562【セオドアSide】――まだ、何も持っていなかった子どもの頃の出来事
姫さんの身体を抱きしめたこの腕が、ほんの僅かばかり、震えている。
その身体を抱きしめたことで、体重の比重がそっちによって、姫さんだけじゃなくて、俺の重みもプラスされ、二人分の重みで、ベッドのスプリングが、ぎしりと揺れるのを聞きながら、何も香水のようなものは付けていないのに、いつだって、優しい石鹸のような、柔らかな香りのする姫さんに、ほんの僅かばかり、確かに癒やされながらも、俺にしては珍しく、ただただ緊張感が高まっていくのを感じていた。
今までにも、何度か、軽い感じでなら、そういう話をしたこともあったし、姫さんは何を聞いてもきっと、絶対に俺のことを受け入れてくれるだろうなっていう思いはあるものの。
それでも、誰かに語って聞かせるには、俺の過去も、姫さんのものと同様、あまりにも重たくて、話を聞いて、どんな風に思われるのだろうという、不安みたいなものは、どうしても付き纏ってくる。
出会ってから、これまでの間、姫さん自身は、俺のことを気遣ってくれて、自分からは、絶対に俺にそのことを聞こうとしてこなかったし。
本当に話しにくいことに関しては、心の奥底を無理矢理こじあけようとして、無遠慮に入ってくるようなこともなく、適切な距離感を保った上で、不用意に触れてきたりもせずに、聞かないでいてくれることが、本当に有り難くて、俺もずっとその状況に甘えてしまっていた訳だけど。
こうして、他でもない姫さんに、話を聞いてもらえることは、俺にとっても、良い機会であることには間違いないはずで、いつかは、自分の事情についても、しっかりと話さなければいけないことでもあると感じていたから……。
だからこそ、ガキの頃の自分を思い出して、その良くない記憶に、俺は、ほんの少し眉を顰めながらも、俺の腕の中にいる姫さんの耳元で、ゆっくりと、語って聞かせるように自分の過去のことを話し初めていくことにした。
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俺が、娼婦だった母親から捨てられたのは、大体、5歳くらいのことだったと思う。
捨てられた理由は単純明快で『男の子どもは食い扶持ばかりが増えて金がかかって仕方がない』という理由からで、俺自身、突然のことに、動揺する間もなく、いきなり、外の世界で生きて行くことを余儀なくされてしまった。
母親が、住み込みで娼館で働いていたことから、娼館にいた頃のことは、朧気ながらも、俺自身が、薄らとした記憶を持ってはいるが、煌びやかな内装の娼館に、派手めのドレスと、甘ったるい匂いが充満して、表向きは綺麗に整えられたその場所も、反面、俺たちが暮らしていた、娼婦が生活する用に用意されていたその一室は、母親と暮らすには狭かったような記憶がある。
そうして……、娼婦だったこともあり、多分、見た目だけは、美人で綺麗な感じの人だったんだと思うんだけど、自分の母親が、どんな雰囲気を持っていたのかすら、もうハッキリとは思い出せないような感じになってしまっているほど、記憶としては曖昧で……。
僅かに覚えていることといえば、母親という、その存在が、『セオドア、見てみなよ、空が凄く綺麗だよ』と多少、機嫌が良い日に、俺のことを見てくれた瞬間があったりだとか、そういった片手で数える程しかなかったくらいの良いことと。
その仕事上、酒に溺れて、ストレスを溜め込んで『アタシが、こんなんになってんのは、全部、お前の所為だろうがっ!』と、いつも、不機嫌に、苛々しては、俺や物にも当たったりしていたことがあったということくらいだろうか……。
そうして、最後の別れの言葉が『誰の子どもかも分からないお前を、ここまで育ててやっていただけでも有り難いと思いなっ!』という言葉だったということだけは、頭の中に離れない記憶としてこびりついている。
俺自身、別に、不幸だったことを、特別、自慢する訳でもねぇが、そもそも、それまで過ごしていた環境を考えても、一般的な子どものように幸せな生活というものが送れていた訳でもなく。
一般的に話を聞けば、多分、誰しもが俺の境遇を憐れむだろうなっていう中で、それでも唯一、俺にとって救いだったのは、殆ど、育児放棄の状態に近かったことで、早くからそういった状況には、危機感を覚えていて、母親の顔色や、娼館の女主人の顔色などを窺いながら、曲者揃いの人間達の中で、何とか自分の存在そのものを保つために、自分のことはなるべく自分で出来るようにしていたことだろう。
だからこそ、母親から捨てられたあとも、直ぐに直ぐとはいかなかったが、自分でどうにかしていくしかないというような思いに駆られるのは早かったと思う。
それでも、右も左も分からないような世界に、突然、放り出されちまったことで、まともな食事にありつけるのにも時間がかかったし、最初は、それこそ道ばたに咲いているような草を食うところからスタートして、喉の渇きと共に、雨が降れば、それが、俺にとって、恵みの恩恵になるほどに、常に、飢えと渇きで身体は空腹の状態だったといってもいい。
だけど、そんな俺でも、当時、俺がいた国の中では、娼館自体が、どちらかというのならスラム街の近くに建てられていたこともあって、子どもの足では丸1日ほどかかったが、直ぐにスラムに辿り着けたことは、比較的、幸運な方ではあったんじゃねぇかな。
お陰で、早い内から、薄汚れてしまった浮浪者や、俺と同じ感じで捨てられてしまった子どもなど、教会の孤児院にさえ預けられることもなかった行き場のない奴らが最後に行き着くようなその場所で、周りを見渡せば、俺と同じような境遇にいる奴らが、どうやって生きているのか、手本に出来るほどに沢山いたってのは、本当に僥倖だった。
この世界では、強い者が生き残り、弱い者から、どんどん、淘汰されては、消えていく。
どんな場所であろうとも、大概は、そうであり、そういう意味では、俺自身、この世の真理について一早く気付くことも出来ていたと思う。
それでも、他の追随を許さないくらいに、スラムほど、そういうふうに食うか食われるかといった感じで、弱肉強食の殺伐とした空間が、ハッキリと形成されているような場所も、他にないだろう。
お陰で、俺は『年齢的なものから弱者だと思われ、誰かから付け狙われていく』その度に、人の悪意や敵意に晒されて、世の中に信じられるものは何一つ存在しないっていう、クソみたいな現実に直面しては、心の底からこの世界を憎んで、荒んでいってしまったし。
捨て子だってだけで、一般の人間が生活しているような場所にはどこにも居場所がなく、見た目だけで判断されて、何もしていないのに盗人のような扱いを受けたり、犯罪者を見るような疎ましいと言わんばかりの瞳で見つめられて、追い払われたりするのは日常茶飯事で、文字通り、最下層にいる俺等に人権なんて無きに等しいのだと悟るのに時間はかからなかった。
そうして、マトモな人間から、疎ましく思われ、貶され、汚物を見るような目つきで邪険に扱われていったことで、誰も信じられなくなった人間が、掃きだめのようなスラムという場所に集まってしまうからこそ、他人に対して助けてやろうと思うような気持ちが湧き上がってくることもなく、奪い、奪われるような生活が当たり前になって、他者を尊重することも出来ねぇ世界が構築されていく。
『この世の中で、弱者ほど脆いものはないだろう』
ある程度、スラムで手慣れてきた奴らにとっちゃ、初めてスラムに来た人間なんて、本当に、良いカモでしかなく、たとえ、スラムにやってきた奴が金目の物を持っていなかったとしても、着ている服があまり汚れていなくて、綺麗だってだけで、狙われる対象になっちまう。
それを、罪の意識がなくなって当たり前のように感じている奴らほど『スラムの洗礼』だって言って、都合の良い言葉で、その行為を正当化していたりもする訳で……。
外の世界で生きることになった俺にとって、襲いかかってきた初めての暴力は、正に、ソレだった。
金目の物は持っていなかったし、決して俺自身も上等な服を着ていた訳じゃなかったが、ただ、自分よりも綺麗そうな服を着ているっていうだけで、俺よりも、少し年齢が上のガキが『……お前、随分、良い服着てんじゃねぇか……っ』って声をかけてきて、こっちの身ぐるみを剥がそうとしてきては、それこそ、殴られて、蹴られて、青あざを作って、本当に、ボロボロになるくらいに怪我をしまくったと思う。
だけど、俺にとって、初めて対峙する相手が、大人ではなくて、少し年上のガキだったのは、本当に、恵まれていたことだった。
幾ら、俺よりも少し年が上であろうとも、ガキはガキだ。
まだ、体格も何もかもが、きちんとは出来上がっていない訳で……。
だからこそ、ただ、やられるだけじゃなくて、訳も分からない状態で『……っ、ふざけんな、俺が身につけてるもんは、全部、俺のもんだ……っ』って、自分の身体能力を活かしながら、がむしゃらに戦って、辛くも掴んだ勝利に、俺自身。
『何も出来ないままだったら、今、この瞬間にも、俺を襲ってくるような奴はいて、ただただ、他人から搾取されて、奪われるだけだったんだよな……っ』
と、ぎりっと唇を噛みしめて、そう感じながら、周囲を見渡せば、そういうふうに他人から奪われた奴らがごろごろと転がっていて、何も食べれないことに、どんどん体力を奪われて『ひゅー……っ、ひゅー……』と、目に見えて荒い息を溢しながら、身体を弱らせていっているのは目に入ってきたし。
その時に、何も出来ない者は、ただの弱者でしかなく、この世界そのものから弾かれていってしまって、最悪、本当に、呆気なく、あっという間に死んでしまうのだということを学ぶには、充分すぎるほどの時間だったっていうか。
多分、少しでも何かしらのタイミングが狂って、俺を襲ってきたのが、その時に、太刀打ちも出来ねぇような大人だったとしたら、もしかしたら、俺も、その場で死んでしまってたかもしれないって感じるくらいには、警戒心を跳ね上げざるを得なかった。
そうして、俺が、初めて自分を襲ってきた他人から奪えたものは、どこで手に入れたのか分からないタオルのような布きれ一枚だけ。
その布きれ自体、ある程度、使い古されて、ガビガビになってしまっていたりもしたが、それでも、それまで歩きまわって、やっとのことでスラムに辿り着いて、疲れきっていた俺からしたら、そういったものを地面に敷けば、多少は座るのにも楽になるし、有り難いものであることには変わりなく……。
その上で、ゆっくりと休むような場所ですら、きちんと考えて確保しねぇと、眠っている間に、誰かに襲われる可能性があるっていうことで、俺自身、かなり神経を張り巡らせて、気を遣っていたと思う。
結局、その日は、殆ど眠ることが出来なかったし、実際、俺がそういった場所にいた頃に、マトモに眠りにつけるような日は殆どなくて、そのうち慣れて、段々と眠りにつかなくても大丈夫になっていっても、常に、誰かから襲われる可能性というのは、頭の中を過っていたといってもいい。
ただ、スラムでの暮らしについて、俺自身、順応するのは、滅茶苦茶、早かったと思う。
その上で、そういった場所に拠点を置いて、生活をし始めると、直ぐに、自分が誰かから狙われやすいってことにも気付くことが出来た。
それもそのはずで、スラムみたいな汚い所にいれば、その場にいる全員が明日食うのにも困っている状況の中で、どうしても、俺みたいな小さいガキから狙っていって、脅して小間使いにしたり、とりあえず、声をかけて恐喝しておけば、何か金目になるようなものが出てくるかもしれないって思われる確率の方が高かったりで、多分だけど、周りからの注目も集めやすかったんだろうな……。
だから、自分より身体もデカくて、強そうな雰囲気の大人からは、狙われた時には戦うこともするにはするが、敵わないと分かれば、極力、体力を温存するために撤退することも視野に入れることにして、逆に、少し年が上くらいの年齢の子どもからは敢えて狙われるように隙を見せることで、俺を狙って襲ってきた奴らから、色々なものを巻き上げるっていうことをやり始めたり……。
そういうことをしていかないと、ただでさえ、ハードモードな人生を渡り歩いて行くことは出来なかっただろうし、多分、真っ当に、この世界を生き抜いていくことすらも難しかっただろう。
特に、大人達なんかで、ある程度事情を知っていて、捕まえたら、金になるってのが分かっている奴らからは、年齢だけじゃなくて、俺がノクスの民だって特徴を持っていたことについても、狙われやすさには拍車がかかっていただろうから……。
それでも、俺自身、何も持っていなかったガキの頃は、他人から奪われるようなことも山ほどあったし、全戦全勝とはいかない感じで、目測を見誤り、誰かから負けて、重たい身体に鞭を打って、必死で足を引きずって逃げるようなことだってあった。
だからこそ、最初から、全部が全部、恵まれていた訳じゃなくて、寧ろ、その逆で、滅茶苦茶、怪我をしまくったけど、誰かと戦って、実践形式の対人戦を何度も何度も積み重ねていくことで、自分の身体能力や、経験なんかを活かして、一歩、一歩、着実に強くなっていくことが出来たと思う。
『それは、俺にとって、文字通り、俺のことを護るための研ぎ澄まされた牙になっていく』
誰かから、奪われることのないように……。
誰も、俺のことを侵害することのないように……。
――そのために、俺自身、自分の身体能力を極限まで引き上げる努力を怠ったことは、一度もなかった。
だけど、その度に、心が疲弊していっていたし、常に警戒の網を張って、気の休まるような時間なんて、本当に全くなくて、自分の身体を鍛えあげて強くなっていけばいくほどに、この世の中には、上手いことを言って人を騙そうとしてきたり、自身の力を以てして他人を蹂躙していったりといった感じで、出会う人間全てが、俺から見りゃ、最低の屑でしかなくて、余計に、誰のことも信じられなくなっていく。
そうして、世の中にある、大抵の、詐欺や暴力行為なんかで、ありとあらゆる犯罪に遭遇して、自分以外に頼れるものは何もないって強く思うには、本当に充分すぎるほどの時間を過ごしていく中で……。
俺は、自分が10歳くらいの年になった頃、放浪の民として世界各地を回って旅をしていた、スヴァナやライナスもいた、ノクスの民の一団に出会うことになる……。
実際に、その時は、微かに、俺自身、まだ希望を持っていて、『今まで爪弾きだった俺』だけど、それでも、ほんの少しでも、同じ黒髪に赤色の瞳を持つ、同胞と出会えれば何かは変わるかもしれないって、多少、期待するような気持ちもなかった訳じゃない。
ただ、俺自身、あまりにも、そこまで行く過程で、人から裏切られて、手酷い目には遭いすぎていたし、自分以外には誰も信用出来る奴がいないって、思っていたこともあって、荒みきった瞳をしていたのには変わりなく……。
その上で、初めて出会ったノクスの民との出会いは、俺にとっては、苦い思い出を残すような感じになってしまうだけだった。