろう。数時間前まで隣にいたとは思えず、現実味がないのが本音だ。
ブラウン管から流れる生の歌声が心に直撃して、涙が頬をつたいこぼれ落ちる。自身の意図していない現象に戸惑いを隠せない。
ただ、一人きりの夜がやけに長く感じた。
父の退院までは臨時休業な事もあり、いつもは働く時間にテレビを見る余裕もあるが、いくら余裕があっても押し寄せる不安は拭えない。大丈夫だと分かっていても、突如失う悲しみを知っているからだろう。同じ時を生きるというのは、彼女にとって奇跡のようなものでもあった。
数日とはいえ、誰もいない部屋は冷たく感じる。冷たい風を感じた夜だからではなく、出迎えてくれる家族がいないからだ。今更のように父の存在を大きく感じ、どんなに忙しい時も優先されていたと気づく。
春江の父は【マスター】とも呼ばれ、若い頃は女性からのアプローチを受けた事もあった。子供がいると知っても諦めない女性がいたように、聞き上手な彼は接客上手だ。雄治を筆頭に常連客が長いしたくなる理由は、料理や居心地の良さだけでなく、彼の人柄の良さにあった。未だに妻の好きだった花を店内に飾るくらいに、一途に想っていたとも分かる。
「ーーーー明日、誠さんの許可も貰ったから」
「えっ?」
復帰して早々に閉店間際までいたのは彼だけだ。驚く春江に頬を緩ませ、実に楽しげである。
「デートだよ、デート。じゃあ、また明日」
携帯電話をおもむろに取り出し、連絡先を交換する間も言葉にならない。冗談半分の口約束で終わると認識していたからだろう。予想外の出来事に、反応が追いつかないのだ。
「迎えに行くから……逃げるなよ?」
「なっ!」
「可愛い格好、期待してるからな」
殆ど言い逃げするように店を後にした雄治に対し、春江の手元には泡だらけのグラスが並んでいた。
「ーーーー春江? 雄治くんは帰ったのかい?」
「う、うん……」
嵐の去った後のような静けさに、レコードの乾いた音が響く。
「明日は気をつけて行ってくるんだよ」
「うっ……お父さんまで……」
「彼はいい男じゃないか」
無言のまま抗議の瞳を向けても微笑まれるだけだ。いつの間にか取り込まれた父に、溜め息を吐きそうになり呑み込む。
デート…………デートなんて、久しくしてない。
まともに付き合ったことなんてないのに、ハードルが高すぎる。
ブラウン管の向こう側の華やかな世界にいる雄治さんは、知らない人みたい…………クールって言葉がぴったりと当てはまるような感じで、笑った場面なんてほとんど見たことがなかった。
ここに来る時は大抵ラフな格好で、眼鏡だってかけてる時もある。
ほとんど見たことがなかった笑顔もよく見るし……とても、同一人物とは思えなくて…………
流れる音色に思わず視線を向ければ、先程まで店内にいた彼が映る。声色だけでなくそのルックスからも女性ファンは多い。ただ私生活については謎な部分が多く、自ら語る事のない彼は同性からの支持も熱かった。
飲み会で話題になるほどに憧れを抱く者もいたが、本物は一握りだ。数々の賞を受賞し、CMや映画と様々な場面で耳にする音色は常にアップデートされているのだろう。音楽知識の少ない彼女が一瞬で虜になった。それくらい響くものがあり、後押しされるかのように涙を流した日が記憶に新しい。
春江自身も戸惑っていた。本気にしてはダメだと。お気に入りのマスターの娘だからよくしてくれるのだと、そう言い聞かせようとすればするほど誤魔化せない気持ちに気づく。
……………………本気にしちゃダメ……
思いは増していくばかりで認めざる負えない。憧れの彼に話しかけられる度、心音が忙しない事くらい分かっていた。ただ認めてはいけない。彼の人柄を知れば、冗談で口にするような人ではないと分かる。
増していく想いに対し、冷静さを保つ。父に心配をかけないと気を使う春江ならではの思考回路だろう。本気にして後戻りができなくなった時に後悔するのは自身であると、拭えない不安を吐き捨てるような溜め息が自室に響いていた。
「ーーーー春江ちゃん!」
車窓から手を振る雄治に駆け寄る。自然と動いた自身に気づく事はなく、彼の方が頬を緩ませていた。
そこにいるのは遠い存在ではなく、父に愚痴っては帰っていく春江のよく知る彼であった。




