それが愛しいあなたの望みなら
薄い雲の隙間から差し込む柔らかい光。
風が吹くたびに軽やかな音を鳴らす一面の芝生。
ノーサン伯爵家の次女シャロンディーナは、レリオット伯爵家の三男であり婚約者のエヴィアンと共に午後のティータイムを過ごしていた。
「これが、以前エヴィアン様が仰っていたお茶ですか?」
「そうだ。とても良い香りがするだろう?」
シャロンディーナはカップを持ち上げ、中を覗いた。茶の色はくすんだ濃い茶色で透き通っていない。しかしそっと鼻を近付けると、色からは想像できないような爽やかなミント系の香りがした。
「えぇ本当に、本と、ほ、ほ、ほほ、ホェックショーイ!!」
「うわぁっ!!」
ガシャンと食器の跳ねる音は、エヴィアンが素早く席から離れた音だ。エヴィアンはウンザリした表情で溜息をつき、口元を拭く婚約者の隣に戻った。
「ごめんなさい。昔からミント系の匂いを嗅ぐとクシャミが出ちゃうんです。」
「そうか…まぁいい。とにかく冷めないうちに飲め。せっかくお前の為に用意したんだから。」
エヴィアンは腕と脚を組み、冷静さを取り戻して微笑んだ。シャロンディーナはその笑顔にコクリと頷き、カップに口を付けた。
----私の為に、か…
コク、コク、と少しずつ喉に流し込む。茶の味は濃厚なのか、爽やかなのか、甘みがあるのか無いのか、まったく味が分からない。
ただ、シャロンディーナは知っていた。
この茶が普通の茶ではない事を。
全てを飲み干し、シャロンディーナは安堵の表情を浮かべるエヴィアンに向けて微笑んだ。
「ありがとうございます。とても美味しかったわ。」
ハンカチで口を拭き、そして席を立った。視界の端には驚いたエヴィアンの姿が映る。
さぁ、これで最後だ。
「エヴィアン様。」
「なんだ?」
「今までありがとうございました。迷惑ばかりかけてごめんなさい。…さようなら。」
シャロンディーナは美しい姿勢で挨拶をして、その場を去った。
*
三か月後。
扉をノックする音に返事をすると、侍従のマディソンが入ってきた。
「エヴィアン様、出発のお時間でございます。」
「分かった。」
エヴィアンは短く返事をして上着を羽織った。今夜のパーティーのパートナーはポーストン子爵家の令嬢アネッサだ。十日前の茶会で意気投合し、今夜のパーティーに一緒に参加する事になった。
「それから、」
「うん?」
「今夜のパーティーには、シャロンディーナ様もご出席されるそうです。」
エヴィアンは身だしなみを整える手を止めて、鏡越しにマディソンを見た。
「それが?」
「いえ、先にお知らせした方が良いかと思いまして。」
「これからも顔を合わせる事ぐらいあるだろう。いちいち報告しなくていい。」
「かしこまりました。」
マディソンが出て行く背中が見えなくなってから、エヴィアンは小さく息をついた。
あのティータイムの後すぐにシャロンディーナとの婚約は解消され、エヴィアンは晴れて自由の身となった。それもこれも、あの胡散臭い占い師からもらった正体不明の茶葉のおかげだ。
四か月前、エヴィアンは仕事で遠方へ出かけた際に、街を歩いているところを突然呼び止められた。というより、声のした方から不自然に足元に物を投げ落とされた。
「うん?何だこれは・・・ブレスレット?」
「おや申し訳ない。それは私の商売道具でね。ちょっと足が悪くて…ここまで持ってきて下さらんか?」
「今、投げなかったか?」
「フホホ、まさか。それより、拾って下さったお礼に良いものを差し上げましょう。」
「いらん。じゃあな。」
エヴィアンは踵を返して背を向けた。せっかくの休憩時間なのに一秒でもこんな場所で使いたくはない。しかし追いかてきた占い師の言葉がエヴィアンの足をピタリと止めた。
「おや、よろしいので?貴方様は今、女性でお困りではないですかな?」
「…何?」
「貴方様のごく身近に面倒で扱いに困る女性がいるはずです。違いますかな?」
「大抵の男にはそういう女がいるものだ。俺に詐欺を働くというのなら容赦しない。二度と商売ができなくして…」
「そうですか、それは残念。」
占い師は咳をしながらボロボロの袋の中をかき回し、目当てのものを取り出した。皺だらけの手の中には小さな瓶が握られている。
「これを使えば、お相手は貴方様を忘れてくれるというのに。」
「…!」
----忘れる?
『消える』ではなく、『忘れる』。
エヴィアンは己の反応に僅かな間が空いてしまった事に溜息をつき、ジロリと相手を見下ろした。
「忘れるだと?」
「えぇ、綺麗さっぱり。これは特別な茶葉でしてね。これで煮出した茶を飲めば、最初に見た者に関する記憶が全て消えて無くなってしまうのです。」
「ハッ、まさか!」
「ただし…」
「うん?」
「失われた記憶は二度と戻らず、今後いかに貴方様がお相手と新たな関係を築こうとしても…」
「…。」
「お相手の心が貴方様に向く事はありません。そう…これも、二度と戻りません。」
占い師がニヤリと笑う。
エヴィアンはチラと瓶に視線を向けてしばらく黙り込み、差し出された手からそれを受け取ってその場を去った。
----あれからシャロンディーナとは会っていなかったが、良い機会だ。本当に俺を忘れているか確認するか。
もしも忘れていなかったら占い師を捕まえて役所に連れてけばいい。肩書きが占い師から詐欺師になるだけで何も変わりはしない。
エヴィアンは髪を撫で付けてフッと笑い、玄関へ向かった。
*
パーティー会場はすでに多くの招待客で賑わっている。エヴィアンはアネッサと共に会場に足を踏み入れ、真っ先に主催者であるベルトン侯爵の元へ向かった。順番を待ち、挨拶を済ませて会場へ戻ると、遊び仲間のレンスターが声をかけてきた。
「よぉ、エヴィアン。」
「レンスターか。こちらはポーストン子爵家のアネッサ嬢。アネッサ嬢、こちらは私の友人のレンスター・ボルンです。」
「はじめまして、レンスター・ボルンです。」
「はじめまして。」
ふと、エヴィアンはレンスターが一人でいる事に気が付き、サッと周囲を見渡した。
「あれ、パートナーはどうした?一人で来たのか?」
「いや、いるよ。前に紹介したリザベラ嬢と一緒に来てる。ついさっき友人達を見かけたと言って挨拶に行ってるんだ。」
「そうか。」
「多分そろそろ戻ってくるよ。あ、ほら…ってうわっ!」
「うん?」
突然声を上げたレンスターの視線がエヴィアンの横を通りすぎ、背後へと向かっている。エヴィアンは友人の狼狽える表情に首を傾げつつ、ゆっくりと振り向いた。
----シャロンディーナ!
リザベラに手を引かれて近付いてきたのは間違いなくシャロンディーナだ。エヴィアンはチラとレンスターに視線を向けて、『大丈夫だ』と合図を送った。
「レンスター様、遅くなって申し訳ありません。」
「いえ、お気になさらず。ところで、こちらは…」
「私の友人をご紹介しますね。こちらはノーサン伯爵家のご令嬢、シャロンディーナさんです。」
「はじめまして。」
シャロンディーナはレンスターに向けてニコリと微笑み、挨拶をした。
「シャロンディーナさん、こちらは私のパートナーで、ボルン伯爵家のご長男、レンスター様です。」
「は、はじめまして…?」
「レンスター様、彼女は私の刺繍の先生ですのよ。とってもお上手なんです。」
「先生だなんて、そんな。リザベラさんたら大袈裟ですわ。」
「プッ…」
突然横から入った吹き出し笑いに場が静まり、三人は同時にそちらへ目を向けた。視線の先ではエヴィアンが葡萄酒を片手に肩を揺らしている。その不躾な態度に最初に眉をひそめたのは、パートナーのアネッサだった。
「エヴィアン様、どうなさったの?」
「ククク、…いや、なんでもありませんよ。」
そう言いつつも肩を揺らし続けるエヴィアンに、今度はリザベラが隣に立つシャロンディーナに声を潜めて耳打ちをした。
「シャロンディーナ様、レリオット様とお知り合いですか?」
----来た!
エヴィアンは笑うのをやめて姿勢を正し、シャロンディーナに顔を向けた。
「いえ…知りませんわ。リザベラさんこそ、お知り合いなの?」
「え!?彼を知らない!?」
「レンスター様?どうなさったの?」
「い、いや、だって…」
「レンスター。」
エヴィアンは片手を上げてレンスターを黙らせ、シャロンディーナに向き直った。
「はじめまして、レリオット伯爵家のエヴィアン・レリオットです。」
「はじめまして、シャロンディーナ・ノーサンと申します。…あの、何か?」
シャロンディーナはなぜか勝ち誇ったような笑顔を向ける男に困惑しつつも、最低限の礼儀として口角をあげた。
「いえ、何も。ところで今夜はお一人ですか?」
「いいえ、今夜はジェイクソン伯爵家のロブウェル・ジェイクソン様と…」
「何だとッ!?」
「!?」
男の大声がシャロンディーナの耳を貫いたと同時に再び空気が静まり返る。アネッサはすでにウンザリした表情で背を向け、リザベラは目を丸くしてレンスターに無言で助けを求めた。
「おい、エヴィアン!」
「お前、何考えてんだ!」
「はい?…お前?」
「よりによって……!」
「待て、落ち着け…あ!ほらほら、ベルトン侯爵夫人がおいでになったみたいだ。レディー達は挨拶に行ってくるといい。」
レンスターはリザベラに小さく頷き、リザベラは二人に声をかけてその場を離れた。その小さな背中を見送り、十分離れた事を確認してから隣で不機嫌に顔を歪める友人に声をかけた。
「おい、どういう事だ?なんで彼女は知らないなんて嘘ついたんだよ。」
「嘘じゃない。本当に知らないんだ。」
「何?」
エヴィアンは占い師から受け取った茶葉について話した。想定していた通り、レンスターの呆れた表情が返ってくる。
「お前、そんな危ないものを彼女に飲ませたのか?いくら彼女の愛が重いからって、さすがにやり過ぎだろう。毒だったらどうするんだ。」
「うるさい。お前はアイツを知らないからそんな事が言えるんだ。アイツは人前ではああやってお淑やかにしているが、俺だけになるとコロッと態度が変わるんだぞ。悪い意味でな!」
「それはお前の前では自然体でいられるからだろう?お前だって彼女の前ではダラダラしてたじゃないか。」
事実、エヴィアンはシャロンディーナと二人きりになれば、一切紳士としての立ち居振る舞いをしなかった。する気にもなれなかった。
シャロンディーナとは幼い頃のあるティーパーティーで出逢った。親が仲の良い友人同士なので両家の子供達は自然と集まっていたのだが、その時にシャロンディーナはエヴィアンに一目惚れしたのだ。エヴィアンが十一歳、シャロンディーナが七歳の時だった。
それ以来エヴィアンはシャロンディーナにずっと付きまとわれ、周りから固められ、とうとう二年前に婚約を結ぶ事になってしまった。遊びに行こうにも婚約者のいる身では羽目を外す事もできず、定期的にシャロンディーナと会うようにと親にせっつかれる日々。愛してもいない女のせいで、若さを発散できない息苦しい日々を過ごしてきたのだ。
「とにかく、やっと自由になれたんだ。二度と彼女と関わる事も無いし、数年は遊ばせてもらうさ。」
じゃあな、と手を振り立ち去る友人を半目で見送り、レンスターは溜息をついた。
*
馬車から降りて自室に入るまで、エヴィアンは一言も発さずにドカドカと足を踏み鳴らした。
----あの野郎!!
上着を放り投げ、首元を緩めてドサッとソファに座ったが、込み上げる苛立ちに無意識に立ち上がった。
----アイツもアイツだ!なんでよりによってロブウェルみたいなクソ野郎と親密になってんだよ!!
エヴィアンは棚から酒とカップを取り出し、なみなみと注いで一気に飲み干した。
----しかも、よくも俺の前で顔を隠したな!何様なんだよ!この俺が心配してやったのに!
エヴィアンは今日の夜会でもシャロンディーナと鉢合わせた。しかし初見でお前呼ばわりしてしまったのがいけなかったのか、シャロンディーナは礼節を守りながらも、気に入らない人物にのみ見せる仕草をエヴィアンに見せたのだ。
「こんばんは。レリオット様…でしたかしら?」
「えぇ、そうで……ッ!?」
シャロンディーナはエヴィアンに挨拶した直後に持っていた扇子を広げて顔を隠し、目だけをエヴィアンに向けた。こうすれば目を細めてさえいれば笑顔に見えるからだ。それを見た時も怒りを覚えたが、さらに腹が立ったのはこの日もパートナーにロブウェルを連れている事だった。
ロブウェル・ジェイクソンは表向きは紳士だが、男達の間では社交界で一、二を争うプレイボーイで有名だった。
「では、私達はこれで。行きましょう、ロブウェル様。」
「おい待…コホン、お待ち下さい。」
「はい、何でしょう?」
エヴィアンはシャロンディーナの陰で澄ました表情を浮かべる男をチラと見て口角を上げた。
「少し彼と男同士の話がしたいのですが、少しの間彼との時間をお借りしてもよろしいでしょうか。」
「あら…」
「私は構いませんよ。あ、あちらにいらっしゃるのはご友人達ではないですか?」
「あら、本当ですわね。」
「どうぞ、行ってきて下さい。私はここで彼と話していますから。」
エヴィアンの眉がピクリと動く。いつの間にそこまで知る仲になったのか。エヴィアンはパートナーの令嬢にも友人と話してくるように勧めた。
「君、彼女の元婚約者なんだってな。」
「そうだ。」
「今さら何の用だ?」
「用は無い。ただ、彼女は幼馴染でもあるから素行の悪い者に傷付けられるのは見ていられないと思っただけだ。」
「なるほど、君はとても優しい男だな。じゃあ、本気ならいいわけだ。」
「何?」
エヴィアンは隣でクルクルと小さく回されているカップの動きを冷めた目で見て、スッと視線を外した。
「俺は今まで多くの女性と関係を持ってきたけど、彼女のような女性は初めてだ。」
「…。」
「明るくて、気配りができて、話し上手なのに出しゃばらない。相手の話を聞く姿勢も良い。教養があって、愛嬌があって、相手の意見を尊重しつつも自分の意見はハッキリ言う。何度かデートしたが、彼女と過ごす時間は一瞬も退屈じゃなかった。」
----それがどうした。そんな事、お前に言われなくても知ってるさ。
「だから本気でいこうと思ってね。ところで君たちは婚約していたのに一度も会ってなかったのか?」
「どういう意味だ。」
「彼女は君を知らないみたいだった。おかしな話だ。幼馴染でもあるというのに。」
「…俺が嘘をついているとでも?」
「別に君達の関係なんかどうでもいいさ。肝心なのは彼女の心を射止める事だけだから。」
「…。」
「まぁそれも、時間の問題だけどね。お、終わったみたいだ。」
それじゃあ、と言ってシャロンディーナを迎えに行くロブウェルの後ろ姿を睨み付けてから今までずっと、エヴィアンは収まらない苛立ちに顔を歪めた。
----フンッ、もう知るか。好きにやってろ。
*
日が落ちる少し前にデートの相手を自宅に送り届け、帰りの馬車に乗り込んだところで、エヴィアンはようやく肩の力を抜いて御者に声をかけた。
「出てくれ。」
「かしこまりました。」
ガタンと揺れた車体の振動が疲れた身体に重く響いてくる。いつもならこの程度で気分が悪くなる事など無いのだが、今日は朝から体調が悪かったせいか、馬車が走り出して数分も経たないうちに車酔いで吐き気が込み上げてきた。
「おい…」
「はい?どうなさいました?」
「止めろ…気分悪い…」
「えぇ!?かしこまりました!すぐに!」
馬車を降りてすぐにしゃがみ込み、胃の中のものを吐き出した。相手に合わせて食後に甘ったるいデザートを食べたのがトドメになったようだ。そもそも食事自体が苦痛で仕方が無かった。
全てを吐き出し、御者の助けを借りて馬車に戻った。車体に身体を預けて目を閉じる。エヴィアンはまだグルグルと回る目の奥で、ふと思い返した。
----そういえば、今まで体調が悪くてもこんな思いした事無かったよな…
『エヴィアン様〜!今日はせっかくのお天気ですけど、私、今日は家の中で過ごしたい気分なんです。いいですか?』
ハッと目を開けて呆然と一点を見つめた。
----そうだ…滅多にないデートでシャロンディーナが急に家で過ごしたいと言い出した時は、いつも俺の体調が悪い時だったんじゃないか?
一度や二度ではない、シャロンディーナの突然の予定変更。レストランや入手困難な観劇のチケットを当日キャンセルする事になったとしてもまったく気にもしなかったのは、ベッドやソファで身体を休められたからだ。それも、元々デートの為に時間を空けていたので他の予定を気にする必要も無かった。
----あれは…もしかしてわざと…
まさかな、と小さく溜息をつき、目を閉じる。エヴィアンにとってシャロンディーナは自由奔放なワガママ娘だった。裸足が好きで、芝生や浅い小川を見つければすぐに靴を脱いで飛び込んでいくし、機嫌の悪いエヴィアンの頭の上に毎回最低でも五つは花冠をのせてくる。直近でお気に入りのスイーツを間違えれば頬を膨らませるくせに、甘いものが苦手なエヴィアンには意地でもそれを食べさせようとした。そんな娘が相手の心身の好不調を察するなどできるわけがない。
「着きました。大丈夫ですか?」
「あぁ…ご苦労だった。」
馬車を降り、不愉快な振動から解放されて胸いっぱいに空気を吸う。
日暮れのヒヤリとした空気に秋の訪れを感じる余裕もなく、エヴィアンはフラフラと自室へ向かった。
*
空を荒らす冷たい雪風が窓を揺らし、ガタガタと鳴り響いている。灯り一つない暗闇に落ちた部屋のベッドの上で、エヴィアンは一人、静かに目を閉じていた。
今朝はいつもより気温が低く、風が強かった。今日は仕事以外は特に用事は無い。エヴィアンは出かける準備をしながら窓の外を見て、窓のすぐ真下にある降り積もった雪に目を止めた。そこはシャロンディーナが雪団子を作る定位置だった。早朝から雪団子を作ってはエヴィアンの部屋の窓に投げつけ、叩き起こしにくるのだ。毎年。
あの傍迷惑な襲撃からもようやく解放された、と溜息をついた時だった。扉をノックして入ってきた侍従のマディソンから、信じられない言葉を受けた。
「シャロンディーナ様が…お亡くなりになられました…。」
「…何だと?は?お前…今、何と言った?」
「たった今…ノーサン伯爵家から……連絡が来ました…。うっ…ずっと病を患って…いたと…。」
「なっ…馬鹿な事を言うな!!アイツはまだ十九なん……ッ!」
エヴィアンはふと、夜会で気になっていた事を思い出し、言葉を止めた。
エヴィアンは夜会やダンスパーティーで何度かシャロンディーナを見かける事があった。顔を合わせれば扇子で顔を隠されるので、そのうちできるだけ距離をとるようにしていた。隣にはいつもロブウェルがいたのも理由の一つだった。
ある時、シャロンディーナのドレスの趣味が変わっている事に気が付いた。太って見えるのが嫌だと言ってフンワリしたデザインのものは絶対に着ようとしなかったのだが、いつからかそういうデザインのドレスばかり着ていたのだ。
それだけではない。
若い娘の間で人気の、肌を美しく見せる大胆な襟カットのものではなく、首元から袖まで肌が見えないようなカッチリしたものを着るようになった。そしてある日から、パッタリと姿を見かけなくなった。
----もしかして…体型を隠してたのか…?扇子で顔を隠してたのは…。痩せている姿を誤魔化す為…?
頭の中は真っ白なのに、耳の奥ではパズルが合わさる音がした。
『今までありがとうございました。迷惑ばかりかけてごめんなさい。…さようなら。』
エヴィアンは上着を掴んで部屋を飛び出した。
*
侍女に連れられ、通されたシャロンディーナの寝室には両親と姉夫婦、そして子供達がベッドの周りを囲んでいた。
「シャロン…ディーナ…?」
その光景が目に入った瞬間、自分の身体が金縛りにあったように硬直しているのが分かった。しかしここで立ち尽くすわけにはいかないと、無理矢理足を前に進めてベッドから数歩手前で立ち止まった。
シャロンディーナはベッドの上で静かに目を閉じている。
まるでただ眠っているだけのようなその姿を空っぽの心で見入っていると、背後から一番聞きたくない声が耳に触れた。ロブウェルだ。
「話がある。」
「…。」
エヴィアンはロブウェルに連れられて部屋に入った。今までロブウェルが使っていたのか、部屋は暖かく、ベッドのシーツは乱れていた。
「なぜ…」
「なぜここにいるかって?それは俺のセリフだ。君は何しにここへ来たんだ?まさか今さら彼女に会いに来たとか言うんじゃないだろうな。」
ロブウェルは閉めた扉にもたれて立ち、『ここを通す気はない』という目でエヴィアンを睨み付けた。
「アンタに関係あるのか?」
「君よりはね。君は彼女の体調がおかしい事にも気付かなかったんだろう?まったく、なんであの子はこんな奴を…」
「アンタは気付いてたのか!?まさか、シャロンディーナは俺じゃなくアンタに相談しっ……!」
エヴィアンは途中で言葉を切り、グッと喉を鳴らした。ロブウェルが無表情の冷たい眼差しでヒタとエヴィアンを見据えているからだ。その眼差しの意味が分からない程、子供ではない。
ロブウェルはエヴィアンに視線を刺したまましばらく考え、そして静かに口を開いた。
「俺は今年の初めに知ったんだ。彼女は俺の妹の刺繍の先生でね。身体が弱くて長時間外に出られない妹の為に、彼女はわざわざ我が家に足を運んできてくれてたんだ。」
「じゃあ、まだ婚約している時に…」
ロブウェルは頷き、当時の事を思い出して眉根を寄せた。
「ある日、彼女の様子がいつもと違って見えたから風邪でも引いたのかと思って聞いてみた。彼女は何でもないと言っていたが、帰ろうと立ち上がった時に目の前で倒れたんだ。そのまま部屋に運んで医師に見せたら、胸に病を抱えている事が分かった。」
「そんな…アイツ、そんな事一言も…」
「言えるわけないだろう。彼女は君を心から愛していたが、君はどうだ?彼女を愛していたか?」
喉が詰まる。愛してはいなかった。
「彼女もそれは分かっていた。婚約して二年も放置されたら誰だって気が付く。」
「…。」
「だから彼女は君には言わず、ギリギリまで君の側にいる事にしたんだが…」
「…りょ…は…」
「うん?」
「治療は受けなかったのか?」
「彼女は受けるかどうか迷っていた。」
「なぜだ!」
「治療を受ければ君に知られてしまう。でも、ただでさえ避けられているのに病を抱えていると分かればもう会ってすらもらえないかもしれない。君は自分の意思で彼女に会いに行った事は一度も無いんだろう?」
「…。」
「だから最後の希望に賭けたんだよ。君が彼女を少しでも愛しているかどうかを。」
「最後の希望?…まさか…あの茶か!?」
エヴィアンはシャロンディーナの最後の言葉の意味を間違えていた事に気が付いた。病を隠したままエヴィアンから去ろうとしたのではなく、エヴィアンの愛を確かめようとしたのだ。命を賭けて。
「あれは本当に毒だったのか…?アイツはそれを知ってて…」
「いいや、あれはただの茶だ。異国のものだからこの辺りでは珍しいものだが…」
「じゃあ俺を忘れたふりをしてたのか!?あの占い師も仲間だったのか!?」
「お前がそれを望んだからだろう!!彼女はお前の本心を知りたかった!上辺や建前ではなく、お前自身の気持ちをな!そうしたらお前は彼女の中から自分への愛を消す事を望んだ!だから彼女はそれを受け入れたんだ!!」
「…ッ!」
シンと静まる二人の間で暖炉の薪がパチパチと音を立てている。パンッと弾ける音にハッと我に返り、エヴィアンは沈痛な面持ちで見つめてくる男と目を合わせた。
「君との婚約を解消してから彼女がどんな思いで過ごしていたか分かるか?君を忘れたふりをして、君が他の女と楽しそうにしているのを見なければならなかったんだ。生きる望みもなく、治療も拒んで…いや、でもこれは彼女が自ら選んだ方法で君のせいじゃない。彼女の心が彼女のものであるように、君の心は君のものだから。それに…もう終わった事だ。」
ロブウェルは溜息をつき、エヴィアンに背中を向けた。そしてそのまま部屋を出ようと扉の取っ手に手をかけたところで、後ろで立ち尽くす男に最後の言葉をかけた。
「さっきも言ったが、あれはただの茶だ。でも彼女にとっては猛毒だった。君への愛を終わらせる為の、な。」
パタンと扉の閉まる音が、やけに大きく耳に伝わってくる。
エヴィアンは耳に残る振動の奥で、占い師の声が聞こえた気がした。
『お相手の心が貴方様に向く事はありません。そう…これも、二度と戻りません。』
*
窓の外は枯れ葉が舞い落ちている。時折冷たい風がビュウッと勢いを増して吹き荒れ、まだかろうじて緑を残している葉も無情に散り落としていた。
扉をノックする音がして、ゆっくりと視線を向ける。思うように動かせなくなった身体では満足に客人を迎える事もできなかった。
「おじい様、ご友人のボルン様がお見舞いに来て下さいましたよ。」
「やぁ、エヴィアン。元気そうだな。」
「レンスターか…久しぶりだな。」
「あぁ、久しぶりだ。まだ生きてて良かったよ。」
レンスターはククッと笑い、用意された椅子に腰掛けた。エヴィアンは二人きりにしてほしいと孫娘のジェニアに伝えた。
「治療を受けてないそうだな。」
「あぁ。」
「彼女と同じように?」
「…。」
エヴィアンはその問いかけには答えず、じっと天井を見上げた。
シャロンディーナとの婚約が解消されてからは、自由を得られた喜びにうつつを抜かして遊び回っていた。しかしシャロンディーナが亡くなってからは、突然胸に穴が開いたように感じて全ての事がどうでもよくなった。
どこへ行っても、何を食べても、誰と肌を重ねても心の穴は埋められず、結局親の決めた相手と愛の無い結婚をする事になった。そして皮肉にも、結婚した事でシャロンディーナのいない生活がいかに単調でつまらないものかを痛感した。
冷めた夫婦関係。会話のない食卓。子を宿す為だけの行為。
最初は自分と同じように愛の無い結婚をした妻に同情して、一から愛を育てていこうと努力していた。しかし妻には結婚前から想いを寄せる男がいると知り、それもやめてしまった。
シャロンディーナに愛されているという事がどれほど幸せな事だったのか、ようやく気付いた時には全てが遅かった。
「なぁ、レンスター…」
「うん?」
「やっともうすぐ彼女の側に行ける。アイツは俺を許してくれるだろうか…」
「お前…」
----結局俺は、ずっとアイツの愛に捕らえられたままだった…
ふと、無邪気に花冠をのせにくる少女の姿が脳裏に浮かぶ。
エヴィアンは込み上げる愛しさに瞳を潤ませ、ゆっくりと瞼を閉じた。
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