370 今は亡き人を思う
お母様の担当医に関しては、亡くなる直前などは、基本的にロイが担当してくれていたはずだけど。
ロイの今の年齢を考えると、確かまだ26歳だったと思うから……。
私が生まれる前となると、その頃はきっと、宮廷医の中でも、別の人がお母様の担当をしてくれていたんだよね?
その人がロイみたいに、赤を持つ者や私たちに対して偏見などもせず、優しく接してくれていた人かどうかは分からないけれど……。
流石にお父様に対して嘘の報告はしないと思うから、今、お父様から話があった通り、お母様の身体が弱くて一人しか子供が産めなかったというのは事実なんだと思う。
「お母様の身体が弱くて、お医者さんから一人しか子供が産めないと言われていたのは、知りませんでした……」
お父様とお母様とテレーゼ様の関係をとっても……。
お母様の置かれていた境遇や環境をとっても、私が思っていた以上に皇宮内で凄く『複雑な事情』が絡んでいたことに、狼狽の色を隠せず、ぽつりと漏らした本音交じりの私の一言を受けて。
お父様からは、どこか申し訳なさそうな苦い笑みと共に……。
「基本的にお前の母親も、そのことを知ってはいたが……。
その……っ、お前にとってはどこまでも酷な話かもしれないが、お前の母親は自分が子供を産むということに関しては、あまり積極的ではなかったし。
そもそも、私のことを嫌っていたのだろうから、私との子供という点においても、もしかしたら、本当は欲しいとは思っていなかったのかもしれない。
今となっては、その辺りのことは私には判断出来ないが……」
という言葉が返ってきて、私自身もそれについては納得することが出来た。
お母様の本当の考えが分からない以上は、どこまでも憶測でしか物を語れないけれど、私が生まれてからのことを考えれば、お母様は『子供が欲しい』とは思っていなかったんだと思うし……。
お母様が生きている間、同じ宮内にいたとしても必要以上に私とは関わりを持とうとせずに、距離を置かれていたことから考えても。
今まで、過ごしてきた日々を考えれば、そもそも、私を産んだことすら『間違いだった』と思われていそうな雰囲気だったから……。
分かりきっている事実を誰かの口から伝えられた所で、今更、それで傷つくようなこともない。
どちらかというのなら、お父様の方がなんだか辛そうな雰囲気を醸し出していることに『大丈夫かな……?』と、ちょっとだけ心配になりつつも。
お母様はそれでも、もしも子供が生まれるのだとしたら、女の子ではなく、男の子が欲しかったのかな、と感じてしまった。
お父様がどうしてお母様に嫌われていると思っているのかは、未だによく分からないけれど。
いつだって、お母様の視線がお父様のことを追っていたのは、実際に私がこの目で見ているから事実だと思うし。
そこに、どういう感情があったにせよ……。
【お父様に似た金を持った子供が生まれていたら。
もしもそれが私だったなら……、もう少し、こっちを見て、愛して貰えていただろうか……?】
なんて、今更考えた所で、仕方が無いことだとは分かっている。
お父様の言葉に、どういう風に返せばいいのか分からなくて、結局、困ったあげく、お父様と同様に苦い笑みを溢すしか出来なかった私を見て……。
一気に馬車の中に、気遣うような視線と、暗く重たい雰囲気が充満していくのを感じて。
私は慌てて、平然とした表情を取り繕った後に『何とも思っていないから気にしないで欲しい』という意味合いを込めて、口元を緩めた。
流石に、未だにお母様の愛が欲しかっただなんて、そんな子供じみたことを言うつもりはないし。
……実際、それを言った所で、みんなのことを、ただひたすらに困らせてしまうだけになるのは重々承知している。
生前、どんなに近くの距離にいたって、お母様はいつだって私の姿をその目に捉えた瞬間、まるで話もしたくないと、そそくさと避けるように自室へと籠もってしまうことが殆どだったし。
そうじゃなかったとしても……。
最期のあの瞬間、伸ばされた手のひらに……。
お母様の口から吐き出された、まるで呪いのように『纏わり付いて離れない言葉』からも、どれほど私自身がお母様から嫌われていたのかは、それこそ、嫌になるほど、この身に沁みて理解しているから。
こうだったら良かったのに、と、絵本に描かれているような幸せな親子というものを想像して、夢見る時間も……。
『こっちを向いて欲しい』と、ただひたすらに願っていた思いさえも、全部諦めて捨ててしまってから、どれくらい経っただろう。
“その状況”に慣れてしまったと言えばそれまでだけど。
良い意味で、今はそこまで、誰かの愛に固執することもなくなって久しいから、お父様やセオドア、それからジャンにまで気遣うように心配して貰わなくても『大丈夫』だとは、胸を張って言うことが出来る。
それでも、過去のことをこうして、振り返ってみれば……。
単なる思いつきだったのか、一度だけお母様から侍女を通してプレゼントして貰ったお母様好みの華美なリボンや……。
体調が良さそうな日に、勇気を振り絞って声をかけて、二言、三言返ってきた台詞を思い出して、胸がきゅうっと軋むように痛くなってきてしまうのは事実だった。
お母様から、そんな風に接して貰えたことなんて、本当に片手で数える程しかなくて……。
誰かからの愛情というものは、私にとっては無条件で貰えるものではなかったし。
言い換えれば、そんな些細なことですら覚えて、その記憶に縋ってしまうくらい、お母様と過ごした思い出なんて殆どないんだけど……。
それでも、愛情なんて殆ど貰ったことがなくて、多分、お母様から嫌われていたのだと分かりきっているにも関わらず。
未だに、こうしてお母様のことを思って、テレーゼ様と比べてしまったりするのは……。
あの頃『愛して欲しい』と願っていた私のなけなしの心の中、……奥底で、それでもまだお母様のことが諦められないと思っている名残なのかもしれない。
私がどんなにお母様の方を見つめても、その儚げに揺らいだ瞳は、決して私の方を向いてくれることはないと、分かっていたはずなのに……。
「……姫さん……っ」
狭い馬車の中で、唐突に、セオドアから心配するように声をかけて貰ったことで、ハッとした。
過去のことを思い出すのに没頭して、私を見てくれているみんなを気にかける余裕なんて、今この瞬間まで微塵もなかったことに、思わず焦ってしまう。
そうして、自然と膝の上で力強く握りしめていた拳に、それだけで私自身、身体がもの凄く強ばってしまっていたことに気付いて、そっと、緩めるように肩の力を抜いて、詰めていた息を吐き出せば……。
誰も彼もが気遣うような表情で私のことを見ていて……。
『このままじゃダメだ』と改めて気を引き締めながら、私は誰から見ても柔らかな表情に見えるように、敢えて表情を意識して作り出す。
「ごめんなさい……。
ちょっとだけ、ぼーっとしてしまって……」
ふわりと、微笑んで何でもないことを告げれば……。
私の返答を聞いて、ほんの少し眉を寄せたセオドアにジッと見つめられてしまい。
その吸い込まれそうなほど真っ直ぐな瞳に、何となくセオドアには『色々とバレてしまっていそうだなぁ……』と思いながらも。
今は、何も聞かないでくれているその優しさが嬉しくて、自然と本当の笑顔がこぼれ落ちた。
それから……。
聞いて良い物なのか分からなかったけど、この際、お父様には聞けるだけ、気になることを聞いてみようと、決心がついて。
「あの……、お父様は、どうしてお母様に嫌われていたと思っているんでしょうか……?
お母様から、嫌われていたと思っているのには、何か、きちんとした理由が……?」
と、問いかけると。
お父様は私の表情の変化を見て、ホッと胸をなで下ろしたように安堵の表情を一瞬だけ見せたあと。
「あぁ……。
お前の母親と初めて出会った頃は、従兄妹同士、私に対しても明るい笑顔を向けてくれていたのだがな。
それが歳を取るごとに、徐々に表情に陰りが見え始めて、次第に視線すら合わせてくれなくなってしまって。
物憂げな表情を見せては、年々、会話の数も減っていき、普通だった声量がどんどん聞こえないくらいに小さくなっていってな。
……流石にそこまでくれば、そういうものに疎い私でも嫌われているのだと判断することが出来る」
と、返事を返してくれた。
そもそもの話、お母様とお父様が一緒の空間にいること自体が、稀だったし……。
私自身もあまり二人が並んでいる姿を見たことがなくて、お母様がお父様に対してそんな風に対応していたとは、今まで思ってもいなかったから、驚きに目を見開いてしまう。
お父様と一緒で、恋愛感情に疎い私には、正直言って、お母様のその態度にどんな意味があるのか分からず。
その瞳がいつだってお父様の方を向いていると、私が個人的に勘違いをしてしまっていただけで……。
お父様の言う通り、やっぱりお母様は『お父様のことを嫌っていた』というのが正しいのかもしれないと考えを改める。
私とお父様が遣り取りをしていると、その合間を縫って……。
「あー……、話の腰を折るようで、申し訳ないんですが……、
それって、本当に嫌われてた、んでしょうか……?」
と、セオドアが唐突に会話に入ってきてくれたことで、言われた言葉の意味が分からず、私が首を横に傾げたのと……。
ほんの少し難しい顔つきをしたお父様が『どういう意味だ……?』と声を出したのは殆ど、同時のことだった。
それから、お父様の問いかけに、セオドアはどこまでも真剣な表情をしたまま……。
「いや、なんて言うか、その話だけじゃ、本当に嫌われていたかどうかは分からないっていうか。
もしかしたらそこに、誤解が生じている場合もあるかもしれねぇなって……。
そもそも、外出許可一つとっても、アリス様が悪い方向に勘違いしてしまってたように。
俺が傍から見ても、正直、陛下は、普段から圧倒的に言葉が足りてなくて、愛情表現に関してはかなり分かりにくいところがある、……から。
何か勘違いがあったとか、そういう可能性は、ないんですか……?
例えば、前皇后様は、現皇后……、様が第二妃になった経緯自体を、知らなかった、とか?」
と、物怖じすることもなく、率直にお父様に向かって問いかけてくれた。
その言葉に、私は驚いて思わず目を瞬かせる。
お父様の言葉数がかなり少なくて、『圧倒的に言葉が足りていない』というセオドアのはっきりとした言い分には、正直言って私も納得出来るというか、一理あると思う。
私自身、ウィリアムお兄様から『お父様の言動の意味や理由』を教えて貰って、初めて、お父様が今まで私たちのことを守ろうとして、外出の許可を渋っていたことを知ったくらいだし。
もしもセオドアの言うとおり、お母様がお父様とテレーゼ様の関係性について知らなかったのなら……。
もしかしたらお父様に嫌われていると思って、段々とお父様に対してどういう態度を取っていいのか分からなくなってしまったのかもしれない。
それと同時に、その言葉の中に『娘である私のことをもっと見てあげて欲しい』と、ほんの少しだけお父様のことを責めるようなニュアンスも混じっているような気がするのはきっと……。
セオドアが、どこまでも私のことを考えてお父様に言葉を伝えてくれているから、だと思う。
お父様に対しても、臆することなく率直に真っ直ぐ意見を伝えてくれるセオドアに……。
ジャンが再び凄く驚いた様子で『そんなことまで、お父様に伝えていいのか』と、焦った雰囲気を醸し出しながら言外に視線で訴えかけてきていたけれど。
お父様はセオドアの言葉を聞いて、虚を衝かれたというような雰囲気を醸し出しながらも、僅かばかり目を見開いたあと……。
「いや……多分、知っていた、と思うが……。
その、私自身、嫌われていたと思っていたから、必要最低限のことを告げるだけに留めていたというか。
どうしても会話が事務的になってしまって、お前の身体が弱いからテレーゼを第二妃にしたとは説明したんだが。
……まさか、そんな、きちんと伝わっていなかったなんてことがあり得る、のか……?
それに、私がしっかりとした説明をしていなくても、公爵が言っていないはずは……」
と、珍しく動揺を隠せない雰囲気でそう言ってくるものだから……。
私自身、お父様のその姿に驚いてしまった。
普段、断言した物言いが多いお父様にしては、明らかに『多分』だとか『思う』という曖昧な言葉が返ってくること自体が、異常だ。
もしかして、もしかしなくても、お祖父様は『お父様が、お母様にきちんと事情を伝えている』と思っていて……。
お父様は『お祖父様が、お母様にきちんと事情を伝えている』と思っていたとか、そういうことなんだろうか。
初めてお祖父様に会った時、お祖父様は、皇宮で皇后という大役を果たさなければいけないと決まっていたお母様のことを厳しく育ててしまったと後悔している様子だったし。
例え第二妃という立場であろうとも、自分の娘であるお母様よりも先に、テレーゼ様がお父様と結婚することになったのは、きっと、心中では複雑だったんじゃないかな。
勿論、お父様は、あらかじめ、お祖父様の許可を取っていたということだったし。
そこに、不義理はなかったんだと思うけど……。
お祖父様からすると、その口から直接、お母様にそのことを説明するのは憚られてしまったのかもしれない。
あぁ……、でも、例えお母様がお父様とテレーゼ様の関係を誤解していても。
今のお父様の発言を聞く限りでは、お母様はテレーゼ様が第二妃という立場に就く前からお父様に対して、徐々に物憂げな表情で接するようになってたってことだから。
そのことが原因で、お母様がお父様に対して距離を取った訳じゃないのかな……?
それとも、テレーゼ様のことも関係しているけど、それ以外にも何かお父様のことを避けたりしなければいけない事情などがお母様にあったのだろうか?
だとしたら、お母様には、“お父様から嫌われていると思うような誤解”が他にもあったのかもしれない。
そういえば、お祖父様はあのとき、お母様のことを『元来、気性が激しい性格だったのも災いしてか……』と言っていたけど。
お父様の話を聞く限りでは、お母様は小さい頃は、天真爛漫な雰囲気だったって言ってたよね?
その辺りの違いも気になる所ではあるけど、お母様自身ももしかしたら、私と同じで形のないものではなくて、形のあるものに固執してしまうほどに……。
――愛情に飢えていたりしたんだろうか……?
前に会った時も、本当はお母様にかけてあげたい言葉があったのに、言えていない様子だったことからも……。
お祖父様は早くに亡くなってしまったお祖母様の分も、と。
父親としてだけではなく『母親代わりも担っていた』と言っていたけれど、皇后にならなければいけないお母様を思って、必要以上に厳しく接していたことで普通の親子の関係とは言えなかったのかもしれないし。
お父様も不器用なところがあるから、婚約者として一緒に過ごしていく中で、お母様はお父様が従兄妹として自分を大事に思ってくれているとは思えなかったのかも。
実際にお母様が、過去にどう思っていたのかを知る手立てがない以上、全部推測することしか出来なくて、本当の所なんて、私には分からないんだけど……。
……そういえば、お祖父様とお父様は私のデビュタントの時にはもう和解した様子だったけど。
お祖父様とお父様の間では、お母様のことについては、一体、どういう話になっているんだろう。
確か、お父様がお祖父様に手紙で謝罪したんだよね……。
あのとき、どことなく二人の間には、お母様に対しての遺恨などは無さそうに見えたけど。
その辺りのことは今まで語られていなかったから、分からないなぁ、と思いつつも。
「お父様……、あの……」
と、私がお祖父様のことを聞こうと声をかけた所で、それまで動いていた馬車が急に動きを止めたことに気付いた。
……多分だけど、ブライスさんの邸宅に着いてしまったみたい。
お父様の視線はさっきまで動揺していた人と同一人物とは思えない程に、もうキリッとしていて。
皇帝陛下として、一国のトップに立つ者として、仕事の顔つきになっているのは、私から見ても直ぐに分かった。
「どうやら、着いたみたいだな」
そうして、視線で促されて、私はこくりと頷きながら、馬車から降りることにした。
久しぶりに外の空気を目一杯に吸い込んで、侯爵であるエヴァンズ家にも引けを取らないくらいの豪邸を見上げながら、お父様のエスコートで黒色のシックな門の前に立つ。
今日この夜会で、中央の行政を取り仕切っている五老星の人達全員に会うことになるのだと、ごくりと唾をのみこんでから……。
私はひとまず、お母様のことから気持ちを切り替えて、気を引き締めることにした。