402 本番前の予行練習
セオドアが、私に掛けていたジャケットを外して、再び、その身に纏ってくれると……。
すぐさま、ジェルメールのデザイナーさんが、セオドアの衣装について、装飾に問題が無いかどうかや、丈感などを、細かく確認し始めくれたのが見えた。
私の時もそうだったけど、万が一にも『当日に何かあってはいけない』と、細部までしっかりと、その目で見てくれていて。
勿論、ファッションショーで『ジェルメールの優勝がかかっている』から、というのが前提にはあるんだけど。
モデルとして衣装を着させて貰う身としては、本当に有り難いことだなぁと思う。
そうこうしているうちに『試着の手伝い』をするために、さっき、セオドアの方へと付いて行っていたスタッフの一人が……。
「ヴァイオレットさん、一点だけ、気になった点がありまして……。
元々、何かあった時のために、騎士様のズボンの裾に関しては、余裕を持たせて作っていたと思うのですが。
此方の衣装を着て貰った際、やはり、丈感が少し長めになっていたので……。
ズボンに関しては、ヴァイオレットさんの当初の予定通り、裾上げしないといけないでしょうね」
と、デザイナーさんに向かって……。
恐らく、セオドアに衣装を着せてくれている時に、見つけたであろう『粗が見えた部分』について、相談するように声を出したのが聞こえてきて、私は思わずその言葉を聞いて、セオドアの足下の方へと視線を向けた。
見れば、セオドアの衣装である『ズボンの裾部分』を、少しだけ内側に捲り、ピンで留めているのが確認出来て。
そういえば……、衣装を作る段階で、デザイナーさんが言っていたんだけど。
大体、男女に大きな違いはなく、一般的に成人を迎えた16歳ぐらいまでで“成長”が止まるものの、稀に16歳を超えてもなお、身長が伸びる人もいるそうで……。
『特に、騎士様の場合、もう既にかなり身長が高めですが、そういう人ほど伸びる傾向にあるので……』ということで。
念には念を入れて、セオドアの衣装については、少し長めに作って貰っていたんだよね。
他の部分に関しては、見たところ特に問題が無さそうで、大丈夫な感じはするけど、裾上げについては、絶対にしなければいけないだろうし。
『今日の明日で、大丈夫なのかな?』と、素人の私は、今更ながらに心配から、ドキドキしてきてしまったんだけど……。
そこは、元々、そうなるかもしれないという予測を立ててくれていた『デザイナーさんの想定通り』のことでもあったからか。
「あら、あら……っ、まぁ、まぁっ……!
やっぱり、そこの懸念については“取り越し苦労”で、特に気にしなくても大丈夫だったんですのねっ!?
ですが、問題ありませんわ~! これについては、デザインしている段階から、全て、私の想定内のことですしっ。
私がこのあと、騎士様の着る衣装を持ち帰って、自宅で裾上げすれば、明日までには絶対に間に合いますから、安心して下さいなっ! 必ずや、完璧に仕上げたものをお出ししましょう!」
と、張り切って、自信満々の様子で声をかけてくれた。
前日の夜は、本番のことを考えて、なるべくゆっくりしたいと思うのが普通だと感じるんだけど。
いつだってパワフルに、何なら、この仕事に就いたことが『天職』だとでも思っていそうなデザイナーさんに、休むという二文字は、無いのかもしれない。
それも、全然嫌そうな雰囲気なんて一切感じられなくて……。
本当に嬉々として、ひたすら幸せそうな表情で、いつも『ワーカーホリック気味のこと』を言っているから、こと洋服関係において、自分の持てる限界ギリギリまで手を尽くすということ自体が、全く苦じゃないんだと思う。
いつ見ても、デザイナーさんのその姿は『バイタリティー』に満ちあふれていて、本当に凄いなぁと感心してしまう。
そのあとで……。
「皇女様……、確か、今日は、エヴァンズ家の夜会に参加するということでしたけど……。
……まだ、お時間は大丈夫でしたわよね……?
タイトなスケジュールで申し訳ありませんが、私どものためにも、このあとも、ファッションショー本番前の最後の練習に、時間が許す限り“お付き合い”くださいませ……っ!」
と、デザイナーさんから、お願いするようにそう言われて……。
元々、そのつもりで来ていたこともあり、私は彼女の言葉にこくりと頷きながら、みんなで、スタッフルームから店内へと戻ることにした。
そうして……。
……私達がスタッフルームから出ると、普段は、お店を彩るように、店内のディスプレイとして、華やかに置かれている『トルソーに掛かったドレスや洋服の数々』が、今は端の目立たない位置に避けられていて。
本番のショーに向けて、スタッフさん達の手によって、急ピッチで出来るだけ擬似的に『当日の舞台』と近しい感じの物を作ってくれており、店内に広い空間を確保しているのが見てとれた。
更に、スタッフさんのうちの誰かが発してくれた『皇女様と、騎士様が入りますっ!』という掛け声が、店内に響き渡ると……。
その声に気付いて、作業に追われていたスタッフさん達全員が手を止め、此方を一斉に見てきたことで、その視線に胸がざわつき、私は、急激に緊張してきてしまった。
ファッションショーについて練習をするのは、皇宮でも何度かセオドアと一緒に自主練習をしていたから、今日が初めてという訳ではないんだけど。
お兄さまやルーカスさん、それから、アルなどといった知り合い以外に、こんなにも人が大勢いる中での練習というのは、初めてのことだった上に。
その状況下で……。
作業をするのを止めたスタッフさん達が口々に、衣装を着た私とセオドアのことを手放しで……。
『よくお似合いですっ!』だとか。
『流石っ……! ヴァイオレットさんの目には、全く狂いがないですねっ! モデルとしても、今回のテーマにピッタリで。……お二人とも本当に素敵です!』といった感じで、デザイナーさんのことも絡めつつ、褒めてくれるものだから……。
そういう意味でも、小心者で褒められ慣れていない私は、どうしても照れが出てしまって、ドキドキしてきてしまった。
……ただ、当日は、これよりももっと『沢山の人の中』で、モデルとして立ち回り、衣装を披露しなければいけないんだよね?
そういう意味では、今日、ジェルメールで、練習が出来るということは、当日の緊張を少しでも緩和することが出来るという意味でも、有り難いことだったのかもしれない。
「皇女様、騎士様……。
うちのスタッフ手製の……、簡易的な舞台で申し訳ありませんが、一応、舞台の袖は此方になり、ここからお二人には出て頂くようになっていますわ~!」
それから、デザイナーさんに案内されて。
私達は、スタッフさん達が店内に作ってくれていた、渾身の舞台の上に乗ったあと。
分かりやすいように『ここから出るようにして欲しい』という意味合いを込めて置かれている、目印のリボンの上に立つことになった。
「全てが手作りのため、現状、舞台袖には、それっぽいカーテンの設置のみで申し訳ありませんが。
当日は恐らく、この部分に、パーテーションが用意されているはずなので、お二人には両端から出て貰い……。
ステージの中央で合流し、そのまま仲良く手を繋いで細長い花道を通り、先端部分まで歩いていただくようになっています。
それから、暫くその場にとどまって、柔らかい雰囲気でお互いのことを見合ったり……。
洋服がよく見えるようなポージングをしてくださったのち、ブーケと、花かんむりを交換し合い。
……そのあと、仲良く手を繋いで、一緒に帰る形でお願しますわ~!」
お兄さまや、ルーカスさんが一緒に練習に付き合ってくれた時と同様に『一応、こういう感じにして欲しい』と……。
デザイナーさんから、書類を貰っていたのと全く同じ内容で、改めて、細かい指示が、彼女の口から適切に飛んでくるのを聞きながら……。
私達が、この場で『通しの練習』をするということで。
さっきまで、色々な作業をしていて指示を飛ばし合っていたスタッフさん達も、話をするのをやめてくれて。
――賑やかだったジェルメールの店内が、一気に静まり返ったのを感じつつ。
直ぐに、舞台上で合流することが出来るとはいえ……。
『出る時に一人なのは、ほんの少し心細いな……』と思いながら、私は、対面から出てくれる予定のセオドアへと真っ直ぐに視線を向けた。
建国祭の期間中、たった一日しかない『この日の為』だけに、屋外に設置されるというステージでは、その両端に、モデルを隠すための簡易的なパーテーションが設置されていて。
左右、どちらからも、ステージに出ることが出来るようになっている。
その上で、長方形のステージの真ん中と繋がって、観客席の間を区切るように通る『縦に伸びる細長い花道』があり、その先端部分が丸い感じで、広くなっているという形になっているため。
セオドアとは、一緒の場所から二人揃って出る訳ではなく、左右に分かれた両端から出て、ステージの真ん中で合流する予定になっているんだよね。
そのあと、花道に向かって、二人揃って手を繋いで歩いていき、という感じで……。
そこからは、特に離れたりするようなこともなく、ずっと、二人で一緒に、行動出来るんだけど。
内心で、心細く感じていても……。
ステージに出る前も、一応、直線上にはいるため、裏でお互いの姿が一切見えない訳じゃないから、そのことに関しては、ホッと、安心出来る。
立ち位置について細かく指示があったあと、デザイナーさん主導のもと『口頭で説明しているだけでは、あまりにも時間が勿体ないので、早速、やってみましょう……!』とのことで。
ややあって……。
司会に扮したデザイナーさんの口から、ジェルメールの店名と、どういう意図で『今回の洋服を作ったのか』という簡単な説明。
……それから、モデルについての紹介文のようなものが、次々に読み上げられるのが聞こえてきた。
一応、ファッションショーを運営している人達に、事前に『こういう風にして欲しい』と、それらの内容が書かれた紙については、提出しているらしいのだけど……。
こればっかりは、当日の司会者のノリと雰囲気によって『アドリブ』みたいなものも交えて変わってくるらしいから、あくまでも今は、ジェルメールのデザイナーさんが考えてくれた、仮の説明での入場になっていた。
どちらにせよ、本番でも……。
『店名に、テーマに沿った簡単な洋服の紹介文、モデルの紹介』などをしてくれて、言葉が切れた時に出れば良いから、恐らく、出るタイミングを見誤るようなことはなくて……。
私達は、自分が紹介されたタイミングで、ステージに出れば、それで良い。
本番前日である『今日の練習』においては、ジェルメールの店内を利用して作っている舞台だから、勿論、当日の舞台よりは一回りも二回りも小さくて、全体的に、こぢんまりとしているものの。
司会役の人を立てて練習するという『本番さながらの雰囲気』に、否応無しに気持ちが高まってきては、心臓が跳ねるように脈打っていて……。
司会に扮してくれていたデザイナーさんが、私達の紹介をし終わってくれたタイミングで、私は、対面に立ってくれているセオドアと、アイコンタクトを取り。
竦んでしまいそうになる足を何とか動かして、スタッフさん達が作ってくれた手製の舞台の中央まで歩いていく。
モデルらしく、なるべく、綺麗に服を見せるということを意識したかったものの。
素人の私では、どうしてもあれこれと複数のことを考えると、それだけで、いっぱいいっぱいになってしまうから……。
デザイナーさんや、お兄さまと一緒に、私達の自主練習に付き合ってくれていたルーカスさんの客観的なアドバイスを取り入れた上で、セオドアのことだけを『頭の中に思い浮かべる』ことにして。
観客のことも、衣装のことも、今はあまり考えずに……。
『普段のセオドアとの遣り取りを……、』と、心の中で、なるべく日常生活の、セオドアと二人でリラックスして過ごしている状況を想像しながら、自然にステージの中央で、セオドアと合流したあと。
――お互いに視線を交わしあい、微笑みあって、手を繋ぐ。
その際、誰かの『ため息にも似たような、感嘆の声』が、聞こえた気がしたんだけど。
目の前のことに集中していた私は、その声が、どこから聞こえてきたのか確認するような余裕もなく。
そのまま、セオドアにエスコートして貰う形で、花道に出て、丸い先端の部分に立ったあと。
皇宮で練習した内容通りに、お互いに照れ笑いのように視線を交わしてから……。
(……セオドアは、凄く優しい表情を向けてくれていて、照れていたのは、……主に私だけだったけど)
ダンスを踊る時の要領で、その場で衣装をよりよく見て貰うために、セオドアの手に導かれるようにして、くるっと一回、回ったり……。
モデルとしてのポージングというと、ガチガチになってしまう私でも、ダンスなら皇女としての勉強の必修科目だったし。
『自然に出来るのではないか』と、事前にセオドアと考えていた内容を、観客席に向かって、それとなくアピールしつつも……。
今、花かんむりやブーケを手に持っているという体で、セオドアと交換する素振りだけして、一緒に、手を繋いでから、来た道を戻っていく。
その際、セオドアとはお互いに、一切、喋ることはないんだけど……。
それでも、セオドアだからこそ、私の動きに、ここまで合わせてくれることが出来るんだと思う。
勿論、ある程度、二人の呼吸を合わせるように、今まで、皇宮で自主練習を重ねてきたというのもあるけれど。
お互いに相手の瞳を見れば、次にどういう風に動くのか、今、この瞬間に何を求めていて、何をしたいのかということが、本当に、手に取るように分かって……。
何も語らずとも、傍にいるだけで『お互いを理解する』ことが出来て、自分の動きさえも、即座に修正出来る、というのは……。
――多分、他の誰でもなく、セオドアとじゃないと無理なことだったと思う。
そういう意味では、今回、私と一緒にファッションショーに出てくれるパートナーが、セオドアで本当に良かったなと感じるし。
他の人だと、きっと『短い練習期間』で、これだけ息を合わせるということも難しかっただろうな、……。
ただ、当日の流れとしては、他の店舗も参加するため、『私達の出番』については、ほんの一瞬のことで、見ている人にとっては、簡単なように思えても……。
実際にやってみると、服を最大限に見せなければいけないという歩き方も含め、細かいところが気になってきてしまったりで……。
私からすると、普通に歩くのとは、やっぱり勝手が違って、既に、本番前日だと言うのに、まだまだ奥が深くて難しいなぁと、感じてしまうことばかりだ。
それから、その後も何度か……。
デザイナーさんの熱い指示を受けながら、一通り、通しで、ジェルメールに用意されていた舞台の上で、私達の練習について、みんなに見て貰ったあと。
セオドアと手を繋いだまま、カーテンの裏に戻ってから……。
何度も繰り返して行っていたリハーサルの中でも、特に……、『今までの皇宮での練習も含めて、一番上手に出来たかも……』と、思える瞬間があって。
セオドアと一緒に『今の、良かったよね?』と、視線を交わし合っていると……。
「……ここまで、ぶっ通しで、練習に付き合ってくださってありがとうございます……!
最初の方は、お二人とも、どことなく緊張していた様子でしたけど。
練習を重ねていくにつれ、緊張も解れて、舞台でのお二人の雰囲気も、とっても良い感じに変わっていて素敵でしたわ~っ!
皇女様、皇宮でも、本当に沢山、明日の本番のために練習してくださっていたんですのねっ!?
お互いが、お互いのことを思い合っているような雰囲気が感じられて、最高でしたしっ!
何なら、騎士様も、元々、皇女様に対しては優しい視線を向けていましたけど、色々と吹っ切れた感じで、以前にも増して雰囲気がぐっと甘く柔らかくなっていて……っ!
もうもう、此方からお願いすることは一切なくて、バッチリですっ……! この感じで、明日もお願いしますわ~!」
と、興奮した様子のデザイナーさんから、バッチリだというゴーサインが出て……。
モデルとして依頼された内容については『何とか、こなすことが出来ている』のだと、私はホッと胸を撫で下ろした。
そのあとも、軽く休憩を挟みつつ、可能な限りジェルメールのスタッフさん達にも見てもらいながら、二人で練習を重ねた私達は……。
そろそろ、皇宮に戻って、エヴァンズ家に行く準備をしなければいけないくらいの時間になったことで、泣く泣く、練習を終えることにした。
正直、まだ、これでも『練習量が足りていないかもしれない』と思ってしまうくらい、焦る気持ちの方が大きくて、不安が、あとからあとから湧き出てきては、心配が尽きないんだけど。
こればっかりは、どうしようも出来ないし。
皇宮での練習も含めて、出来る範囲のことは、それこそ全部やって、『精一杯頑張った』から、あとはもう、大人しく明日がくるのを待つしかない。
……私達がファッションショーで着る衣装から、元のドレスと隊服に着替えて、帰り支度を進めていると。
『直ぐに終わるから、ちょっとだけ帰るのを待っていて欲しい』と、引き留めてくれたデザイナーさんに、記念に、是非持ち帰って欲しいからと……。
今回のファッションショーのために、デザイナーさんが描き起こしてくれていた『私達の衣装のデザイン案』を、スタッフさんに声をかけて、取りに行ってもらっているあいだ。
何もする事が無くなって、手持ち無沙汰になってしまった私は……。
店内を見渡して何度か『その姿』を探してみたものの、ここに来ても、全く姿が見えないナナシさんのことについて、何処にいるのかと気になって、何気なくデザイナーさんに彼のことを聞いてみることにした。
「あの……っ、この間、偶然、建国祭でナナシさんに出会ったことで、王都の街を一緒に回ることになって、話しているうちに、とても仲良くなったんですけど。
今日、ナナシさんは、お店に来ていないんでしょうか……?」
私の突然の問いかけに、デザイナーさんは、ちょっとだけ驚いた表情を浮かべて、目を大きく見開きながらも。
次いで、ほんの少しだけ困ったような顔をしながら……。
「まぁ、そうだったんですのっ!? ……それが……っ、。
実は、あの子、どうしても、前にお世話になっていた“恩人の故郷”に、帰らなければいけなくなったんだって言って、二日前に、突然、お店を辞めてしまったんですの……っ!
建国祭で、購入したって言う手土産のドーナッツを渡してきて、本当に申し訳なさそうに、状況が変わってしまってって、平謝りだったのだけど……」
と、声を出してきて……。
私は、その言葉が、あまりにも衝撃的すぎて……、思わずびっくりして、その場に固まってしまった。
「え……っ、? ……ナナシさんっ、ジェルメールを、辞めてしまったんですか……っ?」
そうして、ほんの少しの間があってから、問いかけるようにデザイナーさんに質問すると。
デザイナーさんは、まるで惜しい人を失ってしまったというような雰囲気で……。
「ええ……、あの子には期待していただけに、私も本当に凄く残念で……。
少しでも長くお店に勤めていた方が、自身の経歴にもなるし。
もしも、ジェルメールを辞めたとしても、今後の彼の人生の幅を広げる意味でも、選択肢は多いに越したことはないでしょう?
別のお店で雇って貰える可能性もあるし、経験が物を言う世界だから……。
せめて、ファッションショーが終わるまでは、このお店にいたら良いんじゃない? って、引き留めたんですけど……。
どうしても、直ぐに戻らないといけないことになってしまったんだって、頑なで……。
彼がお世話になった恩人は、もう既に、亡くなっているそうなんだけど。
その恩人の近しい存在だった人から、突然、手紙が届いてしまって、急遽、力を貸して欲しいと言われたから断れなくて、って……」
と、ナナシさんの事情について『皇女様だから、お話するんですけど……』と、詳しく説明してくれた。
その言葉に、私以上に、アルが『……そ、そうなのかっ、!?』と、ガーンとショックを受けたような雰囲気で、一気に、悲しそうな表情を浮かべたのが見えて、私自身も胸が痛んでしまう。
ナナシさんに会ったのは、本当に数日前のことなのに、この短期間で、まさか『ジェルメール』を辞めてしまうことになるだなんて思ってもいなかったし。
てっきり、今日、会えるものだと思っていたばっかりに『折角、仲良くなれたのにな……』という、ショックな気持ちが湧き出てきてしまう。
建国祭二日目に、休日だと言っていたナナシさんが城下に来ていた時は、普段通りに私達に接してくれていたと思うから。
もしかして、そのあと、前に『お世話になったという恩人の、近しい人』から手紙が届いて、その恩義に報いる形で、急遽、ジェルメールを辞めざるを得なくなってしまったんだろうか?
あ、でも、そういえば……、ナナシさんはあの日、用事があったことを思いだして、急いだ様子で帰っていったんだったよね?
だとしたら『手紙が来る』というのは、ナナシさん自身、知っていたのかな?
……別れ際、私にも何かを言ってくれていた様子だったのに。
最後のその言葉を、“きちんと聞き取ることも出来ず”に、申し訳なかったな、と感じながらも……。
どちらにせよ、ナナシさんに『もう会える事は無い』のかもしれないと……。
アルと一緒になって、少しだけ感傷に浸っていると。
「……ヴァイオレットさん、大変ですっ!
うちのお店で保管していた、金庫の中のデザイン画が、今回のファッションショーの衣装だけじゃなくて、春先などに新作で出すコレクションの分まで含めて、幾つも紛失してしまっています……!」
と、顔面蒼白のまま、古参のスタッフの一人が、バタバタと足音を立て、私達が会話をしていたスタッフルームに、慌てた様子で戻ってきて……。
……私は、思わず、デザイナーさんと一緒に、顔を見合わせた。