376 お見送り
ジャンの案内で、お父様の元に戻ろうとホールの中を進んでいると……。
ブライスさんとお父様が、廊下に続くホールの扉の前で話しているのが見えた。
「……おや、どうやら皇女殿下が戻って来られたようですね?
陛下、忙しいさなか、貴重な時間を私の主催するパーティーに割いてくださってありがとうございました」
……私たちが、もうそろそろ帰宅するということを、一早く察知したのだろうか。
わざわざ、お父様が帰ることを知ったブライスさんが、ホールの扉の前までお見送りにやってきてくれたみたい。
そうして私が戻ってくるのを待つ間、館の主人として、皇帝陛下という立場のあるお父様を退屈させないよう、話し相手になっていたのだろう。
多分、普通のことだと思うんだけど……。
皇族の一員でありながら、巻き戻し前の軸の時も、一度も、誰からもそんなことをされたことがなかった自分の苦い思い出を、今ここで思い出しながら……。
私は、お父様に向かって『お待たせしてしまい、申し訳ありませんでした』と声をかける。
私の言葉に『いや、そんなには待っていない』と声を出してくれたお父様と……。
「皇女殿下、今日は一日、私が開催する夜会に来て下さり感謝の念に堪えません。
どうしても、私を除いた“あくの強い宮廷伯の面々”と関わらなければならず……。
きっと心身共にお疲れでしょうから、ゆっくりと休んで下さいね」
と……。
ブライスさんから、茶目っ気たっぷりな雰囲気で冗談交じりに『自分を除いた……』ということを強調した上で。
『宮廷伯の面々を相手にするのは疲れるでしょう?』と、気遣われたことで……。
私は、ふるふると首を横に振り……。
「いえ。……皆さんとお会い出来て、中央の行政についてなど、色々なお話を聞かせて頂いたことで凄く勉強になりました」
と、にこりと微笑みながら、ブライスさんに向かって声をかける。
本音を言ってしまえば『疲れた』というのが、嘘偽りのない事実ではあったんだけど。
流石に、上流階級の人間ばかりが集まる公の場で、更にこんな風に人も沢山いる中で、今ここで正直に本音を言ってしまうほど、精神年齢的にも幼くない。
それに、宮廷伯の人達から色々と話を聞かせて貰ったことで、その関係性なども含めて知ることが出来て、自分の身になったのは確かだから。
きちんと皇女として建前を使いながらも、それでもブライスさんから、こうして気遣って貰えていることに感謝の気持ちを込めて、穏やかな視線を向けると。
私の視線を受けて、よりいっそう破顔して、にこにこと上機嫌になったブライスさんから指示があり、従者の人にホールの扉を開けて貰えた。
【……もしかして、このまま外までお見送りに出てくれるつもりなのだろうか?】
ホールの扉を開けて直ぐの所まで、私たちと一緒に出てきてくれたブライスさんの姿に、私がぼんやりとそう思っていると。
初めてこの邸宅に来た際に出会った老齢の召使い頭が、ブライスさんの手に何か紙袋のような物を手渡したのが見えた。
そうして、それを受け取ったブライスさんが。
「陛下、皇女殿下。……此方は私の家内からです。
今夜開かれるパーティーの準備に関わる一切を切り盛りしていたのですが、子供達を寝かしつける為に乳母と共に、子供部屋に行ってしまい。
丁度、陛下がお見えになった際に対応出来なかったものですから。
つまらない物で恐縮ですが、陛下に年代物のワインを、皇女殿下には王都でも人気のパウンドケーキをご用意しています。
是非、皇宮に帰ってから召し上がってください」
と私たちに向かって、ほんの少し申し訳なさそうな表情を浮かべつつ、お父様に手土産を差し出してくれる。
そういえば、言われてみると今日のブライスさん主催のパーティーでは夫人の姿は見えなかったかも。
まだ幼い子供達がいて『離れたくない』と乞われれば、その対応をするのは仕方の無いことだと思うし。
小さい子って、まだまだ自分の感情をコントロールすることが出来ないから、母親という存在が恋しくて、乳母だけだとどうしようも出来なかったのかも……。
お父様自身も、あまりそういう事に目くじらを立てて『礼儀を欠いている』とうるさく言う人ではないけれど、一応この国のトップにいる人だし、挨拶が出来なかったことを気にしてくれたのかもしれない。
そして、それとは別に、お土産が事前に用意されていたところを見ると、凄くきめ細やかな配慮というか……。
全部、伯爵夫人の裁量によるものなのだろうということは直ぐに分かった。
貴族というと、どうしても館の主人である男の人のイメージが強くなってしまいがちだけど。
実際、家のことに関しては、夫人である女主人の器量で全てが決まると言ってもいいくらい、彼女たちの役目は大事なものだ。
屋敷の至る所に品良く置かれている調度品や、テラスのあの感じの雰囲気も、この家にある温もりは夫人が作っていると言っても過言ではないだろう。
それと同時に、家で行われるパーティーや晩餐会の準備など……。
貴族のパーティーには『自分の家は、これだけ裕福で周りを持てなすだけの余裕がある』と、権力を誇示するためのお披露目の意味合いも兼ねられているし。
招待状一つとっても、凄くセンスが問われてしまうものだから、本当に凄いなぁ、と思ってしまう。
【……まさか、私の分までお土産を用意して貰えてるとは思わなかったな】
――折角だから、頂いたパウンドケーキはみんなと一緒に美味しく食べさせて貰おう
内心で、そう思いながら……。
「わざわざ私の分まで用意して下さって、ありがとうございます。
伯爵夫人にも宜しくお伝え頂ければ嬉しいです」
と、ブライスさんに向かって、お礼を伝えると……。
「いえっ……。
我が家が開催する夜会に、皇族の方がわざわざ来て下さっているのですから、当然のことです。
それで、その……、誠に申し上げにくいのですが、皇女殿下……」
と……。
……ぽり、っと。
どこか困ったような仕草で、人差し指で頬を掻くブライスさんに『……何かあるのかな??』と、私はお父様と思わず顔を見合わせる。
ぱちりと、私とお父様の視線が合った所で……。
ブライス家のバトラーが、サッと何かをブライスさんに手渡すと……。
「いやぁ、その……、前にも話したかと思うのですが。
うちの長女が、皇女殿下の作る洋服のファンでして。
その……、今日、皇女殿下が私の家に来ると知って、一目でいいから会いたいとせがまれましてね……。
皇女殿下は既にデビュタントを済ましているから、夜会に出る資格のないお前とは違うんだと説明したんですが。
折角、皇女殿下が我が家に来て下さるのに会えもしないなんて、お父様だけ狡いっ、と。
……挙げ句の果てには大泣きされまして。
せめて、自分が持っている洋服に、皇女殿下のサインだけでも貰えないかと。
私もほとほと、困り果ててしまって……」
という予想外の言葉がブライスさんの口から降ってきて、私は思わず目を瞬かせる。
見れば、ブライスさんが手に持っているのは、私が前にジェルメールで販売していた洋服の一つだった。
【これに、サイン……?】
思わず、どうしようも出来なくて固まってしまったのは、洋服とは着るもので……。
下手に服にサインなんてしてしまったら、一生着ることが出来なくなってしまうけど、それでも良いんだろうか……?
と思ったからだったんだけど。
あ、でも、オペラとかで主役を務める女性歌手の履いていた靴などにサインをしてプレゼントしたりするようなこともあるらしいし。
――どちらかというと、そういう感じなんだろうか……?
ブライスさん自身、もの凄く言いにくそうだったから、もっとこう、違うことを言われるのかと悪い方向の想像をしていただけに拍子抜けだったんだけど。
サインなんて、初めてお願いされたから『どうやって書けばいいんだろう……?』とひたすら戸惑ってしまって……。
そういう意味でも、私はすぐさま頭を抱えることになってしまった。
「え、っと……えっと、サ、サイン、ですか……?」
そうして、戸惑い交じりに問いかけた私の言葉に、色々と勘違いに勘違いを重ねたのか……。
「やはり、皇女殿下の貴重なサインなどそう簡単に貰えるものではないですよね……」
と、落胆の色を強く出してくるブライスさんに。
「いえ、あの……、違うんですっ。
……サインが嫌だった訳じゃなくて。
こういうお願い事をされること自体が初めてのことだったので、びっくりしてしまって」
と、声を出しながらも。
サッと、その場に跪きながら、スチャッとジャケットの懐に手を入れたかと思ったら……。
スマートな仕草で差し出された蓋の開いた黒のインク瓶とペンまで、しっかりと用意してくれているという念の入れように……、
――圧倒的、執事長の無駄遣いっ……!
と、私はドギマギしてしまった。
執事長って、普通、家務や会計の管理を任されている人だったりするのに。
『こんな、雑な感じの使い方して許されることある……?』だとか。
『それでも、宮廷伯の使用人らしく、優美な感じを保っているの凄い』と混乱して。
最終的に『あれ……? これ、私が可笑しいのかな……?』と。
頭の中がくらくらしそうになりながらも、『娘に嫌われるのだけは、どうにか回避したくて……』と、懇願するようなブライスさんの瞳と。
こうやって、執事長から手際よくペンとインクを差し出されてしまったからには断る訳にもいかなくて、私はそれを受け取ったあと……。
おずおずと、なるべくドレスの中でも目立たない場所を探して、自分のサインを入れる。
因みにこのサインだって、普通に筆記体の……、お買い物とかをする際に自分が使っている何の変哲も無いサインでしかない。
こんな事を頼まれる日が来るだなんて思ってなかったから、舞台俳優やプリマドンナの人達が使うような一目で格好いいサインとはどうしても言えないと思うんだけど。
「……っ、ぐすっ、皇女殿下……っ!
本当にありがとうございます……! サインして頂けただけで嬉しいですっ!」
と、ブライスさんからは思いっきり涙ぐみながら、そう言われてしまった。
「よ……、喜んで貰えたなら良かったです……?」
思わずその勢いに気圧されて、疑問系になってしまいながら声を出せば。
「ブライス。
そろそろ、アリスを連れて、城に帰ってもいいか?
……お前に付き合っていると日が暮れるんだが」
というお父様の声が聞こえてきた。
「あぁ、陛下、申し訳ありません。
……どうぞ、私に遠慮無くお帰りになって下さって結構ですよ……っ?」
それに対して、さっきまでもの凄く感動していたようなブライスさんが唐突に、すん、と無表情に戻ったあとで。
明らかに貼り付けたような、アルカイックスマイルを出すのを見て、お父様の眉間に思いっきり皺が寄ったのが見えた。
こういう風な遣り取りを見ていると、お父様とブライスさんの間には一応、上司と部下としての絶対的な上下関係はあるものの、どこか気兼ねのない雰囲気で接することの出来る間柄なのだと一目で私にも理解出来る。
「お前……。
いっそ清清しいほどに、アリスにだけ用があって、私には全く用事も何も無いかのような振る舞いだな……?」
「……仕方がありませんよ、陛下。
皇女殿下は我が家の人間にとっては、ヒーローですから。
私自身、皇女殿下がその素晴らしい発想で、水質汚染の件を解決して下さらなかったら、その被害の拡大により、環境問題に関する責任者として少なくない責任を取らなければいけなかったでしょう。
……そうなれば、私たち一家も無事でいられたかどうかは分からない。
我が家の人間が従者に至るまで、誰一人路頭に迷うこともなく通常通り暮らしていけるのは皇女殿下のお陰です。
そういう意味でも、私は皇女殿下に、恩がありますからね」
そうして、お父様の問いかけに……。
ブライスさんが本当にそう思ってくれているのだと思えるような口調でそう言ってくれるのが見えて、私は思わずびっくりしてしまった。
発生源となった領地を持っているエリスの家族からは、責任問題が発生してしまうからと、もの凄く感謝されたのは覚えがあるけど。
考えてみたら、ブライスさんも、巻き戻し前の軸のように、もしも水質汚染の件で死者などが大量に出てしまっていた場合は、一家離散とまではいかないけど『爵位の降格』などで、上に立つ者としての責任を取らされていたかもしれない、とは私も思う。
巻き戻し前の軸の時、最終的にブライスさんがどうなっていたか、というのはあまり覚えていないいんだけど……。
……それにしても、前々からブライスさんが私に対して凄く好意的に思ってくれているのは感じていたものの。
まさかそんな風に思ってくれているとは予想もしていなかったから、思わず凄く嬉しい気持ちが湧き出てしまった。
そうして、最後まで私に対して優しい笑顔を向けてくれていたブライスさんに見送られて、私たちがブライス邸からお父様の馬車に乗ろうとした所で……。
【あれ……? もしかして、あそこにいるのって、バートン先生?】
――パーティー会場であるホールを抜け出して、人目につかないような庭で、一体何をしているんだろう?
と、暗がりにその姿を見つけて不思議に思っていたら、バートン先生の奥に、もう一人誰かの影が見えたような気がして。
『誰かと横並びで、話しているのかな?』と、私は少しだけ遠くを見るように目を細めて、思わずその相手を確認しようとして……。
「アリス、……どうした?」
と、お父様に呼ばれて、振り返った。
既に、お父様の騎士であるジャンが馬車のドアを開けてくれていたから、直ぐに乗り込まなければいけなくて……。
普段自分たちが乗る馬車よりも段差があったため、私はセオドアに手を差し出して貰ったあと、セオドアのエスコートで馬車に乗せて貰う。
だから、結局、バートン先生が誰とあんな風に人目につかないような場所で話していたのかは分からず仕舞いだったんだけど。
もしかしたら、パーティー会場の華やかな雰囲気に息が詰まって、少し休憩するために、誰かと夜風に当たっていたのかもしれない。
と、私は直ぐに思い直した。
【だとしたら、一緒にその場にいた人は、バートン先生が今日の夜会に伴ってきたパートナーとかだろうか……?】
それとも、バートン先生と凄く親しい宮廷で働いている人の誰か、とか……?
どちらにせよ、あまり、人のことを詮索するのは良くないと感じながら、私は馬車の中でお父様とセオドアと一緒に、今日の夜会でのことを話すのに集中することにした。