372 外務部のスミス
にこやかに口角を上げて笑みを溢してくるその人に、きょとんとしていると。
「失礼。ご挨拶がまだでしたよね?
帝国の太陽に、そして帝国の可憐な花にご挨拶を。
初めまして、私、皇宮内で外務部の担当をしているスミスと申します。
……以後、お見知りおき下さい、皇女殿下」
と、急に距離を詰められたかと思ったら、下からぎゅっと手を掬うように持ち上げられ、そのままフランクな雰囲気で手の甲にキスを一つ落とされたあと、ウィンクをしながら挨拶をされてしまった。
スミスさんからの唐突なその挨拶に、いきなりのことで直ぐに対応出来ずにびっくりして、一人、戸惑っていると……。
その瞬間、私の後ろで警戒心を強めてくれたセオドアが、私を庇うように前に出てくれたあと。
私の手をぎゅっと握ったままのスミスさんのその手を片手でパシッと掴んでから、そこまで力は入れていないと思うんだけど、やんわりとどけてくれた。
「失礼します。……外務部長官、殿……。
……まだ幼いアリス様、皇女殿下に、幾ら宮廷伯という立場であろうとも、初対面であまり親しい間柄……、でもないのに。
きちんとした皇族への挨拶も交わさず、急に手を握ってそこに口づけをするという行為は……、失礼にあたるのでは?」
そうして、なるべく感情を押し殺してくれたのか、セオドアにしては珍しいくらいに無機質で冷たい言葉がスミスさんに向けられるのが見えた。
普段、私自身、ウィリアムお兄様やお父様で無表情な感じの雰囲気の人を見るのは見慣れている筈なんだけど……。
【もしかしてだけど、セオドア……】
――私のために、今、もの凄く怒って、くれてる……?
と、思うくらいには、能面のように一切の感情を消したようなセオドアの姿を見るのが初めてで、思わずびっくりしてしまった。
ちなみに、この場でセオドアが言っているきちんとした皇族への挨拶というのは、例えばお父様に『帝国の太陽にご挨拶を』という、国で決まっているお決まりの文言を伝えてくるだけではなく。
女性ならドレスの裾を摘まんでカーテシーを……。
男性なら胸に右手を当ててお辞儀をするというのが、一応の習わしだから、そのことを言ってくれているのだと思う。
男性の場合は、少し簡略化したものとして、式典など畏まったような場所じゃない時には、必ずしも右手を胸に当てることは必要ではなく『お辞儀をする』という仕草だけでも可になってはいるものの。
スミスさんの場合、私にお辞儀をすることもなく……。
即座にぎゅっと手を握って、まるで昔からの旧知の仲であるかのように手の甲に唇を落としてきたから、セオドアが『それは親しい人にする挨拶なんじゃないか』と、正当な抗議をしてくれたのは直ぐに分かった。
そうして……。
セオドアが今、護衛騎士として私のことを守るために出してくれた言葉なのは、ここにいる全員が認識していて。
眉を寄せて、ほんの少し怒ったような雰囲気を醸し出したお父様の無言の威圧と……。
ブライスさんとベルナールさんの『あーあ……』というどこか呆れたような視線がセオドアではなく、スミスさんに向けられたことで私はひとまず、ホッとする。
それは今この場所で、セオドアが私を守ろうと行動してくれたことが、正当なものであると周囲から認めて貰えたということに他ならないから。
私を庇うように前に出てくれたセオドアに、人がいっぱいいるこの状況で、表立ってお礼を伝える訳にもいかないため、ありがとうと視線だけで感謝の気持ちを伝えていると……。
ベルナールさんがスミスさんに向かって、もの凄く嫌そうな雰囲気を醸し出した後で、ぽつりと。
「まったく、これだから外国かぶれの人間は……っ。
碌に、我が国のマナーすら遵守できないのか?」
と、小さく吐き出すように声を溢したのが聞こえてきた。
一方で、スミスさんは、お父様の反応を見て、一瞬だけ『参ったな……』と言わんばかりに苦い笑みを溢しながらも。
……直ぐに、取り繕ったように柔らかな笑顔に変わり。
ベルナールさんの意見については聞こえているだろうに、何処吹く風で。
まるで、降参するとでも言わんばかりに両手を挙げたあと……。
「おっと……。怖い顔をして、そんなにも牽制しないでくれよ。
なるほどね? ……君が、噂の皇女殿下の飼い犬か。
主人のことを護るためだけに、本当によく躾けられた、ワンちゃんだ。
海外生活が長い私の元にも、君の噂はきちんと届いているよ。
皇女殿下が“黒髪で赤い目をした男を、自分の騎士にした”って聞いた時は何かの間違いなんじゃないかと思ってたけど。
実際、こうして見ると、ノクスの民っていう噂は、本当だったみたいだねぇ……?」
という言葉を返してきた。
どこか含みのある、意味ありげに吐き出されたその言葉に、事前にお父様からスミスさんが『赤を持つ者』に対してあまり良い印象を持っていないと聞いていただけに……。
もしかして、私だけではなく、セオドアのことも良く思っていなくて、標的にされてしまっているのかと。
過剰に、防衛する気持ちが働いて……。
スミスさんに対して『……あの、お言葉ですが、セオドアは……』と、出自なんて関係なく私の騎士としてしっかり働いてくれていると、訂正するように声を出そうとした所で。
「気に障ったんなら、申し訳ないが、私自身、国内にいるよりも、海外生活の方が長くてね。
今の行動はあくまで、皇女殿下に敬愛の意をお伝えするための、親愛表現のようなものだったんだよ。
我が国では確かに親しい人間や、忠誠を誓っている場合にのみ行われる手の甲へのキスだが、他国ではそうじゃない。
……これが、最上級の敬意を払った挨拶になる国もある。
知ってるかい? 手の上に落とすキスは尊敬の意味合いが込められたものだってことを」
と、スミスさんが苦笑しながら、続けて、セオドアに向かって声を出してきたことで……。
その言葉に、私はパチパチと目を瞬かせ。
スミスさんの方が、私が声を出すよりも一足早かったこともあり……。
結局、出かかった言葉の矛先を誰にも向けられなくなったというか、完全に機会を無くし行き場を失ってしまった私の言葉は、口の中で、音になることもなくかき消えていってしまった。
私のことは仕方がないけど、セオドアのことは『出来れば、そういう風な目で見ないで欲しい』と伝えたかっただけに、心の中にほんの少しのわだかまりというか、黒い靄のようなものが溜まってしまう。
そうして……。
『手の上に落とすキスは、尊敬意味合いが込められている』のだと。
本当に、そう思ってくれているのか、それともこの場で取り繕う為だけのただのポーズなのか……。
その表情の裏にある感情を、私自身一生懸命読み取ろうと努力はしてみたんだけど、のらりくらりと微笑んだ様子の『スミスさんの瞳』からは、そこに、一切、どういう感情が乗っているのかまでは読み取ることが出来なくて。
雰囲気は違うものの、どことなくルーカスさんを彷彿とさせるようなタイプの人だなぁ、と思いながら、目の前の人をまじまじと見つめていると……。
「全く、いつになく、陛下の周りが騒々しいと思えば、スミスの仕業か。
お前には、宮廷伯としての自覚が無いのか?
他国から帰ってきて早々、皇女殿下相手にやらかすとは、お里が知れるというものだ」
「……ふふっ、仕方がありませんよ、ヴィンセント殿。
スミスは長らく他国での生活をしすぎていて、恐らく愛国心を忘れているのでしょう。
スミス、あなたの……、異国の知識を得て見聞を広げようと努力する姿や。
そのコミニュケーション能力と適応能力に関しては、確かに素晴らしいと目を見張るものがあるが。
異国に合わせた遣り方をする前に、貴族の子供達に交じって、この国のマナーをもう一度、基礎から勉強し直してみては如何です?」
という二人分の言葉が、私の後ろから聞こえてきて思わず、振り返る。
見れば、一人は髪の毛をビシッとオールバックにして固め、お父様以上に『堅物』と言わんばかりに顰めっ面のまま、どこまでも厳しい表情をスミスさんに向けていて。
もう一人は『好々爺』というような雰囲気で、古いヴィンテージ物の一目で質のいい物だと分かるような眼鏡をかけて、柔和な表情を浮かべており……。
なおかつ敬語を使いながらも、あまりにも辛辣な一言をスミスさんに伝えているのが見えて。
私自身『もう、何が来ても驚かないぞ』と内心で思いながら……。
この場所に来て話せる資格がある人間は、五老星の人達以外にはいないはずだと、彼等の正体に当たりをつける。
実際に今、柔和な雰囲気で敬語を喋っている人の口から『ヴィンセント』という名前が出てきたということは、顰めっ面をして厳しい表情を浮かべている人の方が、総務部のヴィンセントさんで……。
敬語を喋って柔和な表情を浮かべている人が、恐らく消去法で、『総務、外務、法務、環境問題』のその全てに該当しない、財務部のノイマンさんなんだと思う。
ただ、その雰囲気から、ノイマンさんのことを好々爺だと称したけれど。
お爺さんというほど、そこまで歳は取っておらず、二人とも国の重鎮らしく、パッと見た雰囲気で判断するなら、50~60代くらいの年齢だろうか。
図らずもこの国の宮廷伯、五老星と呼ばれる人達が全員、この場に揃ったのを見て、周囲からのどよめきがより一層、大きくなったのを痛感する。
【もしかしてだけど、同じ場所にこうして五老星の方達が全員集まって話しているのって、凄く珍しいことなのかな……?】
ブライスさんの夜会に来ている招待客の反応で、私が、ぼんやりと頭の中で、五老星の人達のことを考えていると。
ヴィンセントさんと、ノイマンさんからも、それぞれお父様に挨拶するのと同時に『帝国の可憐な花にご挨拶を』と、私に向けたきちんとした挨拶をして貰えて、私は自分の意識を、ハッと現実へと引き戻した。
「スミス、ここは他国ではない。
幾らお前が、その口で敬意を払おうとしたと言っても、わざわざ我が国のマナーではなく、そちらを優先する必要はなかったはずだ。
……この国のマナーを無視して、他国の挨拶をするのは、逆に敬意を払っていないと言っているようなものだと取られても可笑しくはないが。
今のお前の対応を、私自身、そういう風に受け取っても構わない、ということだな……?」
そうして、全員の視線を受けて見かねた様子で、忠告するようにお父様がスミスさんに対して苦言を呈してくれると。
スミスさんは、お父様の言葉を受けて……。
「……っ、! ……申し訳ありません、陛下。
私の主君は、常に貴方様であり、この身は何時いかなる時も、我が国のために捧げていると言っても過言ではない。
ただ、今現在、国内外でも何かと話題の中心になっている皇女殿下に……。
陛下の側近、忠誠を誓っている臣下として、お近づきの印に、私のことを覚えて頂きたかっただけなのです。
普通の挨拶ではなく、敢えて他国での最上級の挨拶をすることで、他の宮廷伯達とは差をつけたいという意図があった。
……皇女殿下も、申し訳ありませんでした」
と、驚くほど素直に謝罪してくれた。
困ったことに、スミスさんのその表情からは本当に申し訳なかったという気持ちが滲み出ており。
特に、そこに怪しい雰囲気は見られなかったことから、私自身困惑してしまう。
こういう時、表情は幾らでも取り繕えるとはいえ、今、この場に来た五老星と呼ばれる人達の誰もが、形は違えど私とお父様のことを最優先し……。
その表情にあからさまな侮蔑の色は混じっていないことからも。
『……宮廷伯の人達の誰かが、本当に仮面の男と繋がっているのだろうか?』という疑問が湧いて出てくる。
ただ、彼ら自身が、政治の中枢を担って、貴族社会の酸いも甘いも噛み分けてきたような人達であることに変わりは無く。
嫌いな人間に対してでも、表情を取り繕えるようなことは朝飯前かもしれないし、今こうして私に普通に接してくれているのはお父様がいるからで、ボロが出ないように、特に気をつけているのかも……、と。
疑いたい訳じゃないけど、どうしても緊張感を持って見てしまう。
「あ、あの……、話を戻すようで申し訳ないんですけど。
さっき、スミスさんに仰って頂けたように、騎士団の中に騎士団長と副団長の派閥があるということは周知の事実なんですか?」
そうして、とりあえず、そういうのを見抜くのがそもそも下手な私は……。
ここで、いつまでも彼らの表情の一つ一つをつぶさに観察していても仕方がない、と。
お父様と、このパーティーの間中、彼等の表情を見ておくと言ってくれたセオドアに任せようと、思いながら……。
スミスさんが私に異国の挨拶をしてきたことで、一度は、有耶無耶になってしまった騎士団の話に戻すことにした。
丁度、有り難いことに、順番に彼等がお父様の周りに集まってきてくれたことで、ここには五人の宮廷伯、全員が揃ってる。
どうせ、それぞれに対して、騎士団やアーサーのことについては尋ねたいと思っていたし。
全員が纏まってこの場所にいてくれることにより、互いの遣り取りなどから、誰と誰が仲が良い雰囲気なのかなど、その関係性についても見ることが出来るし、一石二鳥だった。
お父様から言われた『子供らしく無知を装う』ということをなるべく意識しながら、こてんと首を横に傾げて、問いかければ……。
「あぁ、失礼しました、皇女殿下。
そういえば、そのような話をしていましたね」
と、スミスさんから苦笑交じりにそう言って貰えた。
「まぁ、騎士団長と副団長では出自も違うし、目指している方向性に差があるのは明らかですからね。
それに付随して、どちらを尊敬出来るかという面で考えても、騎士団の中で、隊員の意見が真っ二つに分かれるのは致し方ないとも思えますが……」
そうして、開口一番にそのことについて踏み込んで、口を開いてくれたのは環境問題の官僚でもあるブライスさんで……。
私にも簡単に説明してくれたあと『どちらかというのなら、私は副団長の遣り方の方が好みですけどね』と、明け透けに声を出してくれた。
やっぱり、ブライスさんは一番お父様に思考が近いこともあって、騎士団長よりは、副団長の方が好きなのだろう。
そういう意味では、私に対してもいつも態度を変えるようなことなく接してくれているし、ブライスさんはやっぱり信頼出来る人だなぁ、と思ってしまう。
「騎士団長と副団長の違いはその出自にもあるが、実際、騎士団長は今は半ば騎士団を私物化しているんだったか……?
全く、上に立つ者として、本当にあってはならない遣り方だ」
そうして、お父様から事前に聞いた情報では、まさしく誰よりも公正な目を持ち『清廉潔白』と言ってもいいという総務部のヴィンセントさんが、騎士団長の遣り方について眉を寄せ、厳しい口調で否定すると……。
「ふむ……、ですが、基本、あの男は、人の懐に入るのが上手い男なのでねぇ……。
実際、皇宮で働く人間たちを相手によくやっていると言っても良いでしょうな。
礼儀を重んじて、宮廷貴族のことを蔑ろにしないのは、騎士団に所属するものとして、一応、及第点と言ったところか」
と、法務部のベルナールさんから、どちらかというのなら、騎士団長よりの言葉が返ってきて、私は目を瞬かせた。
ベルナールさんのその言葉に……。
【そっか、規律やルール、そしてマナーに重きを置いているということは、必然的に爵位などの序列も大切にするという意味に繋がるのか……】
というのが分かって、そういう意味では、ベルナールさんが騎士団長のことを評価している人なのだということがこれではっきりと認識出来た。
それから、お父様に保守的と評されていたノイマンさんに関してもベルナールさんと同様に、『まぁ、騎士団長は古い仕来りなどをきちんと大切にする方ですから、そういう意味では重宝していますね』という言葉が返ってくる。
そうして、スミスさんに至っては……。
「ははっ、私は外での仕事が忙しくて、騎士団と直接、関わることは少ないからね。
……皇女殿下にきちんとお伝え出来る情報すら、持って無いと言ってもいい。
他国のことに関して聞いてもらえれば、ある程度伝えられはするんですが……」
と、にこやかな瞳で、あまり申し訳ないとも思っていなさそうな雰囲気でそう言われてしまった。