449 剥がれ落ちた仮面
ここに来て初めて、テレーゼ様が、今まで付けていた完璧な仮面が、ボロボロと剥がれ落ちてきていた。
それは、テレーゼ様が、誰の前でも取り繕って見せていた、聖人としての仮面だと言ってもいい。
この場にいる全員からの、テレーゼ様に向けられる疑惑の目が最高潮に達し、誰一人として、喋らない状況下で、空に映し出された画像だけが、鮮明に、テレーゼ様の悪事を暴いていく。
そうして、アルヴィンさんが、再び、手に持っている四角い物体を操作すると、今度は、過去へと画像が巻き戻るんじゃなくて、場面ごと、パッと、画像が切り替わるのが見えた。
さっきと同じように、その場所が、皇后宮の庭であることには間違いないんだけど……。
1つ前のものとは違い、テレーゼ様の正面に座っていたルーカスさんの姿はどこにもなく。
テレーゼ様がティーカップを片手に、優雅に御茶をしている足下に跪き、『ご用命を、お申し付け下さい』と、抑揚のない口調で、淡々と声をかけるアルヴィンさんが目に入ってきた。
仮面を付けているから、その表情までは窺い知ることが出来ないんだけど、その姿からは、無駄なことを殆ど省き、依頼主のことを必要以上には詮索しない『諜報員』としての姿が垣間見える。
それだけで、アルヴィンさんが、テレーゼ様の下だけではなく、長年、そういった影で動く諜報員としての活動をしてきていたのだろうということは、私にも如実に伝わってきた。
だって、あまりにも、そういったことに手慣れすぎているから……。
だからこそ、アルヴィンさんの雰囲気には、アルとは違い、暗い陰りのようなものが感じられるのだろうか?
私が頭の中で、そう思った瞬間にも、次々に、空に流されていく画像は、今ここで起きている出来事かのように滑らかに、2人の会話、遣り取りを、逃すこともなく、テンポ良く映し出していく。
そうして……。
テレーゼ様は、そんなアルヴィンさんのことを椅子に座ったまま見下ろし、口元を歪め、私達には一度も見せたことがない、人を嘲るような笑みをこぼし……。
【そなたも、今、私が、あの血の繋がらない小娘のことで、どれほど苦心しているか、分かっているな?
陛下が、最近になって、小娘を気に掛け初めたことで、今まで目溢ししてきた、皇宮の検閲が、正常なものへと正されることになったのだ。
そこで、万が一にも、あの男達の口から陛下の耳に何らかの情報が入り、そなたのことも含めて、裏に誰かいると疑われても困るであろう?
このまま、あの検閲係をしていた者どもに、生きていられては、まずいことになりかねない。
だからこそ、そなたには、前に一度、ちらりと話したことがあると思うが、丁度、私の配下の1人に、純粋で人を疑うことの知らぬ看守の男がいてな?
万事、上手く事が運ぶように手筈は整えておいた。
そなたは、これから言う私からの伝言を、バートンの弟子である、マルティスに伝えてくれればそれで良い。
……この男は、裏で、皇宮の予算を横領していて、汚いことにも平気で手を染めるような人間だ。
横領のことがバレれば、タダでは済まないことから、今回起こす事件でも、自分の身を守るために、こちらに、協力せざるを得ないだろう】
と、まるで、ドロっとして、世の中にある汚くて醜いものだけを混ぜて煮詰めたような声色、表情で、アルヴィンさんに向かって、決定的な証拠ともいえる言葉で、命令しているのが聞こえてきて。
私は、目の前で、なめらかに動いていく、過去の記録としての、テレーゼ様と、アルヴィンさんの姿に、その様子を見聞きしながら『あぁ、やっぱり、そうだったんだ』という諦めの気持ちと、出来れば、違っていてほしかったという相反する気持ちで、凄く複雑な胸中になってしまった。
こんなふうに、誰かに向かって、口元を歪め、嫌な感情を隠しもせずに表に出している『テレーゼ様の姿』を見たのは初めてのことで、今まで、信じていた像が、どんどん、崩れ落ちていってしまう。
それは、私だけじゃなかったみたいで、ウィリアムお兄様も、ギゼルお兄様も、テレーゼ様に対し、険しい表情を浮かべて『一体、どういうことなのか、真実をきちんと説明してほしい』というような視線で見つめていた。
さっきまでのルーカスさんの証言と、アルヴィンさんが見せてくれた最初の画像までだと、テレーゼ様が一連の事件の黒幕として関わっていたかどうかという部分までは、きちんと証明されていなかった。
寧ろ、その事件のことについては、ルーカスさんや、バートン先生の証言においても、一切出てこなかったから、幾らでも言い逃れが出来てしまうだろうし。
私自身、これからお父様が皇后宮を調べてくれた際に『僅かでも証拠が残っていれば良いのに』と期待していた部分だったけど……。
今、アルヴィンさんが見せてくれたこの画像は、テレーゼ様が『一連の事件の黒幕』であると指し示す証拠としては、決定的だ。
テレーゼ様の、その台詞からも分かるように、皇族の検閲係をしていた3人が殺されてしまった集団毒殺事件のことを、示唆する内容でしかないというのは、私だけじゃなくて、あの事件のことを知っている人間なら、誰もが一番に頭を過ぎっただろうし。
テレーゼ様の口から出てきた『純粋で人を疑うことの知らぬ看守の男』というのは、紛れもなく、現在行方不明になっているアーサーのことだろう。
バートン先生のお弟子さんだったマルティスが、この事件で、仮面の男に言われて、碌に調べもしないまま、食中毒だと嘘の診断をしたことは、既に、私達も知るところではあるし、テレーゼ様が、アルヴィンさんに命令しているこの内容で、全ての辻褄が合うと思う。
ということは、これで、今まで、テレーゼ様が裏で、私を貶めようとしてきた殆どのことは、暴かれることになったんじゃないだろうか?
もしかしたら、私が知らないだけで、他にも、細かいところまで探っていけば、もっとあれこれと出てくるのかもしれないなとは感じるものの。
特に、これで、私が能力を使って、巻き戻したあとの軸で起こった、大きな事件の殆どに、テレーゼ様が関わっていたのは事実であると、証明された形だから……。
まさか、ミュラトール伯爵から贈られた毒の事件まで、テレーゼ様が、関わっていたなんて思わなかったものの、その全容が、大分明らかになってきたことで、私自身も、比較的クリアに状況が見れるようになってきた。
「やっぱり、テレーゼ様、貴女が、私のことを貶めようと動いていた、一連の事件の犯人だったんですね……っ?」
これまでの話の中で、理解はしていたつもりだったけど、実際に、証拠として叩きつけられると、やっぱり心にずしりと来るものがある。
怒るとか、恨むとか、そういうことじゃなくて、ただ、現実をありのまま、事実として、失望と共に……。
『そういうことだったんですよね?』と、テレーゼ様の瞳を、真剣に見つめながら、問いかけた私の言葉に、ここにいる殆どの人がハッとした様子で、私とテレーゼ様のことを見比べていた。
頭で、そのことを理解出来ていても、心の中に落とし込むまでは、どうしても時間がかかってしまうものだし、特に、今まで、誰もが心の底から、信じていた人の悪行となれば、なおのことだろう。
みんなの心の中に、テレーゼ様が、あまりにも重い罪を犯していたのだということが深く刻みこまれ……。
結果として、私の失望の色が乗った今の言葉が、この場において、より、テレーゼ様のことを、追い詰めるものになったというのは言うまでもなく。
動揺を滲ませ、目の前で、取り乱したように、わなわなと震え出したテレーゼ様の姿に『もう、嘘は言わないで、本当のことを話してほしい』と、懇願するように視線を向ければ、テレーゼ様を守るように、侍女長が………。
「陛下、話の途中でのご無礼を、お許し下さい……っ!
私自身、長年、皇宮で侍女達を束ねる長として、テレーゼ様の人となりを見てきましたが、テレーゼ様が、そのようなことをするだなんて、絶対に、あり得ないと思います!
どうかお考え直し下さい! 陛下に対してもそうでしたし、今までの、テレーゼ様の皇宮への献身的なまでの振る舞いをお忘れなのですか!?」
と、訴えかけるように、こちらへ向かって声を出したのが聞こえてきた。
侍女長が両手を広げ、テレーゼ様を庇うように、一歩前へ出てきたことで、お父様の冷ややかな視線は、更に厳しいものになり、いつも以上に低く、ドスの効いた声色で、侍女長に向かって……。
「一体、誰が、お前に、喋る許可を与えたんだ?
第一、テレーゼが裏で、アリスを貶めるために、あれこれと画策していたのなら、テレーゼと一番親しい従者である、お前にも、当然、容疑がかかる話だ。
そうなってくれば、知らなかったということで、以前、一度は、追及を逃れることが出来た、アリスに今まで就いていた侍女達のことを、お前が目溢ししていたかもしれないという疑惑から、再調査をする必要がある……!」
と、ピシャリと厳しく言い放つように言葉をかけていて、その言葉に、侍女長が、これでもかというくらいに目を見開いたあとで、怯んだように固まってしまった。
――侍女長の中で、今まで、自分が皇宮のために、身を粉にして働いてきたという自負があったのだろう。
だからこそ、この場において、自分が喋っても、お父様なら許してくれるという甘い考えがあったのかもしれない。
それだけ、侍女長という立場である自分についても、テレーゼ様についても、皇宮に貢献するようなことを多くしてきたことで、ほんの少しでも、意見が聞き入れられると、確信していたような素振りだった。
そのあてが外れたことで、侍女長自身、察しの悪い人ではないことから、これ以上、お父様の逆鱗に触れないように、黙るしかなかったみたい。
そんな、状況の中で……。
「……もう、良い。……そこまでで、充分だ」
と……。
どこまでも苦い笑みを溢しながら、ゆっくりとした口調で、再び訪れた、重い沈黙を打ち破ったのは、まさに、今、みんなから追及されて、この話の渦中にいた人で……。
自分の前に立っていた侍女長を、やんわりと退かせてから、この場の流れを変えるように、パンッ、と、一度、音を立て、テレーゼ様が持っていた扇を開くと、みんなの視線が、テレーゼ様の方へと、再び集まっていく。
そうして、テレーゼ様は、先ほどまでの動揺が、まるで嘘だったかのように、どこまでも落ち着いた仕草で、一度だけ、強い嫌悪感が籠もった目つきで私の方を睨んできたあと、それでも、優雅に扇を羽ばたかせ、辺りを見渡してから、堂々とした笑みを向けてきた。
そこには、確かに、先ほどまではなかった、焦りのようなものや、強い負荷がかかってしまったことによる苛立ちなども、僅かばかり感じられ、額には脂汗が浮かんではいたものの……。
それでも、先ほどまで見せていた感情の変化や、揺らぎなどは、その瞳からは感じられず、だからといって、ここから更に、起死回生の1手を打とうとして、今まで以上に、頭を働かせているような様子も見当たらず。
――もしかして、この国の賢母として、一国の皇后としての、矜恃を保ちたいと思っているのだろうか?
申し訳なかったと謝罪する訳でもなく……。
自分の感情全てを、丸ごと押さえ込むように、どこまで優雅に、人からの見え方を気にするかの如く、その場に立っていることで、そのあまりにも、この場には絶対にそぐわない、感情の変化に動揺し、私は、大きく目を見開いてしまった。
「そなたたち、一体、何を驚いているのだ?
私の負けは、もう決まったも同然であろう……?
いつか、こうなるかもしれぬと、覚悟を決めておいたことが、今、現実のものになって、私に降りかかってきているだけだ……。
たとえ、私の可愛い侍女が、私のことを庇おうとしたところで、最早、どうにもならぬところまで来ている」
そうして、普段、民心に心を砕いて優しく接しているはずの、テレーゼ様の口から、口角を片方釣り上げて、歪んだ笑みと共に、まるで開き直ったかのように、そう言われて、私は、ビックリしてしまった。
その姿は、童話や絵本などに描かれている悪者みたいで……。
実際に、今、ここで、テレーゼ様の姿を見ていると、今まで見慣れていなかった分だけ、衝撃が大きくて、私は、本性を露わにした、テレーゼ様の姿に、固まってしまった。
私と同様に、同じ事を感じた人は、多かったみたい。
ウィリアムお兄様や、ギゼルお兄様は、テレーゼ様の気性の部分では、知っていたこともあったのかもしれないけど……。
それでも、テレーゼ様が裏で、あれこれと事件を起こしていたなんて、特にギゼルお兄様は知らなかっただろうし。
ウィリアムお兄様も、疑いの目は持っていたかもしれくても、2人とも、今、まるで見たくもないものを見せられているといった感じで、テレーゼ様に複雑な感情を抱いている様子で、僅かばかり、軽蔑したような視線を向けていた。
テレーゼ様自身、ウィリアムお兄様と、ギゼルお兄様から、そういうふうに見られることが、一番堪えることなのかもしれない。
特に、ウィリアムお兄様の視線には、強いショックを受けた様子で、耐えきれなかったのか。
そっと、二人から、視線を逸らしたあとで……。
「……まさか、ルーカスに続いて、ナナシまで、裏切ってくるとはな?
主人を裏切る飼い犬を、二匹も育てていたとあらば、私の目も、随分前から曇っていたのやもしれぬ。
そなた、私にわざと後をつけさせて、ある程度、本当のところまで見させて、その境遇について信じこませ、魔女のように能力が使えるだなんてことも、ここに来るまで、一切、自分の手のうちを見せずに、隠していたな……?
どうやったのかは分からぬが、ここまで、証拠が揃ってしまっていては、言い逃れなど出来ず、私は、一時の猶予もなく、これから直ぐに、騎士たちの手によって拘束されるであろうな。
そなた達の大切な心臓を、幾ら私が握っているといえども、このあと、一切、動くことが出来ぬのならば、最早、私に出来る手立ては、何もない。
良かったな、アリス……? これで、そなたは、今まで通り普通に生活することが出来るぞ……!
そなたを、貶めようと裏で画策していた、醜い、この継母が、これでいなくなるのだからな……っ!
……っ、嗚呼、本当に、私は、そなたが生まれた時から、心底、そなたのことが嫌いなのだ。
あの穢らわしい女の娘というだけでっ、紅色の髪を持って生まれてきたというだけで、どこまでも私の癇に障り、本当に、虫唾が走って仕方がない……っ!」
と……。
先ほどまで、それでも取り繕って、皇后としての威厳のようなものを保とうとしていたテレーゼ様の顔つきが、段々、強ばっていき、もう隠すことも出来ないほどに、私に対して、強い嫌悪感を剥き出しにしながら、吠えるように声をかけてきたことで、私自身、一瞬だけ、怯んでしまいそうになった。
――傷ついてしまいそうにもなった。
私だって、本当は、自分が生まれてきたことが、間違いだと思ってる……。
テレーゼ様に、ここまで嫌われていたとは想像もしていなかったけど、良くない感情を持たれているんじゃないかとは、思っていた。
だけど、それでも、私を貶す材料に、お母様のことを言われるのだけは、許せなかった。
たとえ、私が、お母様から嫌われていて、憎いと思われて、一度も振り向いてもらえることもなく、愛してもらえていなかったとしても……。
「……テレーゼ様が、私のことを嫌っているのは、よく分かりました……っ。
でも、私を貶す材料に、お母様のことを出すのはやめてください……っ!
たとえ、テレーゼ様が、お母様のことを嫌っていたとしても、私は、私という個人であり、お母様とは、別の存在です。
私を貶すために、お母様のことまで言う必要はないでしょう……!?
それに、お母様から、たとえ、今まで愛されていなかったとしても、憎いと思われていたとしても、それでも、私にとっては、たった一人の、血の繋がった肉親なんです……。
誰かに、お母様のことを悪く言われるだけで、心の底から、胸が痛くなってきてしまいます……っ!」
テレーゼ様に向かって、自分でも驚くほど、大きな声が溢れ落ちた。
――全て、嘘、偽りなく、私の本心だった。
お母様から、愛されていないのだと、憎いと思われているのだと……。
実感する度に、どんどん、心が壊れていった。
どうして、お母様は、私のことを産んだのだろう……?
どうして、お父様は、ウィリアムお兄様やギゼルお兄様もいるのに、お母様との子供を作ろうと思ったのだろう……?
そんなことが、頭の中を過る度に、生まれてこなければ良かったと、生まれてきたことが間違いだったのだと、私自身、本当に、何度、思ったことだろう……。
それでも、お母様のことを、嫌いにはなれなくて、簡単には、あっさりと割り切れなくて、お母様は、もう故人であるというのに、決別することも出来なくて。
きっと、今、ウィリアムお兄様や、ギゼルお兄様も、テレーゼ様に対して、そう感じているんじゃないかなと思うんだけど、お母様のことを悪く言われる度に、自分が何かを言われる時よりも、もっと深く、胸が抉られるように傷ついてしまう。
その瞬間……。
「……っ、もう、これ以上、俺たち子どもの前で、醜態を晒すのはやめてください。
母上……、やっぱり、前皇后様が亡くなってしまった、あの馬車での事件も、あなたが、仕出かしたことなんですかっ……!?
第2妃としての立場では満足出来ず、父上の正妃として、この国の皇后の座に、収まるために……っ!?」
と、やるせない表情を浮かべた、ウィリアムお兄様の口から憤ったように、詰問する言葉が聞こえてきて、私は、反射的に……。
「違いますっ……!
お兄様、あの事件は、テレーゼ様が犯した事件ではないと思いますっ!」
と、思わず、声を上げて、否定してしまった。
私の真に迫るような言葉を聞いて、ここにいる全員が、驚いたような表情をして、私の方を見つめてくる。
『一体、どうして、今、この場においても、そう断言することが出来るんだ』と……。
問いかけるような、視線が、複数向いていることも、私自身、感じていた。
本当は、言いたくなかった……。
今まで、一度だって、誰にも……、いつも夜に話を聞いてくれて、優しく慰めてくれる、セオドアにも、言えなかった……。
その事実を、思い知らされるだけで、胸が痛くなってしまうから……。
心が悲鳴を上げて、ボロボロになってしまうから……。
厳重に出てこないようにと、鍵をかけて、奥底に封じ込めたとしても、それは、悪夢となって、度々、夢に出て来ては、私のことを苦しめる。
「……だって、あの時、私の首を絞めて殺そうとしたのは、お母様だから……」
ぽつり、と、今まで誰にも言えなかった言の葉を、空気にのせて、そっと、外へと吐き出せば……。
感情を制御出来ずに、今まで見ないフリをして、閉じ込めてきた想いの欠片が、次々に、胸の奥から溢れそうになってしまって、ぽろぽろと、自然に涙が頬を伝って、こぼれ落ちた。