446 静寂に落ちた、更なる声
私達の言葉を聞いて、一瞬だけ、唇を噛んだテレーゼ様も、直ぐに、元の状態に戻り……。
━━どうして、そのようなことを言うのだ?
と、取り繕いながら、みんなの方へと直ぐに、一瞬だけ噛んでしまった唇から、ほんの僅かばかり悲哀を感じるような悲しげな表情を向けてきた。
周りの人達は、テレーゼ様が、苦悩しているその表情を見て、一瞬、戸惑ってしまった様子だったけど。
流石に、この状況で、ルーカスさんだけではなく、世間からも聖人君子とも名高い、宮廷医のバートン先生の口から、そのような噂が、ほんの少しでも流れていたことがあると聞いて、先ほどまで、テレーゼ様の味方について、傍に寄り添っていた様子の従者達や……。
テレーゼ様のことを信じたいといった様子だった、ギゼルお兄様も、今は、テレーゼ様のことを信じられないというような面持ちで見つめてしまっていた。
そうした中で、事態を重く見てくれたであろうお父様が、バートン先生に向かって『その噂を聞いたのは、確かなのか』と、事実を確認するように、問いかける視線を向けてくれると……。
「ええ、先ほども申しました通り、私自身が、耳にしたことでもあるので、その噂の信憑性については、証明出来ませんが、確かに、一時期、そういった噂が流れていたのは事実です。
……ですが、私も親交のある有力な貴族から、そのような噂が流れているといった様子で、軽く聞いただけなので、噂の真意が本当なのかどうかまでは、分からないのです。
ただ、テレーゼ様に手酷く裏切られ、使い捨てにされた人間がいるかもしれないと……。
なので、私自身も、今、ルーカス様の言葉を聞いていて、半信半疑だったのですが、それでも、ルーカス様が、このような状態で毒を飲むという判断に至ったり、エヴァンズ家からも籍を抜いたとあれば、どうしても、それが嘘だとも思えなくて。
アルフレッド様に今、毒の内容を特定してもらいながら、こうやって介抱していると、実際に、ルーカス様が毒を飲んでいるのは、医者の私から見ても、間違いないようですし。
小瓶に入っている液体と、ルーカス様が飲んだものは、どうやら、一致しているみたいですから……」
と、バートン先生が、アルに毒の内容を詳しく分析してもらいながらも、どこまでも慎重になりつつ、お父様の方へと、以前聞いたという、テレーゼ様の噂について、進言するように声をかけてくる。
その言葉には、きっと、嘘などは混じっていないのだろう。
普段から、清廉潔白と名高かったテレーゼ様に、そういった噂があったこと自体、私も知らなかったけど。
どんなに些細なことでも、多少の疑惑があったのなら、そこから小さな綻びとして、大きく広がっていくこともあるかもしれないと思うから……。
それだけで、今、こうして、私の目の前に対峙しているテレーゼ様の罪が、ようやく全て暴かれていくのではないかと期待してしまう気持ちが湧き上がってくる……。
ただ、テレーゼ様が、長年ずっと、誰から見ても理想の第2妃として皇宮のことを取り仕切りながら、過ごしていたのは勿論のこと。
お母様が亡くなって、皇后になってからは、更に、どこまでも気高い姿で、一国の女主人として、模範となるような生活を送ってきていたからこそ、バートン先生も迂闊なことは言えず、慎重になっているのだと思う。
実際に、ただ単に、そう言った噂で聞いただけでは、証言として有効かどうかといったことについて、有効ではないと言わざるを得ないだろう。
それでも、今、この場で出された、バートン先生の言葉には、ある程度の説得力のようなものが滲み出ていて。
ルーカスさんのことについても、毒を飲んだ今の状態と、ルーカスさんが決死の覚悟で、エヴァンズ家とは、既に、縁を切ったと言ってくれていたのを見て、テレーゼ様の言動に僅かな違和感を覚えて、その噂についても、私達に話してみようと決めてくれたのだと思う。
バートン先生の言葉に、それを証明するだけの手立ては、はっきり言って、現状では、一切無いといえるだろう。
ただ、ルーカスさんと、新聞記者のトーマスさんだけではなく、バートン先生からも、そう言った意見が出てきたことで、みんなの視線が、テレーゼ様に集中し、一瞬の沈黙がこの場を支配し、重々しい空気が流れていく中……。
テレーゼ様に、明確な証拠がない状態ではあるものの、お父様も、バートン先生の言葉を聞いて、一度、この場の状況に、こくりと頷いたあと、動くことに決めてくれたみたいだった。
「バートン、その噂を、お前が聞いたのが事実だと言うのなら、これから、詳しく聞きたいと思うし、その貴族を私のもとに連れてこれるな……?
そして、テレーゼ……。
ルーカスや、新聞記者のトーマスだけではなく、バートンまで、そう言った噂を聞いたことがあるのなら、はっきり言って、証拠がなくとも、現状では、お前のことを疑わざるを得ないだろう。
疑惑がある以上は、時間を置いて調査することなどは出来ないからな。
このあと、直ぐに、皇后宮の中を、一斉に捜査することにする」
そうして、お父様の口から、どこまでも威厳のある判断のもと、このあと、必ず捜査すると、強く決定的な言葉が聞こえてくると、流石に、テレーゼ様も驚いた様子で、一瞬だけ、その場に怯んだように、たじろいだのが、私からも見てとれた。
「……陛下っ、」
それから、一度だけ、お父様のことを呼んだテレーゼ様は、その場で、まるで致し方ないと諦めてしまうように、こくりと一度、頷き返し……。
「承知しました。
陛下がそのように仰られるなら、先ほどもお伝えしましたが、どうぞ、自由に皇后宮の中を、調査して下さいませ。
誓って、陛下が今言っていることなどは、何もしておりませんので、疑いが晴れるならば、寧ろ私にとっても好都合です。
私は、それで、全然、構いませんので、どうか陛下の望む通りに」
と、まっすぐに、お父様の目を見て、しっかりとした言葉で、同意してくるのが聞こえてきた。
その言葉に、私からは……、ここまで疑われてしまってもなお、テレーゼ様の姿が、何の証拠も一切、出てくることはないのだと、自信に満ち溢れているようにも見えて。
ここまでいくと『本当に恐ろしい人だな』という気持ちの方が強く湧き出てきてしまう。
そんな、テレーゼ様のことを見つめながら、ギゼルお兄様が、僅かばかり、たじろいでしまいつつ、その瞳を覗き込むようにして……。
『……っ、母上』と、本当に、テレーゼ様の言っていることが正しいのかどうか、確認しようと声を出したのが私の耳にも、聞こえてきた。
その姿からは、疑心暗鬼に囚われて、戸惑いと、本当は信じたいのに信じられないというような気持ちが強く乗っていて、私自身も、お兄様がそんな風に思うのは理解出来ると思ってしまう……。
ギゼルお兄様は特に、ウィリアムお兄様の姿を追って、誰よりも、正しい皇族の在り方というものを強く体現しようと思って、何でも出来るウィリアムお兄様に少しでも近づけるようにと努力を重ねてきた人だから……。
テレーゼ様のこともきっと、世間からの評判も高くて、清廉潔白と名高い母親として、今まで信じていた、理想の皇后像について裏切られてしまったんじゃないかという気持ちが強く出てきてしまったんじゃないかなと思う。
お兄様自身、混乱して、まだ、全てが信じられない様子ではあったものの……。
それでも今まで、あまり仲が良くなかったとしても、私もこれまでの間に遭遇したことがあったように、テレーゼ様が何度かギゼルお兄様のことを、叱りつける度に、お兄様本人が、その話を受けとめて聞いていたのは、やっぱり、テレーゼ様がギゼルお兄様にとって、これまで、自慢の母親ではあったからじゃないだろうか。
ギゼルお兄様のほんの僅かばかり批難が混じってしまったような視線を受けて、テレーゼ様の眉尻が下がり、悲しいと思っているのを、一切、隠すこともなく、どこまでも、物憂げなものへと変化していくのが見えた。
「ギゼル。……ウィリアム」
そのあと、テレーゼ様が『信じられない』という、ギゼルお兄様の視線を受けて、すがるように、名前を呼んだのは、自分の息子でもある、ギゼルお兄様と、ウィリアムお兄様の名前で……。
『信じられぬかもしれぬが、誓って、母は一切、何もしていない』と言わんばかりに吐き出された言葉に、視線を彷徨わせ、ぐっと息を呑んだのは、ギゼルお兄様で……。
反対に、ウィリアムお兄様の瞳は、お父様や私達と一緒で、テレーゼ様に対して、厳しい視線を受けて、疑いの目が感じられるようなものだった。
そうして……。
「母上、もしも、あなたがアリスのことを貶めるために、このような行動に出て、長い間、ルーカスのことまで傷つけていたのなら、俺は、あなたのことを軽蔑する」
と、自分の息子達に向けて、すがるような目つきをしていたテレーゼ様に向かって、ウィリアムお兄様がはっきりと決別とも思える言葉をテレーゼ様に向かって口にしていると。
そこで、ここに来て初めて、ウィリアムお兄様のその視線に気付いた様子のテレーゼ様の瞳が大きく見開かれ……。
もしや、ウィリアムは、自分のことを信じてないのかと。
ルーカスさんの言っていることの方を信じているのかと……。
流石に、その内容には狼狽えた様子で……。
ここまで話を聞いた上で、ずっと、テレーゼ様に向かって、どんどん険しくなって冷ややかな視線を向け続けている、ウィリアムお兄様のその態度に、心の底から、ショックを受けた様子だった。
さっきまで、テレーゼ様の方から、ウィリアムお兄様の方を見つめることが、あまり無かったから、私も何とも、思わなかったものの。
薄々感じてはいたことだったけど、テレーゼ様はやっぱりギゼルお兄様よりも、ウィリアムお兄様のことの方が大事なんだと思う。
その違いが、明らかとも思えるくらいに明確で、ともすれば、差別とも感じかねないほど、ギゼルお兄様とは全く違うその対応に、固唾を呑んで状況を見守っていた、私の方が動揺してしまった。
テレーゼ様のその瞳は、ウィリアムお兄様がテレーゼ様のことを見つめる厳しい表情に、釘付けになり……。
「ウィリアム、そなた……」
と、小さい声だったものの、まるで、救いの手を求めるように、この場に響くには充分すぎるほどの声量で、そっと、辺りに広がっていく。
この状況でもなお、テレーゼ様のことを、一切、何も疑っていない様子で、テレーゼ様の味方をしているのは、もはや、侍女長だけで、周りの従者達はみんな、バートン先生の言葉を聞いて、テレーゼ様に向かって、半信半疑の視線を向けている。
こんな状況になってもなお、本当に、テレーゼ様がそのようなことをするのかという気持ちはあれど、もしもそうだったならというところで、今まで信じてきた分だけ、その像が覆ってしまうことの恐怖と、ショックが大きいのだと思う。
今まで、疑うことさえなかった、自分が心の底から信じていたものが、そうでなかったのだと知ってしまったら、今後、何を頼りにしていけば良いのかさえ、分からなくなってしまうだろうから……。
その上で、今の今まで、このような状況に陥ってしまっても、どこか余裕そうな様子だったテレーゼ様が、ウィリアムお兄様に、こんな風に、軽蔑したような瞳で見られて、焦ったような表情を浮かべたのが見えただけでも、一歩前進したと言っても良いだろうか。
私が頭の中でそんなことを考えながら、状況を見守っていると……。
さっきまでは、持ち場を離れていた従者の1人が、慌てたように駆けよってきて……。
「バートン先生っ!
こちらで、先生が治療をしていると聞いてやってきたのです申し訳ありません、急患です……っ!
みんな、出払っており、その症状から頼れる医者が、バートン先生しかおられなくて。
流行り病とかなのか、それとも、そうでないのかなども、私共では、把握することが出来ず……。
可能なら、陛下の許可を頂いた上で、バートン先生さえ良ければ、今すぐに、こちらへとやって来てくれますか?」
と息を切らしながらも、一息に、捲し立てるように、皇宮内で、いきなり、急患が出てしまっているのだと、声をかけてきた。
その言葉に、お父様とウィリアムお兄様の瞳が一気に、今まで以上に、剣呑なものへと変わっていき……。
折角、今まで、テレーゼ様がしてきたことについて、暴けるかもしれないチャンスがあったにも拘わらず。
それでもなお、運は、テレーゼ様の味方をするのかと、お父様や、ウィリアムお兄様だけではなく、私の傍に立ってくれていたセオドアも同様に感じたみたいで、思いっきり、そのことに、眉を寄せていた。
言っても、仕方がないことだとは思うんだけど、如何せん、今は、タイミングが、あまりにも悪すぎる。
それに、今ここで、その噂の出どころがどこの貴族からのものなのかなど、お父様も、これから追求しようと感じていたみたいだから、可能なら、バートン先生には、この場に残ってほしいと思っていただろう。
バートン先生が、こちらのことを気にかけてくれながらも、アルがこの場にいることで、ルーカスさんのことについて、後はお任せしますというような表情を浮かべて、ほんの少し、後ろ髪をひかれるような思いで、去ってしまったあと。
テレーゼ様が、小さく、安堵にも似たようなため息を、一度だけ溢したのが私の目にも入ってきた。
一瞬のことだったから、見間違いかと思ってしまったけど、確かに、安堵したんだと思う。
そのあと出来てしまった、誰も、何も言わない空白の時間に、誰もがテレーゼ様のことについて、これ以上、どういう風に、責めたてて、話を、持っていけば良いのかと悩んでいると……。
「あーあ、あの医者、行っちゃった。
本当に残念だな……」
と、言葉が途切れてしまって、無言の状態が続く中……。
こちらに向かって声をかけてきたのは、さっきの食事会で、私達をこの場に案内してくれた、私のデビュタントの時にも絡みがあった、あの、茶髪の使用人で……。
独特の、どこか間延びした口調に、驚きながらも、突然、敬語などを取り払って、こちらへと向かって、特に、テレーゼ様に向かって、話しかけてきはじめたから、テレーゼ様の親しい従者なのかと思ったんだけど。
私と同様に、彼の口調に、驚きに目を見開いているテレーゼ様を見たら、多分、そうではなかったのだろう。
目の前の従者の一挙一動に、否応なく、注目が集まってしまう中、テレーゼ様と、ルーカスさんの方を見つめながら、彼は、ほんの少しだけ、口元を緩めたあと、その口をそっと開いた。