375 安心出来る場所
テラスで夜風に当たっていると、ほんの少し火照った身体が良い感じに冷めてくる。
元々、そういう設計にしているのか、ブライスさんの邸宅にあるこのテラスからは、下を見れば手入れのされた中庭が一望出来るだけではなく。
上を見れば、月明かりに照らされて、幻想的な星々がキラキラと輝いて見えるという、絶景スポットになっていた。
きっと普段は、パーティーにやってきた人の中でも、婚約者同士など、誰かと二人きりになりたい時に利用されている場所なんだと思う。
まるで、恋愛小説とかに出てきそうな、ロマンチックな場所だなぁ、と思いながらも……。
あまりにも、自分がそういうのとは無縁過ぎて思わず苦笑してしまった。
……そういえば、ここに来るまでそれどころじゃなくて、今の今まで何とも思わなかったけど。
【確か、セオドアはドリンクを取りに行ってくれてたんだったよね?】
その手に何も持っていないのを確認し、首を傾げ、不思議そうな表情を浮かべた私のことが見えたのか。
何を聞きたいのか、言わずとも理解してくれたんだろう……。
ほんの少しだけ、ばつの悪そうな表情を浮かべたあとで。
「……ドリンクを片手に戻ったら、あの男が姫さんに迫ってるのが見えて……。
瞬間的に頭に血が上って、思わずその辺に立ってたボーイに二人分のドリンクを押しつけたあと、駆けつけたせいで……。
結局、飲み物を取りに行った意味が無くなっちまった」
と、申し訳なさそうに事情を説明してくれた。
その姿に思わず、目を瞬かせ。
「そうだったんだね。……ありがとう」
とお礼を伝えたあとで、私は口元を穏やかに緩ませる。
元々、凄く喉が渇いていたかといわれたら、そうではないし……。
私が変な人に絡まれていることを瞬時に察知して、セオドアが駆けつけてくれたことが何よりも嬉しい。
……だけど、あの男の人の影に隠されて、私の姿は、恐らく見えていなかったはずなのに。
セオドアから見て、私があの人に迫られてることは直ぐに分かったんだろうか……?
『どうやって……?』と、きょとんと、再び不思議そうな表情を浮かべた私に。
「俺の耳にはばっちり、あの男が発する皇女殿下だとか、婚約だとか、そういう台詞も聞こえてきたし。
そうじゃなくても、そもそも壁側に背中を付けて、ホールの中を見渡してるんならまだしも……。
わざわざ誰もいないはずの壁側を向いて、人のいる方に背を向けている人間だなんて、普通は居るわけがないからな。
もしもそんな奴がいるんだとしたら、その身体の影に誰かを隠してるんじゃないかってのは直ぐに分かる。
姫さんが元々立っていた場所なのを考慮すれば、あのクソみたいな人間から被害を被ってんのが、誰かってのもな」
という言葉がセオドアから返ってきた。
そこまで思いつきもしなかったけど、言われて見れば確かに、セオドアの言う通りだった。
ただ、あの場に私が居ると認識してくれていた人間がどれほどいたか分からない以上は……。
やっぱり、セオドアが助けに来てくれるまでは、誰の目にもとまって居なかったんじゃないかなって思えて、ゾッとする。
それでも『婚約者候補として名乗りをあげたい』というような雰囲気満載で、近距離で思いっきり顔を近づけられてしまったくらいで済んで、特にそれ以上何もされなかったのは、救いだっただろうか。
それもこれも、セオドアが壁を思いっきり叩いてくれて、いつもよりもずっと低い声で、あの男の人を追い払ってくれたお陰なんだけど……。
「セオドア……、なんか、また、ちょっとだけ怖い顔、してる……?」
あの時の状況を思い出してくれたのか……。
私に対して向けられる物ではないと分かっていつつも、眉間に皺を寄せて怒ってくれているセオドアのその姿に、困惑の声が溢れ落ちると……。
月夜をバックに、こっちを向いてくれたセオドアの瞳は真剣そのもので……。
「……怖いか? 俺のこと……」
と、唐突にセオドアに聞かれて、私は予想外のその言葉に、きょとんと目を瞬かせたあと、ふるふると首を横に振って、それを否定するために口を開いた。
「ううん、まさか……っ!
だって、今も多分、セオドア、あの人に怒ってくれているでしょう?
……それって、私のことを思ってくれているから……、だよね……?」
怖いか怖くないかと問われたら『全然、怖くない』と、はっきり言い切れるくらいには……。
いつだって、セオドアが怒ってくれる時は、私のことを思って怒ってくれていると、知っているからで。
セオドアがどんな表情を浮かべていても、どんなに殺気立っていても安心できるのは、その場所が何よりも私にとって『安全である』と、分かっているからに他ならない。
だから、セオドアのその姿を怖いと思ったことは一度もないんだけど。
私の為にそこまでセオドアが負の感情を出さなくてもいいし、出来るなら、傍に居るときは笑っていて欲しいな……。
という気持ちを込めて……。
「あのね、セオドアの気持ちは凄く嬉しいんだけど……。
私のために、ずっと怒ってくれて、難しい表情を浮かべているよりも。
……傍でいつものように、優しい表情を向けてくれた方が嬉しいなって思って……」
と、ぎゅっとセオドアの手のひらを握りしめながら、セオドアの顔をよく見る為に、そっと上を見上げて声を出せば……。
何故か、一瞬だけ驚いたように、ぐっと息を詰めたあとで……。
そのあと暫くしてから『はぁ……』と、苦笑しながら、ため息を吐かれてしまった。
「あー、承知した。……お姫様の仰せの通りに」
そうして、口角をつり上げて笑みを溢してくれるセオドアは、もう普段通りに戻っていて……。
「それにしてもまた面倒な、というか……。
ただでさえ、皇太子やエヴァンズに群がる女達の群れっていうか。
ハイエナみたいな奴らのことを、警戒してたのに……。
これに加えて、姫さんの婚約者候補になりたい奴が動いてくるかと思えば、どこまでも気は抜けねぇな……」
……次いで、ぽつりと降ってきたセオドアからの実感が込められたような言葉に私は苦笑する。
午前中にお兄様と行ったお茶会でのことも含めて、セオドアが色々と危惧してくれているのは私にも直ぐに分かった。
【お兄様がその場にいるというだけで、なんて言うか本当にパワフルだったというか。
令嬢達の熱の入れようっていったら、それはもう凄かったもんね……】
ただ、お兄様やルーカスさんのことを狙っているご令嬢達に関しては、どうにもならないかもしれないけど。
エヴァンズ家というか、私とルーカスさんの婚約が公になれば、少なくとも今日のように『私の婚約者候補になりたい』と動いてくる人は、表立ってはいなくなるんじゃないかと思うんだけど……。
セオドアにそのことを伝えたら、思いっきり眉を顰められたあとで……。
「……そうなったら、本当に、もう二度と戻れなくなる。
皇太子も言ってたが、生きて行くには困らないにしても、あの男の用意した侯爵家という箱の中で、ちゃんとした愛も貰えない窮屈な人生を俺は姫さんに送って欲しくない」
と言われてしまった。
月明かりの下で、暗く影が差した、あまりにも真剣なセオドアのその表情と……。
『……姫さんには、誰よりも幸せになって欲しい』と続けて言われた言葉に、どうしようもない程の罪悪感が湧いてくる。
前にも思ったけど、いっそ、ルーカスさんとの婚約は仮初めのものであると、白状することが出来たらどんなに良いだろう。
流石に、二人だけの秘密にしておいて欲しいと言われた以上は、勝手な私の判断でセオドアも含めて誰にも本当のことを教える訳にはいかない……。
思わず吸い込まれてしまいそうなほどに、私のことだけを心配してくれているような真剣味を帯びたその赤い瞳に対して、申し訳なさが勝ってしまい、とうとう困り果てて、ふいっと視線を逸らすと……。
そっと、私の頬をなぞるように、その長い指先が落ちてくる。
「……ん、……っ」
触れられた箇所が、冬の寒さで少しだけビクッと、震えれば……。
そのまま、優しい手つきでそこを撫でられたあと、顎先を持ちあげられて、セオドア自身、全然力も入っていないのに、問答無用で上を向かせられてしまった。
まるで『目を逸らさずに、こっちを向いて欲しい』と言わんばかりのその仕草に、ばっちりと、瞳同士が交差すれば……。
『セオドアの瞳に、嘘は吐けない気がする……』というか。
――隠しているその全てを、今ここで見抜かれてしまいそうで。
私は思わず、一人、眉を寄せてふにゃっと、困り顔になってしまう。
そうして……。
「セオドア……、あの……」
と、戸惑いながら、セオドアを呼べば……。
「……誰なら良いとか、そういう事じゃねぇんだ。
……このまま、やって来る縁談に反対し続けて。
自分は、ただ、ずっと傍で見守っているだけで良いと思っているのか、なんて。
そんなこと、今更聞かれなくたって、俺だって分かってるんだよ……」
……不意に、ぽつり、と。
今この場では、あまり関係のないような台詞が、唐突にセオドアの口から降ってきて、『……??』と、私は首を横に傾げる。
【その台詞、どこかで聞いたような気がするんだけど、どこだったっけ……?】
私が頭を一生懸命、働かせながら、その台詞の出処を思い出そうとしていると。
さっきよりももっと、熱を帯びたような真剣な表情で見つめられて、思わずドキッとしてしまう。
――詰めていた息を吐き出したのは、一体、どっちが先だっただろう……?
その瞬間……。
私の顎を、くいっと持ちあげていたセオドアの手がやんわりと解かれて……。
その視線が私から外れたことを、ホッとする日が来るだなんて思いもしていなかった。
ルーカスさんとのことをそれ以上言及されず、ちょっとだけ安堵した私に、再び、頬を撫でるように、親指でぐいっと頬を撫でられたのと、親指以外の指が首筋に当てられて……。
身を屈めて、私の耳元まで自分の顔を降ろして来てくれたセオドアが『……あー、いや、何でも無い』と苦い笑みと共に声を出してくれたのを聞きながら……。
どこか張り詰めたような空気になってしまった、さっきとは打って変わり。
優しい手つきのセオドアにどこまでも安心して、無意識にすりっと、甘えるように、その手のひらに頬をこすりつけるようにして、顔を動かした私は、そこでハッとした。
見れば、さっきまで真剣な表情をしていたセオドアが、思いっきり目を見開いて驚いたような表情を浮かべていて……。
真面目な話をしていたのに、私自身も、まさか自分が『セオドアの手のひら、大きくて安心するなぁ……』と思って。
まるで『もっと撫でて欲しい』って、お願いするように無意識下にこんなことをやらかすとは欠片も思っていなかったため、一気に恥ずかしくなってきてしまった。
「……あ、あ……っ、え、っと……。ご、ごめんなさい……。
なんて言うか、その……、セオドアの手のひら、大きくて安心するなぁって思って……。
気付いたら……、あの……っ」
――その大きな手に、猫みたいに、頬をこすりつけてました……っ
とは、到底言えなくてしどろもどろになる私に。
セオドアは、毒気を抜かれたような雰囲気で、小さくため息を溢したあと。
もの凄く困ったように……。
「……っ、あー、本当に、勘弁してくれ……。
自分の存在が無条件に許されて、居心地の良い場所まで提供されて。
ただ、それだけで満足してたのに……っ。
こうも際限なく甘やかされると、もっと欲しいっていう欲望が、止まらなくなっちまう」
という、まるで謎かけのような言葉を私に向かって出してくる。
【えっと……、際限なく、セオドアに甘やかされているのは、私の方なんじゃないかな……?】
と、思うんだけど。
――私、セオドアを甘やかす……、ようなこと、何かしたのかなぁ……?
思い当たる節が全くない上に、その言葉の意味が分からなくて、首を横に傾げたあとで。
一気に、和やかな雰囲気になったのを感じて、ホッと胸を撫で下ろした私は……。
そういえば、ずっと、ここでこうやって、セオドアと話していたけれど。
折角、思いがけず、セオドアのお陰でこうして二人っきりになれたことだし。
誰にも聞かれることなく、セオドアと会話が出来るチャンスかもしれないと……。
私は、さっき宮廷伯の面々と話したことを思い出し『……セオドアの目から見て、宮廷伯の人達で誰か怪しそうな人はいたりしたんだろうか?』と、この状況を上手く活用して、聞いて見ることにした。
……ここに来るまでに主要な人達とは、お父様に挨拶をしに来た関係上、しっかりと話せているし。
私たちがパーティー会場から、かなりの時間、抜けていたとしても、誰も気にする人はいないと思うから、きっと大丈夫なはず。
そう思って私が『……セオドア』と、セオドアに向かって声を出そうとした所で。
「……皇女殿下、此方にいらっしゃったんですね? ……探しました。
ブライス卿主催の夜会は、まだまだ続いていますが……。
最後まで残ることは出来ないから、そろそろ城へ戻ると、陛下がお呼びです」
と、ジャンが私達のことを呼びに来てくれた。
……宮廷伯の人達のことは、今ここでセオドアと話さなくても、帰りの馬車で、お父様も交えて話すことが出来るし。
寧ろ、そっちの方がどっちの意見も聞くことが出来て一石二鳥かもしれない。
直ぐに、そう判断して、私は呼びに来てくれたジャンに向かって『ありがとう』と、にこにことお礼を伝えたあと……。
セオドアと迎えに来てくれたジャンと一緒に、お父様の元へ向かうことにした。
【まるで、恋愛小説とかに出てきそうな、ロマンチックな場所だなぁ、と思いながらも……。
あまりにも、自分がそういうのとは無縁すぎて思わず苦笑してしまった】
……はい、皆様、思い出してくれたでしょうか?
これが冒頭のアリスの台詞です……っ。
これが……、冒頭のアリスの台詞です……っ!(大事なことなので二回言ってみました(笑))