413【ルーカスSide】
エヴァンズ家にある休憩室で、俺はテレーゼ様に、ソファーに座るよう促して、自分もその対面に腰掛ける。
今まで、俺との関わり合いが、万が一にもバレたりしないように、エヴァンズ家で『パーティー』などがあった際も、一度たりとも、俺と二人っきりになるために待っていたり、こうして話しかけてきたことなんてなかったのに。
常に慎重で、ボロなども殆ど出すことがないこの御方が、俺に話しかけてきたということは、余程、切羽詰まっているというか……。
お姫様が、水質汚染の件を解決して表彰されたことや、ここ最近になって、更に社交界でも、もうその存在を無視出来なくなってしまうほどに、皇族としての立場を盤石なものにし始めていることも影響しているのだろう。
特に、この建国祭では、ファッションショーに出ることになって、始まる前から世間を賑わわせて新聞に載り、話題を掻っ攫っていた訳だし。
例年通りなら、この時期、殿下が一番に目立っていたりするはずなのに、そういったことも含めて面白くなくて、常日頃から、苦々しく思っていたのかもしれない。
テレーゼ様の顔色には、珍しく、平時では見られないような焦りの色合いが、ほんの僅かばかり浮かんでいた。
一瞬たりとも、気が抜けない緊張感……。
まるで、トランプやチェスなどの対人戦で、相手の思考を読んで、一手先の読み合いをしている気持ちになりながら……。
俺は、それに気づかないフリをして、にこりと笑って見せる。
さっきのお姫様や殿下と一緒に過ごした娯楽室での時のように、うちで働いている侍女を、ベルで呼んだりはしない。
本来、この方と俺が、二人っきりで会っていることは、決して、誰にも悟られてはいけないものだから……。
特に、テレーゼ様に気を遣い、万が一にもということがないように、なるべく、そうでないといけないという意識は、働かせておく必要がある。
「そなたが、パーティー会場に戻って来ぬことで、心配して探しにくる人間がいるかもしれないからな。
手短に言おう。アレが最近になって、子供の頃のウィリアムの功績を抜いて、調子づいていることは、そなたも理解しているな……?」
「えぇ。……あの子が、殿下の最年少記録を更新して、水質汚染を解決した件ですよね?」
「……あぁ、そうだ。
後の世でも、暫くは、揺るがないと思われていた、ウィリアムの最年少記録を塗り替えただけではない。
ここ最近のあの子供を見て、最早、世間は放置できないほどに、何とかして、アレと繋がりを持とうとし始めている。
特に、宮廷伯で、環境問題の官僚であるブライスが、一早く、アレと懇意になり始めたであろう?
ただでさえ、ウィリアムを差しおいて、アレと懇意になりたいと動き始めた貴族が、皇宮の政治を左右することが出来るほどに有力な人間だと、後ろ盾になる可能性があって困るというのに。
ここにきて、その存在感を増しているとあらば、無視することも出来まい?
そなたがアレを自分の婚約者として、己の囲いに閉じ込めておこうとするのは別に構わぬが、力のある貴族達が、アレに付くことは何としても阻止しておきたい。
この数日の間に、どれほど、あの小娘の所為で、辛酸を嘗めさせられてきたことか」
その上で、そこまで長ったらしい言葉でもなく、はっきりと簡潔に『お姫様のことを貶めたい』と言われたことには、直ぐに気づいた。
「……なるほど、それで、こうして人目を避けた上で、エヴァンズ家の中であるというのに、わざわざ、リスクを侵してまで、会いに来たんですね?
貴女がリードを付けて手離さない、従順なるこの飼い犬に、命令をするために……?」
その言葉に、にこりと、笑みを浮かべながら、自分のことを敢えて落とし、卑下するような形でおどけつつ、目の前にいる人の真意がどこにあるのか探る俺に、パッと、扇を開き、その口元を隠したあとで……。
「察しが早いというのは、どこまでも優秀なことの証だな、ルーカス。
建国祭の間に、わざわざ私の方から歩み寄り、アレと、近日、食事をする約束を取り付けたのでな。
当日は、私主催で、立食形式の豪勢な食事会にするつもりだ。
その際、そなたも招待するから、一先ず、これを、そなたに託しておこうと思ってな」
と、言いながら……。
机の上に、ゴトリ、と置かれた目の前の瓶に、俺は一度だけ視線を落としたあと、それを見て、表情を一切変えることもせずに、顔に笑顔を貼り付けたまま、ふわりとテレーゼ様の方へと視線を向けた。
中には、前に、ナナシに渡された小瓶に入っていた毒と同じで、正体不明の液体が、一杯になるまで入れられている。
直ぐに、それが、良くないものだと察した俺は……。
「これを、招待された食事の席で、タイミングを見計らい、俺があの子に飲ませれば良いってことですか?」
と、問いかけるように声を出して、分かりきった質問をする。
『それ以外に、何もないだろう』ということは、この状況下においては、誰よりも俺自身が、一番、理解していたと思う。
俺の質問に、こくりと、一度、頷いたあとで、テレーゼ様は持っていた扇をそのままに、鼻から口元にかけて下半分を隠した状態のまま、目尻を下げ、その笑みを恐らく深くしたんだと思う。
くつりと、含み笑いをしたような喉を鳴らす音だけが、やけに静かなこの部屋に、一度だけ響いて掻き消えていく。
「あぁ、そうだ。……おおよそ、そなたが予想している通りだと思ってくれればいい。
だが、そなたが、そういうことが出来ぬというのは良く分かっているし、私も鬼ではない。
だからこそ、そなたが、アレを婚約者として自分の囲いに閉じ込めておくと決めたのなら、それでもいい。
なれど……、出る杭については、きちんと打たねばなるまいっ?
特に、ファッションショーで、もしも万が一、アレが優勝するようなことがあれば、話題を掻っ攫い、次の日に、王都で配られる新聞の一面は、まさに、そのこと、一色になってしまうであろう。
そうなれば、ただでさえ、じわじわと高まってきている人気に火がつき、世論は、一気に、あの小娘に傾いてしまいかねない。
……それは、建国祭が終わっても、暫く、祭りの余韻として続くであろうなっ?」
そのあと出された言葉に、俺自身もテレーゼ様が、何を言いたいのかということは、直ぐに分かった。
「だからこその保険だ。……あの子供が、体調を崩したと紙面に載れば、建国祭での疲れが一気に出たとみられ、公務などが殆ど出来ないほど、日頃から、身体が弱いと受け取ってもらえるかもしれぬ。
いくら、若い者を中心として、今の世で、あの小娘のファンなどというものが出来て、好意的な目が多くなっていようとも……。
保守派の貴族の中には、皇族としてはどうなのだと、アレがファッショーに出ること自体、快く思っていない人間もいるからな。
それで体調を崩せば、ろくに公務もせずに、チャラチャラとしたファッションショーというものなどに出場するからだ、という非難の声も少なからず出現して、問題になるだろう。
少なくとも、今の小娘に対して大打撃とまではいかぬだろうが、それで、多少はイメージが下げられる」
「あぁ、なるほど。……彼女に賛同する人間の声よりも、元々、保守派として、あの子に対して、皇族の立場を考えた時には、その遣り方自体がどうなのかと、懐疑的に思っている人間の声を大きくしたいという意図があるってことですね?」
目の前で、はっきりと告げられたその言葉に、考えるまでもなく即答した俺の言葉は、この方にとって、満点とは行かずとも、及第点には届くことが出来たのだろう。
更に、その笑みを深くしたあとで、テレーゼ様は、俺から、ちょっとだけ視線を外して、伏し目がちになったあと、憂いを帯びたような瞳で、芝居染みた雰囲気を維持したまま、続けて声を出してくる。
「そうだ……。
そうすることで、全てを食い止めることは出来ずとも、少なくとも、慎重派の貴族は、アレとの関わりを持つことに、二の足を踏む可能性だってある。
世間の流れが、あの小娘に傾くことも、赤を持つ者が日の目を浴びるような日がくるだなんてことも、決して、あってはならぬこと。
一体、どうして、赤を持っているものが優遇され、赤を捨てたものが痛い目に遭わなければいけないのだ……?
私の可愛い息子が、それで苦しんで、今もなお、誰にもその秘密を打ち明けられぬというのに、そのようなことは、許されぬであろう?
ならば、私としても、ここ一番とも言えるくらいに危険な橋ではあるが、渡らぬ訳にもいくまい。
遅効性で、死にまでは届かぬが、この薬は毒薬にもなり、健常者が使用すれば、酷い頭痛などの副作用が大きく出て、2、3日は、動けなくなってしまう代物だ。
それと、ほんの少しの多幸感を感じたあとに、不安な気持ちを一気に増大させるような作用もあるのでな。
そなたがコレを使い、あの小娘に優しく接することで、アレを、これから先、そなたの婚約者として依存させる意味でも役に立つ。
場合によっては、もしかしたら、今では、すっかりとなりを潜めている癇癪も復活するかもしれぬな?」
そのあとで、これを使用する意図に関して、明確に出されたテレーゼ様の言葉に、俺は、小さくバレない程度に、歯噛みする。
【この瓶に入っている薬には、幻覚作用とかも含まれているんだろうか……?】
だとしたら、今、こうして話を聞いているだけでも、その懸念点についても、即座に思い浮かんでくるほど、かなり危ない薬のはずだ。
それが副作用として『依存効果を高めるもの』じゃなかったとしても、これは、決して、世に出回っている合法な薬などではないだろう。
一時期、貴族の間で猛威を振るった大麻とかと並んで、容量なども含めて、取り扱いを間違えれば、人の精神に『直接介入』をするような危険なものに違いないはず……。
それを、今、この場でこの方は、いとも簡単に、俺に使えと言ってきているのだ。
ナナシといい、この方といい、相変わらず、どいつもこいつも、本当に人使いが荒いったらありゃしない。
【ファッショショーで、もしも万が一にでも、あの子が優勝したら……?】
――その可能性は、確かに、大いにあると言ってもいい。
というか、こんな回りくどいことをしてこなくても、直接、ファッショショーを台無しにしてしまう方が、かなり大きな利を得られると感じるんだけど。
『万が一に……』と、この方がそう言っているということは、もしかしたら、別で、ファッションショーを台無しに出来るようなプランは持っているということだろうか?
さっきの口ぶりから『保険』と言っていることからも、この方の監視下に置かれている人間の誰かが、お姫様のファッションショーを邪魔しようとしていることには、何となく察しがついた。
一番、あり得るのは、この方の影として動いているナナシだけど、ナナシなら、テレーゼ様の依頼を、その気になれば『100%成功させる』だろうから、保険と言って、この方が、わざわざ、他の手立てを用意して、お姫様のことを貶めようと画策している時点で、多分、違うんじゃないかな?
ファッションショーの方は、この方の監視下にあっても、その動向については、きちんと最後まで見届けられない人間。
だとしたら、この方と懇意にしている貴族が、お姫様を排除しようと別口で動いていて、わざわざ取り計らってきたとも考えられるか。
今、現在、前皇后様が亡くなって、その勢力を伸ばしていた『魔女狩り推進派の貴族』が、お姫様の台頭により失速し始めていることを思えば、手土産に、この方を喜ばせようとしている人間がいると考えても可笑しくはない。
――そういうところ、この方は、どこまでも、ドライだからな。
世間の流れを見て、聖人君子として、誰に対しても一定に、親切に振る舞いながらも、目に見えて力をなくし、失速してしまった派閥には、じわじわと、この方の側にいることで得られる恩恵を、意図して、あまり与えなくなったり……。
敢えて、公の場では、嫌味にならない程度に、話しかけられても、困ったような素振りを見せて、自分の取り巻きに『話しかけてくるな』と牽制させたり……。
その上で、公の場での振る舞いは、世間の流れもあって仕方がなかったのだと、皇宮に個人を呼び出し、親身になって『何か困っていることはないか? 私に、手助け出来ることはないか?』と、聞いて、便宜を図る。
頼れる人間など誰もいないように孤立させてから、狭い範囲で、庇護する素振りを見せ、自分の囲いに入れて、何があっても『自分だけは味方だ』と相手に錯覚させ、最早、自分を救い上げてくれるのはこの人しかいないと信頼を勝ち取った状態で、上手いこと、その人間を手足のように使い、操っていく。
恐いのは……。
手足を糸で縛られて、操り人形として、この方の手のひらの上で踊ることしか出来ない道具にさせられているというのに、それを、操られている側が気づけないところにある。
飴を与えているフリをして、じわじわといたぶって……。
本人の知らぬ間に、柔らかな毒が浸食してしまった時にはもう、孤立無援の状態が作られ、良いように利用され、搾り取れるだけ搾り取られて捨てられてしまった貴族も、俺自身、この方の側で何人か見てきているから、その手口についても、どんなものなのか、理解はしている。
自分の手は一切、汚さずに、明言は避け……。
困っていることを濁して伝え、人の善意につけ込んで、相手が行動に起こせば『そのようなことを望んでいた訳ではなかったのだ』と、自然と疎遠にして、手を切っていくという遣り方に……。
政治的な面で、そういった非情なことに関しては、この方の右に出る者はいないだろう。
有力な貴族だけじゃなくて、『一見、使い道のないように思える貴族にこそ、使い道を見いだせるものだ』というのが、この方の言い分であり。
そういった貴族達にも、慈悲という名の毒を与え、自分の思い通り、意のままにしてしまうんだから、恐れいる。
……この方の、真に恐ろしいところは、そういったところにある。
まぁ、だからこそ、俺みたいに、使い勝手のいい『この方の裏側』を理解して、付き従ってくれる駒を、何としても手放したくないと思っているんだろうけど。
俺と、ナナシと、侍女長と、あとは、この方と懇意にしている……、それこそ、本当に有力な貴族などは、数名『この方の裏の顔』を、知っているかもしれないものの。
その大半は、自分の身に一体、何が起きているのかも分からずに、ある日、突然、村八分のように孤立無援になり、世間から『はみ出しもの』として扱われ、骨の髄までしゃぶられたあと、社交界でも、誰のことも頼れずに、消えていく。
その一連の出来事に、この方が関わっているとは、予想もしていないまま……。
まさに、世の中にある、あらゆる情報も世論も、殆ど、この方が操っていると言っても過言ではないほどだった。
本当に、少し前までは……。
「薬に対しての依存効果は……?」
「……全く、情緒など欠片もないほどに、一番に、そのことを聞くとはなっ?
……私の可愛いペットは、毛並みは極上だが、どこまでも、用心深い生き物だ。
安心するが良い。……一度、使ったくらいでは、著しく依存能力を高めるものではないと、今ここで、約束しよう。
日常的に、手が離せなくなるほど、常用していれば、別だがな……?
だが、飛べなくなった小鳥の市場価値が大幅に下がってしまうように……。
私としては、そなたに、アレを自分だけの物として、いっそ、優しい囲いという名の鳥籠の中に閉じ込めて、その羽をもぎ取り、政治的には一切、出てこぬようにしておいて欲しいと思う気持ちが本音ではある。
それでも、そなたには、そのようなことは出来ぬであろうし……。
私は優しいから、これでも充分、配慮してやっているであろう?
だからこそ、この直近で、一度、使うだけで許してやると言っているのだ。
……それくらいのことならば、そなたにも難しくなく、今ここで、出来ると誓えるよな?」
にこりと笑みを溢しながら、何の悪びれもなく、そう言ってくるテレーゼ様に、俺はその言葉に隠された意図を正確に汲んだあと、内心で辟易する。
今日、俺の母親が一時的に、エヴァンズ家に戻ってきて、パーティーに参列してきたことで、いよいよ俺の妹であるソフィアの命が差し迫っていることを、この方も把握したはずだし……。
もしかしたら、いずれは、と考えて『この毒自体』を、元々用意していたのかもしれないけど、ここで使うと決めたのは、他でもない俺のこの方への忠誠心が本物なのかどうかを、試すための意味合いでもあるのだろう。
――本当に、抜け目のない人だ……。
もしも、ソフィアが死んでしまった時、俺がこの方への忠誠心を覆して、その身を犠牲に、万が一にも寝返ってしまわぬように、お姫様に釘を刺すという体を装って、ここで、改めて、俺に対しても釘を刺してきているのだから。
俺も、この方にとっての、操り人形の一体であることには間違いない。
そこに大きな差などなく、自覚せずに、甘い毒の中で破滅へと追い込まれ、気づかぬうちに、その身を蝕まれていくのか……。
それとも、自覚して、雁字搦めになって抜け出せない鎖の中で、大人しく言うことを聞き続けるのかという二択であり。
どちらにしても、主人が飽きてしまえば、その瞬間に捨てられることが定められているガラクタと一緒で……。
――俺たちの価値は、この方にとっては、そんな都合の良いものでしかない。
「……その薬について、一度で、依存させる効果はないとのこと承知しました。
また、俺のためを考えて、そんなふうに言ってくれているんですか……っ?
でしたら、そうですね……、主人の寛大なお心に感謝いたします。
ただ……、別に、誰かを薬漬けにして廃人のようにしてしまわなくても、俺自身、こう見えて、どんな女の子も、自力で振り向かせられるだけの自信があるんですよね」
……それ以外の言葉など、この場では出せる筈もない。
真っ直ぐにテレーゼ様の方を見つめながら、にぱッと笑みを溢して、無邪気に笑ったあとで、俺は机の上に置かれて差し出されていた瓶を、大事にするフリをしながら、胸ポケットの中に入れる。
その瞬間……。
カツンと音を立てて擦れあった二つの毒薬が入った瓶に、思わず苦笑してしまいそうになったのを何とか堪えながら……。
俺はテレーゼ様に悟られないように、平然を装って、茶目っ気たっぷりな視線を敢えて作りだした。
「……全く、自分で、そのようなことを、堂々と言ってしまえるから、私はそなたのことを重用しているのだ。
随分と、自身満々だな? まぁ、昔から、そういった色恋のことについては、引く手あまたで、一切、困ってもいなかったプレイボーイだからな、そなたは……。
私の側にいるようになった頃は特に、そういった女遊びを、それこそ、腐るほどしてきていたであろう?
それで? 感触としてはどうなのだ? あの小娘を自分の物として、生涯、甘い囲いの中に捕らえておくことは、出来そうか?」
「あはっ……! お任せ下さい!
……って、言いたいところなんですけど、ちょっとばかし、難しそうですね。
あの子は、自分の淡い気持ちが、何なのかさえ分かっていないっていうか。
今までの境遇が境遇だっただけに、愛を知らないから、自分の周りにいる人間は、みんな等しく大好きで、特別っていう感情も何なのか、今ひとつ分かっていないみたいですしねぇ……。
根本的な部分で、あの子に愛っていうものが何なのか、教えてくれる人がいれば別なんでしょうけど」
そうして、問われた言葉に、俺は苦笑交じりに、そう返す。
今、この場において、この御方と遣り取りをした中でも、この言葉だけが……、唯一、俺の本心に近いものだっただろうか。
婚約者候補として、これまでに、その近くで、あの子をつぶさに観察して見てきたからこそよく分かるけど、自分が抱いている淡い恋心のようなものについても、あの子は、一切、気がついていない。
それどころか、いつも、あの子の方を優しく見つめていた身分違いの騎士の方が、本気になっちゃう始末だし。
年齢とか、そういうのを抜きにして、俺がお兄さんの立場だったら、確かに同じように、自分のことを救い上げてくれた『あの子』のことを目で追って、本気になっても可笑しくはないかもしれないなって思うから、お姫様だからこそ惹かれたのだろうってことは、よく分かるんだけど、このタイミングで、お兄さんの方が本気になっちゃってることには、マジで、やりにくいったらありゃしない。
まぁ、自覚したってだけで、あっちもあっちで、それなりに大変そうではあるか……。
それでも、今の状況で、もしも、本気で好きだとか『愛している』のだと、誰かに告白されたとしても、あの子は、多分、困っちゃうんじゃないかな?
それは、本人が、愛を知らないと言っていたからっていうのもあるんだけど……。
この世に沢山ある愛の違いにも、ようやくちょっとずつだけど、俺とも話して、分かり始めてきたばかりだから、いきなり、恋愛の方の愛って言われても、あの子には、かなりハードルが高くなってしまうと感じるからだ。
それなのに、たった一人、大切な人に向けている視線の意味にも気づかないまま、いじらしくも、健気に、俺の心配までしてきちゃってさ……。
お人好しっていうか、何て言うか。
今までの環境と、歪な出自が故に、幼い頃から、そういった方面で『ガードをする』ということを一切、覚えてこなくて、まるで、アンバランスに、何も知らずに育ってしまった無垢な子供のような時があって、ハッキリ言って、傍から見ているだけで、ハラハラと心配になってきてしまう。
このまま行けば、いつか、あの子は、自分の思いに気づく日が来るだろうとは思うんだけど。
――その道に待ってるのは、きっと、普通の道ではないだろう。
そもそも、生まれた時から『人生がハードモード』なのに、敢えて、恋愛面の方でも、茨の道を歩くことになるのが、あの子にとって、本当に良いことなのかも、今の俺には、よく分からない。
そういう意味でも、心配はしているけど……。
あくまでも、俺はあの子に対して妹のような気持ちしか持っていないから、俺が幾ら、ここで気を揉んだとしても関係のない話だなとも思えるんだけど。
今日のパーティーで、お兄さんがいきなり変なこと言ってくるから、そのことで、ちょっとだけ動揺しているだけだ。
あの子のことを、どうしても、特別なように感じてしまうのは、ソフィアに似ているからだし、ちょっとした交流で情が湧いてきてしまっただけのことで、それ以外に、特別な意味などはない。
殿下に対してもそうだけど、出来る限り『幸せになって欲しいな』とは感じるものの、それはあくまでも、俺の優先順位の最上位には来ないものだから……。
俺が、あの子について、今、頭の中で考えたことを振り払うように、その考え自体を打ち消したあとで。
テレーゼ様の方を見つめると、目の前に座っていた御方が、俺の言葉に、ここに来て珍しく動揺したように驚いて、目を見開いたのが見えた。
あまりにも珍しいその姿に、俺の方が驚いてしまう。
「……っ? テレーゼ様? どうかされました?」
「何でもない。……そなたには、関係のないことだ」
「……??」
「あの子供がどうであろうと、親から愛情という類いのものを、一切、受けたことが無かろうと、私の知ったことではない。
私があの子供に何かしてやる義理もなければ、あくまでも、私は、私の道を行くだけ。
それこそ、ウィリアムが生まれた時から生じてしまった、あの子の性を、あの子の咎を、私自身が背負って立つと決めた瞬間から、邪魔になるものは、たとえ、石ころであろうとも排除してやろうと思ったのだから……」
そうして、俺に聞かせるというよりも、何て言うか、まるで自分に言い聞かせるように、そう言ってくるテレーゼ様に、あの子が親からの愛を、一切、受けたことがないだなんて『そんな話、してなかったと思うけどな』と、違和感を感じつつも。
今は、お姫様自身はあまり気づいてないけど、確実に、陛下に寵愛されている訳だし『お姫様の母親である、前皇后様のことを言ってるのかな?』と、ちょっとだけ、そのことに、眉を顰めたあとで……。
ここに来ても、埋めることが出来るどころか、深まってしまうばかりの溝に、俺は、もう、どうにもならないと悟る。
これから先、この方が余裕をなくして、お姫様を貶めようと行動を起こせば起こすほどに、それは顕著になっていくだろう。
それが分かっているからこそ、最早、俺にはどうすることも出来ない。
言いたいことだけ言って、俺に、してほしいことを命じてきて、テレーゼ様はそれで満足したのか、お姫様の過去の話題で、少しだけ険しい表情を浮かべたまま、足早にこの場所から立ち去っていく。
……パーティー会場には、時間差で戻ることにした。
それは、俺とテレーゼ様の共通認識であり『万が一にも、誰にも見つからないように』という意味も兼ねてのことだ。
特に、エヴァンズ家の従者に見つかったら『何を話していたのか』ということは、絶対に聞かれてしまうだろうから、それを防ぎたいという意味合いで、念には念を入れてのことだと、俺自身も納得してる。
そう……。
この場にも、『廊下』にも、テレーゼ様が最後まで気にして気を配っていた、エヴァンズ家の従者達はいないだろう。
――エヴァンズ家の、従者達はね……?
テレーゼ様の性格を考慮して、直近で会った時の『お姫様への異常なまでの固執具合』から、今日、もしかしたら、俺にこうして何らかのコンタクトがあるかもしれないという可能性については、事前に考慮していた。
……本当に、トランプや、チェスの対人戦をして、お互いに一手先を読み、手に汗を握るような遣り取りだったと思う。
俺は、テレーゼ様に言われた通り、大人しく、この場で、時間を潰し。
小さくため息を溢したあと、胸ポケットに入れた二つの小瓶を持って、パーティー会場に戻ることはせず、テレーゼ様も戻って、恐らく、もう誰もいなくなったであろう廊下に出たあと。
パーティー会場とは、反対に向かって歩き出す。
それから、暫く……。
エヴァンズ家の人間でも『限られた従者達』しか入れない、離れの棟まで歩いて向かったあと、コンコンとノックをすることもせずに、その部屋の中に入れば……。
俺にとって、何よりも大切な存在が、その部屋に置かれた天蓋の付けられた豪華なベッドの上に横たわっているのが見えた。
その周りを、もう拒むものは何もなく、能力である『周りのものを植物にさせる力』が、今も、その命を削り取ろうとするように、その身体を中心にして、緑色の瑞瑞しい茎がベッドに絡みついてしまっている。
真ん中で眠っている主人は、それらに反して酷く弱っているというのに、いっそ憎々しいくらいに、随分と元気なものだ。
……今回の母親の帰省と共に、最後くらいは、エヴァンズ家で過ごさせてあげたいと、極秘で帰ってきていた、俺の妹。
近寄って、その顔色を見れば、もう『触れたものを凍らすことの出来る魔女』の力は借りられないくらいに、弱ってしまって、微かな吐息しか聞こえてこない。
俺は、触れるのすら邪魔をするように『茨』となって、主人を囲んでいる植物の茎を、ベッドの近くに置いてあった園芸用のはさみで切り、そっと、その手を握ったあと、願掛けのように自分の額を妹の手にくっつけた。
「……ソフィア。
……今まで、延命措置として、随分と、苦しい思いをさせてきてしまって、ごめんな。
あと、もう少し。……あと、もうちょっとで、何もかもが、全部、終わるからな……?
その時は、俺のことを恨んでくれてもいい、絶対に許さなくていいから……。
それまで、もう少しだけ、ここで耐えてくれるか……っ?」
――最初から、答えの返ってこない質問だということは分かっていた。
こうしている間も、刻一刻と、幼い身体は『自身の能力の反動』に耐えきれず、その命が削られていってしまっているのだから。
昏睡状態に陥ってしまったのは数日前のことで……。
医者によれば、いつ、その命が尽きてしまっても可笑しくないという。
それでも、7歳で小柄なソフィアは、普通の大人と比べても、よくここまで持ってくれた方だと思う。
ここまで来ることが出来たのは、『触れたものを凍らせる魔女の力』があってのものだと、俺自身も理解はしているし……。
母親の話を聞いていると、ブランシュ村の近くに住んでいる、その魔女は、ソフィアの為に自分の命が削られていくことも厭わずに、最後の最後まで、ソフィアを延命するために、力を貸してくれたらしい。
更に、ソフィアがエヴァンズ家に帰るその間際まで、惜しみなく自分の力を使ってくれようとしたみたいで、最後は、母親が『申し訳なくて止めた』と言っていたほどだった。
俺は、ソフィアの生気のなくなってしまった青白いその手を取ったまま、ゆっくりと柔らかい口調で、語りかけるように、声をかける。
ここ一年ほどは、俺自身忙しくて、殆ど、会えていなかったから、こんな形でも、ソフィアの顔を見られることが、ただただ、嬉しかった。
「なぁ、ソフィア……。
俺……っ、こんな、お兄ちゃんで、本当にごめんな?
お前にとって、最後まで、自慢出来る兄ではいられなかったけど……。
でも、それを、お前の所為だと、思ったことは一度もないから、優しいお前が、罪悪感を感じる必要なんて何処にもないんだよ。
これは、お兄ちゃんが、自分の意志で決めて、自分で始めたことだから、お前には何の責もないということを覚えておいてくれ。
だからこそ、必ず、最後まで、しっかりと責任を取るつもりではいるけど、お前だけは、決して、何があっても、俺のことを許さないでいい。
勝手に、延命をさせられて、お前にとっては苦しかった日々かもしれないが、俺は、お前が延命してくれていたお陰で、ほんの僅かでも、長く一緒に過ごせたことを後悔してない。
……希望を感じられている時間だけが、唯一の幸せだった。
ここまで、一生懸命、俺たちのために、頑張って生きてくれて、本当にありがとな」
まだ、ソフィアが普通に過ごすことが出来ていた時、元気だった頃のことを思い出しながら、俺は、いつものように兄としての口調で、はっきりと、自分のことを伝えていく。
こんな状態になってしまっているから、聞こえてないかもしれないとは、誰よりも分かっていた。
それでも、今ここで、嘘を吐く気にもなれなかった。
今まで、誰にも、家族にも本当のことを伝えられないでいた、俺の本心を……、妹である、ソフィアにだけは知っておいて欲しかった。
その上で、一生……、俺が、勝手にしたことを許さないでいて、欲しかった。
……それが、俺にとっては、何よりも大きな罰であり、償いにもなる。
自分がしたことの行いは、やがて自分に返ってくるものだ。
今まで、俺がしてきたことの責任は、誰よりも、俺自身が取らなければいけない。
寝たきりになってしまう前も、お姫様に似て優しい子だったから、きっと、真実を知ったなら、俺のやったことを複雑に思って、自分を責めてしまうだろう。
だから、お前だけは絶対に、何があっても俺のことを許さないでくれ、と……。
――ここで、そう願ったのは、俺の本心だった。
胸ポケットの中の毒薬は、二つ。
どちらかを使うにせよ、俺に用意された道は幾つかあるが、そのどれに対しても、今まで自分がしてきたことの責任は、否応なしに、降りかかってくる。
行くも、戻るも、地獄でも……。
ここで立ち止まっていることは、もっと悪手でしかないと、分かっているのだとしたら、最後は、俺自身が、自分が決めた道を、ただひたすらに、前へ向いて進むしかない。
それが、一番、何の遺恨もなく、後悔の少ない道だと、自分でも分かっているから……。
悪あがきでもいい。
たとえ、それで失敗しようとも、俺は、俺の決めた道を行く。
「だから、もう少しだけ待っていてくれ、ソフィア……」
俺の言葉は、二人っきりのこの部屋で……。
空虚にぽつりと……、存外にも大きく響いて、掻き消えていった。