488【セオドアSide】
ここ数日の間に、これまでの我慢が一気に溢れだしたかのように、必死で声を抑えながら、ボロボロと抑えきれなかった涙を溢して泣きじゃくり、その瞳を真っ赤に腫らしていた姫さんの姿に、俺はまるで自分のことのように胸が痛くなるのを感じていた。
それから時間が経って、姫さんとアルフレッドと一緒に、前皇后のお墓参りにやってきたことで、幾分かは、その目元もスッキリしてはいたものの、それでも、姫さんの姿は、護ってやらないと今にも倒れてしまうんじゃないかと思うくらい気丈なもので、俺たちに対しても、そういった弱った姿を極力見せないようにと、今も健気に頑張っているのだと思う。
それくらい、姫さんの中では無意識なうちに、少なからず皇后のことも負担にはなっていたのだろうし、何より、あの食事会の一件以降は特に、姫さんは本当に誰に対しても、自分の身を粉にして、一生懸命に誰かのために心を砕き過ぎていると感じてしまうから……。
俺自身も、ガキの頃は特に、碌な幼少期を送ってこなかったし、娼婦だった母親から食い扶持を減らされると、3歳くらいの頃に追い出されて以降は、スラムのような汚い場所で、泥を啜りながら暮らしてきたけれど……。
たとえ、高貴な生まれであろうとも、姫さんの境遇は、傍から聞いているだけで、まるで自分のことのようにモヤモヤしてきてしまうくらいには、あまりにも悲惨なもので……。
今までのことを考えると、俺は、複雑な気持ちを抱えたまま……、陛下に対しても、遅まきながらも姫さんのために努力しているのは伝わってくるが、今まで姫さんを見てやれていなかったことや……。
前皇后に対しても、皇宮で過ごすうちに、どんどん追い詰められてしまっていたのだと、勿論、分かった上で、姫さんに対して『もう少し、親子としての絆をしっかりと紡いでいくことは出来なかったのか』と、自分の子供に接する親としては、あまりにも未熟とも思えるほど、不器用すぎると感じてしまっていた。
俺だって、ガキの頃から、家族からの愛情なんて受けたことがなかったけど、でも、だからこそ、そう思うのかもしれないし、理想が高いって言われれば、それまでのことなのかもしれないんだけど……。
もしも、俺が姫さんの家族だったのだとしたら、もっと姫さんのことを大切に扱うし、決して、悲しい思いも、独りぼっちにさせて寂しい思いもさせることなんてなかったと思う。
それだけ、俺にとって姫さんの存在は特別であり、大事な人だからこそ、ただひたむきに、その手を握りしめて、絶対に愛す自信があるというのに……っ!
内心で、そう思うからこそ、不器用な感じで姫さんと接することしか出来ていない陛下に対しても、前皇后に対しても、たとえ姫さんが許していても、俺自身は、ほんの少し、嫌な気持ちも沸き上がってきてしまっているのかもしれない。
それと同時に、強く実感する。
――この震える小さな身体も、何もかも……、これまで以上に、俺が護っていきたいと……。
姫さんは、普通に、いつものように笑ってるだけなのに。
その無邪気な笑顔も、その全てが自分だけの物になればいいのにと……。
そう思い始めたのは、一体、いつの頃からだったろう……?
少し前から、痛感していたことだったけど、改めて、今、俺自身が姫さんのことを、主従関係だとか、そういった枠組みとしてではなく、主人と騎士としての範疇を超えて、もうどうしようもないくらいに特別に思って、愛してしまっているのだと、実感してしまっていた。
――だって、姫さんは、本当に狡いと思う……っ。
ボロボロの布きれを着て、汚い暮らししかしたことがなかった俺が……っ。
皇宮の片隅に自分用の個室を与えられて、馬を与えられて、上等な服を誂えてもらって、唯一とも呼べる程の想いのこもった剣をもらって、居場所すら作ってもらった。
【それだけでも、唯一無二の主人を護る従者として、本来ならお釣りが来るほど充分だった筈なのに……】
小さな小さなお姫様は、自分のことには、からきしな癖に……。
人から受ける痛みを知りすぎている分、人に対しては、どこまでも真っ直ぐで、優しくて、一生懸命で……。
【俺が、そんな姿に、どうしようもなく救われるのも、惹かれていくのも、考えてみりゃ、当然のことだったけど……】
優しくて、人の痛みに敏感だからこそ、そっと寄り添うことの出来る姫さんに、ただただ救われて、俺だけじゃなく、その花に惹かれるかのように引き寄せられてくる奴らを、今までにも、いっぱい見てきたし。
いつだって、独り、孤独に……、身近に誰も信頼出来るような人間もおらず、世の中に荒みきって、酷い目つきをしていたあの頃の俺にとって、それは、望んでも、絶対に叶えられることのなかったもののはずで……。
あまりにも心地よく、温かい居場所を作ってくれただけでも、数え切れないほどの恩があるというのに、姫さんの傍にいられるだけで、幸せな気持ちが増幅していって、それだけで充分だと思えれば、それで良かったはずなのに、気付けば、どんどん嵌まり込んでいっては、優しく両手を広げて包み込んでくれるその無償とも思える温かさに、気付けば、俺自身が欲張りになってしまっている気がして『本当に、良くないな』と内心で思う。
ただ……、そうだと分かっているのに、もう抗えないほどに、姫さんのことを思う気持ちが大きくなっていっているのは、自分でも実感していた。
いつだって、ひたむきで、一生懸命に真っ直ぐに前だけを見つめていて、どんな人間に対しても、いっそ自己犠牲が過ぎるくらいに、真摯に向き合って、誰のことも思い遣ってくれる、そんな優しい心を持っている姫さんに、惹かれていかないっていう方が難しいだろう……。
姫さん自身、陛下に対しても、前皇后に対しても、特に何の遺恨もなく、きっともう既に、自分の中に落とし込んで全てのことを許してしまっているのだと思うんだけど……。
その小さな身体で受け止めるには、あまりにも辛いことが続いてしまっていることもあり、『ほんの少しでも、俺にもその荷物を分けてくれたなら、一緒に抱えてやることが出来るのに……』と、俺は、強く願ってしまう。
小さなその両手をいっぱいに広げても、きっと、姫さんの両手では、持ちきれないほどのものだと思うから、少しでも、俺自身がその負担を軽くしてあげられることが出来るのなら、いつだって、そうしたいと感じているのに……。
今だって、前皇后の墓石を前にして、手を合わせていた姫さん自身が、もう前を向きながら、決意を固めている姿を見て、どこまでも柔らかく、ともすれば、壊れてしまいそうなほどに、時に儚く見えるのに、姫さんは、それでも、ぐらぐらする足場の上に立っていてもなお、凛と背筋を伸ばして、出来る限り、誰の助けも求めずに、自分の力だけで、一生懸命に、一人で堪えていて……。
そんな、時に危ういほどに健気な姿を、俺自身、ヤキモキしながら、見つめているだけの人間ではいたくない……。
だからこそ……、前皇后が懸念していたように、姫さんの人生が、これ以上酷いものにならないためにも、いつだって俺自身がその隣で、姫さんのことを支え続けることが出来れば良いと思うし、何かあった時には、一番に動ける存在でいたいと思うことに代わりはないんだけど……。
――それには、もっと、力をつけねぇと……っ。
内心で、そう思ったあと、俺は前皇后の墓前で、グッと、自分の拳を強く握りしめて、堅く決意する。
正直に言って、あの食事会の席で、姫さんを護りながら、アルフレッドの半身であるアルヴィンに対峙することは、あまりにも難しいくらいに、アルフレッドが一度『ダメだ……っ、セオドア! その判断は、悪手でしかない! お前はアリスの傍から、絶対に離れるなっっ!』と、『死ぬぞっっっ! ……無闇矢鱈に踏み込んで、アルヴィンに立ち向かおうとするなっ! 頼むから、お前はアリスを守っていてくれ……っ!』と、俺のことを止めてくれたが、本気で、あそこで踏み込んでしまっていたら、この命を刈り取られていたかもしれないと思うくらいには、強敵だった。
だからこそ、俺自身、もっと力を付けて、剣の腕を磨き、次にあの男と対峙した時に、絶対に姫さんのことを難なく護れるくらいには、一生懸命に努力していかねぇと、まだ、あの境地にも、高みにも、上り詰めることが出来ていないと肌で実感しているし……。
【そうじゃねぇと……、今度、会った時には、姫さんを、あの男に奪い攫われてしまうだろう……っ】
俺自身、元々、ノクスの民で身体能力が高いとはいえども、生まれてから、幾度も、自分のことで危機感を感じては、死にかけてしまったこともあるが、ここまで、誰にも奪わせたくないと願うほどに、姫さんのことを護らないといけねぇと、強い危機感を感じるようになったことで、俺は、どこか焦燥感にも似たような感覚を覚えていた。
姫さんのことが、心の底から、大切だからこそ……。
この世界にとっても、俺にとっても、希望でしかない姫さんの存在そのものが奪われて、誰かに、その命すら蔑ろにされて酷使されてしまうような状況を作らせる訳には、絶対にいかないと強く思う。
それと同時に、世の中の全てにピリピリして、荒んでいたガキの頃の俺が、将来、自分に大切な存在が出来て、その存在を護るためだけに生きていると、もしもこの状況を知ったなら、絶対にあり得ないと信じてもくれないだろうし、嘘だと断じるだろうなと思ってしまう。
……ガキの頃から、本当に、汚泥に、まみれたような生き方しかしてこなかった。
母親は娼婦だったし、今でも自分がこんな暮らしをすることになるだなんて、どこか信じ切れていないような部分があるほどに、こんな自分が救い上げられて、姫さんの傍にいられるようになったことは、幸運だったといえる出来事だっただろう……。
その上で、かけがえのないこの生活を……、この幸せを守り続けていきたいと思うのは、きっと、俺が、姫さんを中心にした、この穏やかで優しい日常を、もう手放せないと思うくらいに、心の中で一番だと言えるほど、大切に思っているからに他ならない。
――こんなにも、自分が、誰か一人を特別に思って、愛する日がくるだなんて……。
そんな未来が訪れることすら、欠片も予想していなかったのに……。
これから先も、俺自身は、たった一人の特別な主人の傍で、この幸せを甘受しながら生きていくのだろう。
……そのことが、こんなにも、愛おしい。
だからこそ、思う。
ただでさえ、姫さんを取り巻く環境は、これから先も、もっと、厳しいものになっていき、決して優しくはならないはずで……。
姫さんが『魔女の寿命を元に戻せる能力を持った魔女』である以上、アルフレッドの半身であるアルヴィンだけでなく、それこそ、世界中の人間が、姫さんが特別な存在であるということを知った瞬間に、まるで食い物にするかの如く、姫さんの身柄を狙って群がってくるに違いない。
少し前まで、自分達が、あれだけ忌み嫌っていたはずの皇女に対し、本当に、どいつもこいつもが、自分勝手に欲望を押しつけてくる可能性があるというだけでも、俺自身は、滅茶苦茶、そのことに不快な気持ちを抱いてしまうんだが……っ。
それだけ、姫さんという存在は、この世界にとっても、どこまでもイレギュラーとも思えるようなものであり、今、助けを必要として困っている人間にとっては、限りなく、救いの手を差し伸べてくれる女神のような存在であることに他ならないだろう。
文字通り、誰からも見向きもされなかった宝石の原石が、綺麗に磨かれ輝きを放つことで、この国……、シュタインベルクにとっても至宝となっていっていることに、俺自身、誇らしいという思いと、複雑な気持ちが綯い交ぜになって、心の奥底で、きちんとその思いに整理がつけられず、ごちゃっとしてしまっていた。
姫さんの功績や、今までの頑張りが認められはじめて、公私共に、愛される存在になっていっていることには嬉しく思うが、これまで、姫さんのことを見てもこなかった奴らが手のひらを返したかのように、姫さんのことを持ちあげてくるのには苛々するし、それによって、それだけ、これから先の未来で、姫さんの身にも危険が及ぶかもしれないと思うと、手放しに喜ぶことは、どうしても出来なかった。
ただでさえ、誰も彼もが、姫さんのことを深く知れば知るほどに、天使のように慈悲深い姫さんという存在に心が洗われて、魅了されていっているというのに……。
これから先、姫さんのその小さな肩は、一体、どれほどのものを背負い込まなければいけないのだろう……?
俺自身は、反対だが、それでも姫さんは目の前に困っている魔女がいたとしたら、自分の能力を以てして、その命を削ってまで、救おうとするはずで……。
姫さんが、自分の命について、あまり大事にも思っていなくて、誰かを助けるためなら、その命すら喜んで捧げようとする姿には、本当に胸が痛くなってきてしまう。
それが、今まで、姫さんが置かれていた境遇から、自分が生きていたいと強く渇望するような気持ちすら無くなってしまっているというのは明白で、まだ、たった10歳であるにも拘わらず、そういった人生観になってしまうほどに、今までの姫さんは、あまりにも苦労をし続けてきたのだと、俺は思う。
そうやって、生きることを諦めなければならないほどに、どんな一場面を切り取ったとしても、姫さんの境遇が悲惨であるというエピソードしか出てこなくて、ずっと辛い思いをしてきたのだというのは分かるし。
こんな時に思い出してしまうのは……、ヒューゴに黄金の薔薇を依頼されて、洞窟に行って、アルフレッドや皇太子と二手に分かれて、姫さんと二人っきりになった時のことで……。
【……セオドア、私ね、本当なら、2回、もしくは3回かもしれない、死んでるの】
と……。
【……ただ、悪運が強くて、生き残っちゃっただけ、で。
何度も、何度も、死ぬはずだったのに、その度に、死ねなくて、生きるしかなくて。
元々、本来なら失われている筈の自分の命のこと、そこまで大事に思えないの】
と、困ったように笑いながら、姫さんから、そう言われた言葉が、ただ、ひたすらに頭の中を駆け巡っていく。
そうして……。
【時々、思うんだけど……。
私が魔女の能力を得たということに、何か理由があるのなら……。
本来なら、死んでいる筈のこの身が今もまだ、生かされていることに理由があるのなら。
私の傍にいる大切な人も、他の人達のことも、身近にいて困っているのなら、可能な限り手は差し伸べたいと、思う。
それが多分、私が誰かに出来る唯一のことだから】
と、ふわっと、出来るだけ、その場の雰囲気が明るくなるように、俺が姫さんの言葉を聞いて、心配から重くなってしまわぬように気をつけてくれようと、一生懸命になって、そう言われた言葉に……。
まるで、能力が使える魔女であるということで、それだけしか自分に価値がないかのように、姫さんは自分のことをそう言って、無意識に貶めていたけれど……。
俺自身は、そんなことはしなくても、姫さんが、ただそこに生きて存在してくれているだけで、充分に誰かのためにもなっていると思うし、これまでだって、姫さんのそういった優しい姿に、心が癒やされて、救われていった人間が大勢いると思う。
――まさに、俺自身が、そうだから……っ。
それに、そういった人間を、俺は姫さんのその隣で、沢山見てきて、皇太子やルーカスがその筆頭であり、陛下や、大公爵といったお堅い人間達も、姫さんのお陰で、随分柔らかくなって、ジェルメールのデザイナーや、姫さんの作るドレスのファンだというあのクロード家の令嬢だってそうだろうし、アンドリューのように、どうしようもない人間で改心した奴もいれば、マルティーニ家での御茶会の時に出会った芸術作品に詳しい令嬢だってそうだろう……。
それだけじゃない、スラムでは情報屋として自分の正体は隠していたけれど、それまで良くない関係にあったにも拘わらず、努力しても敵わない人間がいるのだと、辛い気持ちを吐露していた、第二王子に寄り添って、その気持ちを汲んでいた時もそうだったし……。
実際に、能力を使って救った魔女達や、スラムでの子供も含めて、ヒューゴやエヴァンズ家の人々といったその周囲に至るまで、勿論、姫さんが能力を持っていると知っている人間に関しては、そのことに多大なる恩を感じているだろうが、姫さんの人柄がどこまでも優しすぎるからこそ、姫さんに対して、何かあったら手放しで協力を申し出たいと感じるほど、姫さんの味方になってくれているのだと、俺は思う。
そういった人々の感情さえも、時に動かしてしまえるほどに、姫さん自身が魅力的だというのに……。
肝心の姫さんが、そのことを、あまり理解していないことについては悲しく感じるし、出来ることなら、俺たちは、いつだって、姫さんの存在そのものに救われているのだということを、もっと自覚して、自分が誰からも愛される存在なのだということに気付いてほしい……。
そうして、願わくば、どうか……、ほんの僅かでも、姫さんの命が失われていく度に、俺のように、胸が張り裂けそうになってしまう人間もいるのだと……。
気付かなくても良いから……、『頼むから、もっと自分の命を大事にしてくれ』と、俺自身が、心底、願掛けのように祈ってしまう。
……姫さんが、そんなふうに、自分の命を削っていっていると知ったなら、悲しむ人間は、本当に多いだろう。
それだけ、沢山の人間から愛されるということ自体が、本当に凄いことなんだと、ちょっとだけでもいい、姫さん自身が自覚して『自分はそれだけのことをしてきたのだ』と、どうか、誇りに思ってほしい。
そのためには、まだまだ全然足りていないかもしれないから、ちょっとずつでも、姫さんの傍で、意識を変えていけるように、『姫さんが誰にとっても大事な存在であり、もう既に、かけがえのない存在になっているのだ』と、言葉に出して、分かっていってもらうしかないだろう。
――俺の自制心も、本当にいつまで、持つだろうか……っ?
何も知らない無垢のまま、いつだって純真とも思えるくらいに真っ白で綺麗な姫さんの傍にいるだけで、幸福であるということを有り難いと思わなければいけないとは感じるものの、時に、あまりにも危なっかしいほどに、誰に対しても、柔らかく接している姫さんに、俺自身、ひやひやしてしまいそうになることがある。
この先、俺が姫さんの傍から離れることは絶対にあり得ないけれど、願わくば、その視線を、俺だけのものにしたいと感じているのも、既に、騎士としての自分の身分から、大幅に逸脱していることには気付いているんだけど、どうしても、この感情を、抑えられそうにない。
それでも、今は、この幼い主人のことを、見守るつもりで、これから先の未来がより良いものになることを、ただ願って……。
俺は、目の前で、母親である前皇后に思いを馳せながら、複雑な気持ちもまだ抱えているだろうに、一生懸命に墓石に向かって声をかけている姫さんと、その隣で真剣な表情をしているアルフレッドと一緒に、どこまでも秘めた思いを抱えながら、再び、手を合わせることにした……。