第1話 キミの手
「ーーーーお父さん、あの人……また?」
「雄治くん、今日は荒れてたからなーー……」
「今日も……の、間違いじゃないの?」
春江がそう言うのも無理はない。
雄治が彼女の父が経営する喫茶店兼バーに顔を出す時は、夜のバー営業がほとんどで、大抵プロデューサーと意見が食い違ったとかで荒れている時が多い。
今もカウンターの隅で山崎をストレートで飲んでいる。呑んだくれるには高価なウイスキーだが、そこは雄治だから為せる技だろう。彼は売れっ子のシンガーソングライターだ。
「……誠さん、おかわり」
「雄治くん、今日は止めておいたら?」
「うーーん、呑みたい。ってか、酔いたいんですよー」
アルコールに強いのだろう。雄治は呂律が回らなくなるどころか、饒舌なままだ。
「ーーーー雄治さん、今日はもう閉店です」
きっぱりと告げる春江に、実に楽しそうに微笑む。
「……なにか、可笑しなこと言いました?」
「いや……俺にそんな事、面と向かって言うの春江ちゃんくらいだよ」
「悪かったですね! とにかく、これ以上は駄目です!」
「はいはい」
ーーーーもう……この人、絶対に悪いって思ってない。
常連さんだし、無下には出来ないけど……
春江は何も言わずにオレンジジュースを置くと、他のテーブルを片付けに行った。
雄治が後ろ姿を眺めながら、グラスを傾ける。背中から感じる視線を振り払うように手を動かしていく。
「……春江ちゃんは、真面目だねー」
「そうだね。私としては、もう少し羽を伸ばしてもいいと思うんだけどね」
「誠さんが心配なんでしょ? いい娘さんですよね」
「有難いけどね。男手一つで育てたからか、男っ気が無くってねー」
テーブルを拭いていた手が止まる。
「お父さん! 何の話してるのよ!」
「あっ、バレちゃったな」
「お父さん……」
「誠さん……バレちゃったなって……」
誠のお茶目なさまに、二人から笑みが溢れる。
「ねぇー、誠さん……」
「ん? そろそろ、タクシー呼ぶかい?」
グラスを磨いていた手を止め、誠は子機に手を伸ばした。
「あーー、それも呼ぶけど……春江ちゃん、貰っていい?」
「えっ?」 「えっ?!」
親子揃って声を上げる様子に、思わず笑みが溢れる。それはテレビに映る彼とは違い、何処か楽しげで柔らかな雰囲気だ。
「私は物じゃありません!」
「当たり前でしょ?」
春江の右手を取ると、唇が寄せられていた。
「ーーーーーーーーこういう事。考えといて?」
「ーーーーっ!?」
「誠さん、ご馳走さまでした」
「あぁー、またおいでね」
何事もなかったかのように、いつものごとく飄々と手を振りながら去っていった。
カランと、扉の閉まる音が響く。
店内は雄治が最後の客だった為、BGMにかけていたレコードの乾いた音色だけが残る。
ーーーーーーーーなに……今の……
唇の感触が残っているのだろう。春江は右手の甲をそっと左手でなぞっていた。
…………やめて欲しい……冗談でも口にしないでよ。
つい……本気にしちゃうから…………
雄治さんはこの店が気に入っているらしくて、よく来てくれてる常連さんの一人。
でも、他の人と違うのは……彼がプロのミュージシャンだということ。
「春江は……雄治くんの事、どう想ってるんだ?」
「お父さん……そんなの決まってるでしょ? お得意様です!」
きっぱりと言い切った頬は、ほんのりと赤みを帯びていた。
「春江、何かあった?」
「えっ?」
授業中のため小声ではあるが、隣にいるのは大学で再会した友人だ。
「千里子……何でもないよ」
「そう?」
雄治さんは、あれからも変わらず、お店に顔を出すけど……あの日の事には触れてこない。
恋愛経験の乏しい私には、彼の意図が分からないまま。
恋なんて、もうしなくてもいいって思ってる。
だって……私には、向いてないもの……
「今日こそは飲み会に付き合ってね」
「うん……」
中学の頃と変わらず千里子はアグレッシブ。
私の参加率が低いのは、父の経営するバーを手伝っているから。
今日は金曜日で定休日じゃないけど、私がいないからバーも臨時休業……雄治さん、どうしてるかな……ちゃんとご飯食べてるかな…………って、違う!
真面目に聞かないと!!
講師の乱雑な文字にも慣れたものだ。春江は大学で四年目の春を迎えていた。化学式を書き写し、一つも逃さないように耳を傾けていた。
千里子とご飯が出来ること自体は嬉しいけど……飲み会は、正直苦手。
あの人以上の出逢いは、きっとないから……
初対面で和やかに話す千里子に感心していた。春江も負けず劣らず、接客業で培ったスキルを活用しているが、当の本人は根が真面目な為、頭をフル回転させているに過ぎない。
「春江ちゃんは最近ハマってる曲ある?」
「ゆ……風間雄治の曲は、よく聴きます」
「あーー、いいよな。風間雄治、かっこいいもんなー」
「はい……」
素直に口から出た言葉に、春江自身が驚いていた。
「俺も聴くー」 「上手いよな!」 「いいよね」
「私もーー」 「新曲、よかったですよね」
飲み会という名の合コンが終わる頃、携帯電話には着信履歴がずらりと並んでいた。
「春江? どうかした?」
「……千里子、先に行ってて!」
「春江ちゃん?!」 「春江?!」
店を出るなり、駆け出す。背後から聞こえているはずの声は、一つも届いていない。
ーーーーーーーー嘘……嘘だって、言って!!
携帯電話越しに、耳につく音が無常に流れる。一分にも満たない時間が、春江には長く感じられた。
唐突に途切れた不快音に、心音が忙しない。
「ーーーーっ、も、もしもし?!」
『見つけた……そこ、動くなよ?』
「えっ……?」
背中からふわりと香る香水で、振り返るまでもなく誰だか分かる。
「…………雄……治さ……ん……」
「行くぞ!」
「は、はい!!」
握られた手に驚く余裕はない。タクシーに乗り込むなり、両手を祈るように握っていた。
「ーーーー大丈夫だ」
「……はい…………」
強く握った手に、優しく触れてきたのはギター弾きの手だ。
思い起こす中、強く握りしめすぎた手は解けていった。
慌てる私と雄治さんは対照的だ。
予め行く事を伝えてくれていたみたいで、すぐに病室に通された。
「…………お父さん……」
「今は薬で眠ってるだけだから、大丈夫だ」
「はい……」
雄治さんの言葉が力強く感じた。
きっと……『大丈夫』だって、誰かに言って欲しかったんだ…………
「明日、また来よう」
「はい……ありがとうございました……」
さり気なく手を引かれ、自宅まで帰ってきていた。
タクシーの中で一言も話さなかったけど……少しも嫌じゃなかった…………
雄治さんのおかげで……一人部屋の病室に、時間外にも関わらず顔を見る事が出来たんだよね。
冷静になって考えれば、あの【風間雄治】が、私達……家族の為に動いてくれたなんて……なんて、贅沢なんだろう…………
「ーーーーーーーー春江ちゃん、眠れる?」
「えっ?」
頬に触れられ顔を上げると、心配そうな表情が映る。
「ーーーー大丈……夫……です……」
努めて明るく応えた瞳は潤み、今にも溢れ出しそうだ。
「こんな時まで無理するなよ」
その瞬間、ふわりと柔らかな香りに包まれていた。
「ーーーーっ……」
…………このまま、頼ってしまいたくなる。
駄目……雄治さんの迷惑にだけはなりたくない。
私は、【風間雄治】のファンなんだから……
「大丈夫ですよ…………一人には……慣れてますから」
精一杯の強がりは強く抱き寄せられ、呆気なく崩壊した。涙がとめどなく溢れていく。
「ーーーー春江」
名前を呼ばれ、下がっていた視線が交わる。
「ーーーーっ……」
優しい瞳をした雄治に、また視界が滲んでいく。
声にならない叫びを支えるように、背中に触れる手が温かくて、胸を借りたまま泣いていた。
「……っ、怖……かった……」
「あぁー」
「……よかった……」
「……あぁー……」
温かな指先に、また涙が零れる。
また……一人ぼっちになるんじゃないかって…………怖かった。
私の家族は、もう……お父さんしかいないのに……
声を出して泣いて、背中に触れる手に安堵していた。
…………何も言わずに、側にいてくれたなんて…………
泣き疲れて眠っていたのだろう。抱きしめられたまま間近にある端正な顔に、思わず視線を逸らす。
ぎゅっと力のこもる腕から逃れる事は出来ず、頬が染まる。抜け出そうとそっと腕を上げようとするがびくともせず、微かな声が耳元に響いた。
「ふっ……」
「ーーーー雄治さん…………起きてるじゃないですか!」
笑いを堪える彼に思わず頬が膨らむ。
「……悪い、悪い」
「もう……」
……絶対、悪いなんて思ってない。
春江の予想通り悪びれた様子はなく、肩に腕を回したままだ。
「お見舞い、行くだろ?」
「はい……」
素直に返した春江に、また表情を崩す。メディアでは見せない顔だ。
「シャワー、借りるぞ?」
「は、はい! タオルはここです」
「あぁー、ありがとう」
ーーーーーーーーずるい……
心の中で呟き、頬が染まる。向けられた笑顔に上昇する体温の意味は、春江にも分かっていた。
「ドライヤーもありがとう」
「い、いえ……」
爽やかな雰囲気の雄治から視線を逸らせない。
「春江ちゃん、これは貸しだから」
「えっ……」
にっこりと笑った雄治に迫られ、一歩下がる。
「今度、デートしようか」
「えっ……」
デ、デート?!!
驚いた顔をしていたのだろう。笑いを堪える雄治がいた。