第11話 キセキがあるなら
当たり前のように隣で眠るようになって一ヶ月。ようやく慣れてきた頃に夏季休暇が明け、名残惜しそうに玄関先で抱きしめられる。今生の別れではないが、離したくないかのように抱きしめられれば、心音が速まり言葉に詰まる。
「…………雄治さ」 「あーーーー……」
ほとんど被せ気味に発せられる効果音すら実にいい声だが、名残惜しいのは雄治だけではない。
彼の帰宅時間は様々であったが、夕飯時には顔を出していたからこそ寂しさを感じる。一緒にいたからこそ特別な時間だと分かっていても、それが日常の一部になりつつあったからだ。
「……雄治さん……いってきます」
「…………いってらっしゃい」
惜しまれつつ家を出れば、思わずマンションを振り返る。見えないと分かっていても見上げてしまうのは、同じ気持ちだったからに他ならない。頭では分かっていても言葉にならず、想いは募っていた。
そんな彼女の想いは、雄治には筒抜けであった。一緒に暮らすようになって、さらに分かるようになったといえる。彼の観察眼は確かなものだが、それだけが原因ではない。彼女が素を見せるようになったからこそ、些細な変化にも敏感になったのだろう。
携帯電話の着信に気づき、素直に出れば第一声に苦笑いを浮かべる。ただ彼の発した言葉に歓喜の叫び声が響き、思わず耳元から離した。
「ーーーー俺も、楽しみにしていますよ」
彼女が側にいたならば、瞬かせていただろう。携帯電話越しでも分かる歓喜の声と語られた内容に驚いたはずだ。
一気に騒がしくなりそうな予感のする雄治とは違って、春江の学校生活に変わりはない。店の手伝いがなくなったからといって特に予定を入れるわけではなく、毎日のように定時の帰宅を繰り返していた。
千里子は二人の関係を知る事になったが、彼女にしか打ち明けておらず、今のところ自ら伝える予定はない。彼の人気ぶりは知っているし、わざわざ一般人との付き合いを広める事は、彼女にとって不本意だからだ。
一週間後には最後の学祭を迎えるが、サークルに入っていない春江にとってはほとんど思い入れがない。参加といっても、毎年のように千里子の入るテニスサークルに顔を出すくらいだ。今年もその予定で店の手伝いを優先させるはずだったが、肝心の店が改装工事で休業中のため、読みたかった本をまとめて読むつもりで図書館通いが続いていた。
試験もなく、自由な時間ができたのは久しぶりで次々と手が伸びていくが、夕飯時には帰宅して食卓を囲むし、作る事もしばしばあったのは、今までの習慣から抜け出す事が容易ではなかったからだろう。時間通りの帰宅に父から微笑まれたくらいであった。
雄治も揃っての夕飯に雑音はない。ただ揃って会話を交わしながら食事を進める。贅沢なひと時に、思わず春江の頬も緩む。毎日のように顔を合わせていた夏季休暇が遠い昔の事のように感じ、実感せずにはいられない。そばにいる日々がいかに特別で、貴重な時間であったかと。
一日を振り返るような投げかけをされても、春江自身に変わり映えはない。授業と図書館と、訪れる場所は決まっているからだ。また父も臨時講師に駆り出される事はあるが、概ね先月と変わりはなく友人の手伝いが主だ。雄治の仕事量の増加に比べれば、どれも著しい変化はなく穏やかな日常であった。
ただ仕事量の増えた彼にとっては、春江不足が続いていた。増えたといっても元の量に戻っただけで、先月の休みの方が稀であり特別であった。何とか同居にまで持ち込み、ぐっと距離が縮まったと思う一方で、まだ足りない部分もあるという自覚もあったからこそ、水面下で行動に移していたのかもしれない。
学祭当日も図書館は学生に開放されているため、ある意味読み放題だ。試験前は混雑する図書館も学祭の陽気さとは正反対の静けさを保っている。
早々とテニスサークルに顔を出した春江は、人気のない図書館で読み耽っていた。それこそ着信のバイブ音にも気づかないほどの集中力を発揮しながら。
大きく伸びをして携帯電話で時間を確認しようとし、着信の多さに驚く。慌てて図書館を出れば、着信履歴を残した張本人が声を上げた。
「ーーーーっ、いた!! 春江!!」
「ちょっ、千里子?!」
静寂の中、唐突に呼ばれ驚く間もなく、引っ張られるように図書館を後にした。慌ただしい彼女に急かされるまま講堂に急ぐ。ろくな説明もないまま連れられた重い扉の先には、彼が立っていた。
声にならず、ただ見つめる。話すように歌う声に、空気が震えるような感覚があった。
惹かれない理由はない。ただ胸に響いて泣きそうになり、つい数週間前まで一緒に過ごしていた時間が夢のように映る。特別な彼に想われて感覚が鈍っていたのだろう。
ーーーーーーーー努力し続ける事が大切だって分かってる。
そう……叶わないと嘆いたりせず、諦めたりしないで信じることの大切さを教えてくれた雄治さんに、私ができる事はきっと少ない。
自身で叶えてきた人だから…………それくらいの現実は分かってはいるけど、努力し続ける人しか立てない高みにいる【風間雄治】に、届きたいとは思ってる。
たくさんの夢を叶えてくれる雄治さんに、できることはあるのかな…………
迷ってもいい、立ち止まったっていい、ただ歩み続けなければ、どこにも行けないと、単純なことに気づけずにいた。実を結べるように歩き続けることが唯一残された道だったことに気づけずにいた。叶わないからと諦められる想いなら、この大学を選んですらいないだろう。家を継ぐと決めた日から貯金をしてきたし、商品提案も行なってきた。彼女なりに存続させる努力を怠った事はないからこそ、歌詞の意味が沁み渡るようだ。
巡る感情に一筋の涙がこぼれる。周囲の喧騒とは裏腹に美しい涙を流す姿に脈を打つ。
一瞬だけ驚いたような表情の彼に気づく余裕は春江にはない。泣き崩れる事はなくとも、ただ次々と溢れても止められずにいた。彼女の他にも感激したファンは多数いた為、その涙の意味に気づく者はいないだろう。ただ彼にだけは届いたと、伝わっていた。
言葉にできない感情の渦を吐き出すかのように始めた作曲は順風満帆とは言い難かったが、この大学にだけでもファンは大勢いる。数えるほどではなく、ここにいるほぼ全員が彼の曲を知っているし、流行りに敏感でない者でも一度は聴いた事がある。だからこそ講堂は感動の渦に包まれていたのだろう。
ただ彼にとっては、その他大勢に届くよりも彼女に届くことが重要であった。想いを伝えてもどこか引け目を感じている事は分かっていたし、現実味がない様子も伝わっていた。たった一人のどこにでもいる男である自覚があっても、周囲はそうは見ない。ハスキーな声も、難解なメロディーも、その多彩さに目が向けられ、虚像にしか興味がない。そう感じる度に息苦しさを感じる日々もあったが、そんな陰鬱な日々が彩り出したのは彼女と出逢ってからだと、今ならはっきりといえる。
無自覚な彼女は一人の客として緊張しながらも接していた。荒んでいた心が洗われるような女の子だと思った。高校生なら騒ぎ立ててもおかしくはないが、素直な学生らしさはなく大人な対応に揺れた。惹かれない理由はなかったと、気づいた時にはとっくに落ちているようだった。
「ーーーーーーーー雄、治……さん…………」
溢れた言葉に想いが滲む。しっかり者の親友の横顔が千里子には印象的であったが、今はどこか儚さがあるように映る。彼にだけ見せる姿なのかもしれないと、そっと芽生えた嫉妬心に微笑む。親友として見てきたからこそ、心からの祝福があった。
正しい言葉を使えずにいたと気づく。経営学を学び、接客業に携わってきたにも関わらず、適当な言葉を見つけられずにいたと。
【風間雄治】を表す言葉はいくつもあるが、そのどれも当たっているようで虚像のようだ。それが春江にとっての第一印象であった。
『ーーーー春江ちゃん、ね……よろしくね』
マスターの娘というだけで優しくして貰えるなんて……最初はテレビで知るクールな印象と違いすぎて、そっくりさんじゃないかとさえ思ったけど…………雄治さんの声を聞き間違えるはずがない。
ちょっぴり意地悪なのに優しくて、話す度に惹かれていった……
スタンディングオベーションが沸き起こり歴代最高潮の盛り上がりを見せる中、静かに涙を流す。拭っても溢れて視界が滲み、視線が交わったかのように感じて言葉にならない。ただ小さく頷けば、満面の笑みが返される。ただ一瞬の変化だった為、どよめきも一瞬であり、変わらないクールな印象のままステージを去る姿があった。
若手が学祭でライブをする事はよくあるが、彼のような一流と呼ばれるアーティストが立つ機会は少ない。だからこそ今も伝説のように語られることになるが、それはまた別の話だ。
「…………千里子、ありがとう……」
「……うん…………」
視線を交わせば、揃って目元が赤くなっていた。春江だけでなく、彼のファンである千里子にとっても最後の学祭に相応しすぎるひと時であったからだろう。
アンコールの声に応えるように姿を現せば、一際大きな歓声が響く。隣で叫ぶように放った千里子に釣られるように、彼女も声を出した。
「やばっ!」 「ねっ!! こっち見たよね?!」
「風間雄治すごいね!!」 「かっこよ……」
周囲で歓喜の声が上がり、千里子が微笑む。彼女の視線の先には嬉しそうに視線を通わせる春江の姿があった。




