575 優勝候補になり得るライバル
基本的に何でも出来るオールマイティーな人だから、ウィリアムお兄様が楽器が出来るのだということは、巻き戻し前の軸の時から知ってはいたけれど、お兄様と私自身の年齢が6歳も離れているからこそ、実際、私がマナー講師に色々と教えて貰うようになる頃には、お兄様は全ての教育課程を終了させていたし。
この6年の間に、私がダンスの練習などをするのに付き合ってくれて、その細長い指が、鍵盤楽器であるチェンバロを演奏するようなことはあったものの、お兄様がバイオリンを弾いている姿を見るのは、これが初めてのことで、教室の中で、熱心にお兄様の方を見つめる生徒達と同様に、私は扉の隙間からそっと眺めていた練習室の中のお兄様の姿に、釘付けになってしまった。
そうして、背筋を真っ直ぐに伸ばしたお兄様がバイオリンを肩に置き、優雅にその弦を弾いていくと、美しい旋律が部屋中に響き渡っては満ちていく。
そのあと……、ややあって、壮麗なまでに聞こえてきていたクラシック音楽が終わりを迎えていくと、辺り一面が残響の余韻と共に、徐々に静まり返っていくのが分かって、お兄様の立ち姿と共に、まるで、息を呑むほどに美しい光景が、目の前に広がっていっていることに、私は『お兄様は本当に何でも出来るなぁ……』と思いながら、グッと息を呑みこんでしまった。
「お前達……、いいか……っ?
自分だけに注意がいってしまうと、どんなに音程を表すピッチが正確であろうとも、周りと比べて音が急ぎがちになって、どうしても一歩、早くなったりするものだ。
だからこそ、少しピッチが甘くなっても構わないから、音が一体になるよう、周りの音をよく聞いて、周囲に合わせるつもりで弾いてみるようにしてくれ。
それじゃあ、もう一度、今、俺が見本で弾いた、ワンフレーズに合わすようにして、繰り返し練習することにしよう」
そうして、お兄様が芯が強い口調ながらも、生徒達に向かって『もう一回、同じ所を弾くように』と声に出して指導している姿が見えると、そんなお兄様の言葉に、しっかりと頷き返しながら、真面目な表情を浮かべて『はい、ウィリアム殿下、頑張ります……っ!』と声を出したあと、自分達の持っている楽器に真剣に向き合い始めた、生徒達の演奏が再開していくのが見えた。
そのあとで、生徒達がそれぞれに気を付けながら、周りの音と自分の音を合わせようと努力しているのが手に取るように伝わってきて、私は、思わず『凄いっ、お兄様の指導が本当に上手だから、演奏が凄く良い感じになってきている気がする……っ』と、驚きながらも、これは、ぼんやりしていられないなと、ドキドキしてしまった。
私たちが今日、初めての台本読みをすることになったように、どこの学科も今度のイベントで披露する催し物の練習は、まだまだ始まったばかりだというのに、お兄様の声かけで、みんなが、俄然、やる気になって士気も高まっているところを見るに、私たちが優勝を目指すなら、気を抜くことは出来ないほど、この学科の人達がライバルとして立ち塞がってきてしまうかもしれない。
『いつも、傍にいてくれていたから、お兄様が鍛え上げた生徒達と戦うことになるということの重みを、きちんとは認識出来ていなかったけれど……。
きっと、この感じだと、驚くほど早く上達して、本番までに仕上げてくるに違いないはずだよねっ』
――やっぱり、どこの学科も、イベントで上位のクラスに選ばれると、国から出されることになるっていう褒賞を狙っていたりするのかな……っ?
そうして、私が内心で、そう思っていると……。
「あぁ……、やっぱり、ウィリアムの学科は、俺たちのライバルになり得る可能性が高いよな……っ。
バイオリンを弾いているだけで、あんなにも様になるようなことがあるのか……っ!
アリス姫、ウィリアムに出来ないことはないのか……?
元々、貴族の令嬢や令息達が集まっていることを思えば、ある程度、音楽を嗜んでいる奴らも多いだろうし、今度のイベントでも、このクラスが、優勝の筆頭候補になるのは間違いないだろうな……っ!
そういうことも踏まえて考えると、もっと、演出を派手にするとか、対策を練らないと、うちの学科は、かなりマズイかもしれない」
と、ノエル殿下からそう言われたことで、私自身もパトリシアやステファン達といったクラスメイト達が頑張っているのが分かっているからこそ、クラスのために頑張りたいなと思うし、その言葉には凄く納得がいって。
「えっと、そうですね……、お兄様は本当に、幼い頃から何でも出来る方だったので、多分、私たちがもっと一生懸命に練習などを頑張らないと難しいと思います……っ。
それだけ、お兄様には、どこにも隙がないので……っ」
と声に出したら……。
「あぁ……、そうだろうな……っ!
生徒じゃないから、ウィリアムが舞台に出ないってことだけは、ダヴェンポートに感謝してやっても良いくらいだ。
ていうか、今まで、ずっと思ってたんだが、アリス姫の身の周りの人間って、全員、スペックが高すぎじゃないかっ?
セオドアも、騎士としての腕前は、そんじょそこらの人間が敵わない程、飛び抜けてんだろうし、ウィリアムは万能で、オールマイティーに何でも出来すぎて、ルーカスだって、涼しい顔をしながら、何でもそつなくこなすだろうっ?
そんで、オマケに、アルフレッドは、天文学部と生物学部の講師を務める教授達が、教えることがなさ過ぎるほどに優秀だって褒めてたからなっ。
アリス姫の周りには、非凡な才能が集まりすぎているといってもいいな……っ」
と、ノエル殿下から、続けて、ほんの少し呆れたような様子で『アリス姫の周りにいる人間は、全員が全員、持っている能力値が可笑しすぎるんだよな』と言われたことで、私自身も、それには、もの凄く同意することが出来て、こくりと頷き返しながら……。
「そうですね……っ。
私が一番何も出来ないので、いつも、セオドアや、アルだけでなく、お兄様やルーカスさんにも助けてもらってばかりで……、本当にみんなには、感謝しているんです」
と、真面目に返すことになってしまった。
非凡と言えば、私から見て、ノエル殿下もそういう風な感じの片鱗が見られることがあるけれど、能ある鷹は爪を隠すといった感じで、ノエル殿下自身が、そういうのを、あまり見せないようにしているふうに見える時も、度々、あるんだよね……。
もしかして、それは、ノエル殿下自身が、ダヴェンポートさんや、他のソマリアの家臣達から、あまり注目を集めないようにするためだったりするのかな……?
「あー、いや、俺から言わせると、その中でも特に、アリス姫が、一番、非凡だと思うけどな……っ」
「……えぇっ、私がですか……? 一体、どうして……?」
「だって、そうだろうっ?
そんなふうに、非凡で、才能に溢れたような人間達が、揃いも揃って、たった一人、いつだって、アリス姫を護るために、尽力しているくらい、アリス姫自身が特別扱いされて、周囲からの庇護を受けまくっているんだから……。
それだけ、何人もの人間から、大切に思われているのなら、アリス姫の存在そのものが、唯一無二の宝物だってことの証しだろう?
ということは、だ。
アリス姫は、そこにいるだけで、どんな宝石よりも価値があるってことに他ならない。
だからこそ、美しく輝く宝石として、誰の手にも渡っていない真っ新で貴重な宝物を、この手に掴み取りたいと思うのは、人間が当たり前に求める純粋な欲求でしかないだろうし。
俺は、自分の欲望には、滅茶苦茶、素直だからな、このチャンスを逃すつもりもない」
そうして、あまりにも明け透けな言い分で、ノエル殿下にそう言われたことで、私は思わず、ノエル殿下の方を見つめて、目をパチパチと瞬かせて驚いてしまった。
お兄様達に比べると、私自身は自分のことを『平凡』だと思っているし、どう考えても、自分自身がお兄様達のように非凡な才能を持っているとは欠片も思っていなかったから、余計に、そう感じることになってしまったんだけど。
「アリスが唯一無二の存在だというのは、僕も認めるところだが、それで、アリスを手に入れようとしていると言われても、僕は納得出来ないし、許せないぞ」
「あぁ、アルフレッドだけじゃなくて、特に強く、セオドアや、ルーカス、それから、ウィリアムがそう思っているってのは、俺にも伝わってくるし、分かってるよ。
だけど、欲しいものを苦労して手に入れようとすればするほどに、俺自身が、燃え上がる質なんでね……っ!
それが、アリス姫だっていうんなら、幾らでも、努力するすることが出来る」
「あの……、ノエル殿下に、そういう風に言って貰えるのは嬉しいんですけど、私自身は、この留学を成功させることでいっぱいで、今は、そんなところまでは考えられなくて……」
「あぁ、今のアリス姫に、そういう思いがないってことは俺も理解しているよ。
だけど、アリス姫自身、演技の振り幅で、今日の劇の練習の時、スヴァナ先生に言われて、恋愛面の感情を出すのに悪戦苦闘してただろうっ?
だったら、劇の練習っていう名目で、そういうのを知る意味でも、俺は、悪い相手じゃないと思うけどな」
その上で、一度だけ断ったあと、それでもなお、私の方へと色々な提案をするかのように、ノエル殿下からそう言われたことで、確かに私自身、今日の劇の練習の時に、恋愛面の感情を出すのに苦心してしまっていたけれど、そういった部分を突かれるとは思ってもいなかったため、ノエル殿下が、そういう感情を知るのに協力してくれようとしていることを知って、ちょっとだけ、ドキっとしてしまった。
そのあと『たとえば、ほら、こんな感じで……っっ』と、私越しにドンと廊下の壁に手をついた上で、その身体に囲われるようにして真剣な眼差しで見つめられてしまったことに、あまりにも突然のことで驚き、心の中が心拍数をあげて、わぁぁっっと、内心で戸惑ってしまっていると。
「オイ……っ、! ノエル、お前、俺の大事な妹に何をしている……っ?」
という、聞き慣れた低い声が、あまりにも近くから聞こえてきたことで、私は驚いてパッと顔を上げてしまった。
見れば、いつの間に、私たちが来たことに気付いてくれたのか、さっきまで、生徒達に向かってバイオリンを弾きながら丁寧な指導をしていたお兄様が、私たちが、ちょっとだけ開けていた扉を、しっかりと開かせた上で、怒ったように、ノエル殿下の方を見つめていて、私は、弾けるように『お兄様……っ!』と、声を出して、ノエル殿下の腕からそっと離れるようにして、お兄様のもとへと駆け寄っていく。
「アリス……、セオドアはどうしたんだ……?」
そうして、生徒達の方へと振り返って『お前達、10分ほど休憩することにしよう。……続きは、それからだ』と短い休憩を告げてくれたお兄様が、訝しげに眉を顰めたあと、いつもなら、この場にいるはずのセオドアの姿がないことに、怪訝な表情を浮かべるのが見えたことで。
「それが……っ、実は今日、セオドアは、ライナスさんに要請されて、急遽、騎士科の方に行くことになってしまったんです。
何でも、あまりにも騎士科に通っていなかったことで、騎士科に通っている生徒さん達からも、いつ頃、セオドアがこっちに来てくれるようになるのかと、気になった様子で熱望されていたそうで、どうしてもって言われて、断れなくて……。
昨日、あんなことがあったばかりなので、セオドア自身は、最後まで私の心配をしてくれていたんですけど、折角だから、私がセオドアに騎士科の方に行ってあげて欲しいって伝えたこともあって……、後ろ髪を引かれるような感じだったのですが……」
と、事情を説明するように声を出したら、お兄様が、驚いたように目を見開いた上で、『昨日の今日で、セオドアがお前の傍にいてくれないのはかなりの痛手だな。なんでよりにもよって、今日なんだ……っ』と、思い切り眉を寄せたのが目に入ってきた。
その上で、視線を私たちの方に向けてくれたお兄様が、今、何を考えてくれて、何を心配してくれたのかは、私にも手に取るように伝わってくる。
『恐らくだけど、この場にアルもいてくれるとはいえ、ノエル殿下とこういうふうに、一緒に過ごすことになっているのを、もの凄く心配してくれているんだろうな……』
ジッと私の方を見つめてくるお兄様からの視線が『大丈夫なのか……?』と私を気遣ってくれるようなものになったあと、ノエル殿下の方を見つめながら……。
「それで、ノエル……っ、お前は、俺の大事な妹に、何を勝手なことをしているんだ……?
自分の命が惜しくないみたいだな……っ?」
と、続けて、ノエル殿下に突き刺さるような鋭い眼差しを向けて、あまりにも低い声色で言葉をかけてくれたのが聞こえてきたことで、私は慌てて『いえ、お兄様、私自身は何ともないので大丈夫です。どうか、お気になさらないでください……っ!』と、止めるように声を出した。
その言葉に、みんなが驚いたような表情で、私の方を見てきたんだけど。
勿論、私自身、何も考えもないまま、ノエル殿下を庇うような台詞を言った訳じゃなく、今日、一日、朝からずっと、ノエル殿下がいつにも増して、私に対して興味や関心を膨らませていっていることは、誰もが気付いていることだったと思うし。
そういった状況が、今後もずっと続くようであるのなら、私自身がノエル殿下の言葉を断り続けるよりも、この状況を逆手にとって、ノエル殿下の真意を確かめるために、もう少し距離感を詰めて近づくことは出来ないかなと思ってのことで、ノエル殿下には見えないところで、お兄様に視線だけで、その意図が伝わるようにアイコンタクトを交わすと、私の視線を受けて、お兄様がノエル殿下に詰め寄っていた状態を解除してくれながらも『……っっ、アリス』と、私の方を気遣うように、更に、心配した瞳で見つめてきてくれた。
そのことに、ちょっとだけホッとして、胸を撫で下ろしていく。
私自身、さっきのノエル殿下の突然の行動には驚いてしまったものの、それでも、実際には、ノエル殿下が、劇の恋愛面の感情を引き出すことに協力してくれる感じになるのなら、この機会に色々と距離を縮められる可能性だって高まる訳で、そのチャンスを逃すのは、勿体ないと思うから……。
ある程度、危険かもしれないものに飛び込んでみなければ、何の情報も得られなく手遅れになってしまう可能性だってあるだろうから、私自身、情報収集を得意とするような諜報役には全く向いていないけど、セオドアや、お兄様達の手ばかり借りている訳にはいかなくて、自分の力でもノエル殿下に接近して頑張る必要があるよね……っ?
その上で『私は大丈夫なので、何も心配しないでください……っ』と、柔らかい表情でお兄様を見上げながら、視線だけで告げると、お兄様がグッと息を呑み込んだあとで『はぁ……っ』と小さく溜め息をつきながらも……。
「お前が、どうこうじゃなくて、俺自身が嫌なんだ……。
俺にとって、お前は、本当に心の底から大事な存在……、っっ、大事な妹なんだからな……っ」
と、何故か、ウィリアムお兄様が、私のことを大事な存在だと言ってくれたあと、その言い方があまり良くなかったと言わんばかりに、言いよどんでから、私のことを『大事な妹』だと強調するように言い直してきたことで、私は、その言葉に、嬉しく思いながらも、あまりにも珍しいお兄様の態度に、思わずキョトンとしてしまった。