356【アルヴィンSide】
流れに逆らうように人混みの中を、いつものペースで抜けていく。
今年もまた、国の平和を象徴するように開かれた『建国祭』を祝うために。
煌びやかに飾り付けられている王都での表通りの華やかさとは打って変わって、ゴミが散乱して、暗くじめじめとしたこの街の最下層に足を踏み入れれば……。
さっきまでの人の多さがまるで嘘かのように、一気に様相が変わってくる。
僕は最早、自分の庭と化したこの街を歩きながら、その権限の殆どを渡した男がいる廃れた教会へと足を進めた。
【嗚呼……、本当に、余計なことをする】
内心でそう思いながら、僕は小さく唇を歪めた。
いつものように、6番に見つからないように、認識阻害の魔法をかけ……。
イライラとした気持ちが抑えきれずに、教会の扉を開けて。
散乱とした瓦礫の上を敢えて音を立てながら、相変わらず何処へも行くことなく『守り人』のように、この場所に鎮座しているツヴァイの元へと行けば……。
僕の姿を確認したツヴァイは、どうして僕が怒っているのか気づいているだろうに……。
「……珍しいこともあるものだ。
そんなにも怒って一体、どうしたんだ、アイン……?」
と、わざと、すっとぼけた質問を此方によこしてくる。
「……どうして、アーサーに僕の後をつけさせたっ……!?
アーサーが今、どんな立場にいるのかは、碌に説明をしていなくてもお前なら分かっているだろう?
名前を捨てて生きていかなければいけない人間を、建国祭などという人の多い場所で、“諜報役”として使うだなんて判断が、まず、あり得ない……っ!
この間からそうだったけど……、スラムの人間に僕の後をつけさせて、僕の内情を探るようにするのなら、別にアーサーでなくとも、誰でも良かったはずだ」
……自分の口から出る言葉尻が、いつにも増して、強くなる。
これでアーサーの身元がまだ、天使……、あの子を含めて、シュタインベルクにあるということが知れ渡ってしまった。
そうなれば、何かの拍子で、現皇后の耳にも、もしかしたら入るかもしれない。
――死んだはずのアーサーが生きていると知られるのは不味い。
それはすなわち、僕の計画にも支障が出るかもしれないということを意味している。
どうしてそういう判断に至ったのかと、ツヴァイを批難するように、声を荒げれば。
「申し訳ありません。……アルヴィンさんっ。
ツヴァイさんに行かせて欲しいとお願いしたのは、俺だったんです……っ!」
という言葉が、アーサーから返ってきて、僕はちらりとアーサーの方へと視線を向けた。
一体、なぜ……? 何のために……っ?
『どうしてそんなことをしたのか?』と、憤りながら、視線だけで問いかければ……。
「その……っ、お、俺自身、本当は殺されなければいけないところ、アルヴィンさんに命を救って貰って……。
スラムでこうして匿ってもらっているのに、お役に立てていない状況が申し訳なくて……。
ツヴァイさんにも、いつも良くして貰っているので、その恩返しのつもりで……」
という言葉が、アーサーから降ってくる。
その言葉に、怒りで目の前が真っ赤に染まっていた僕も、ほんの少しだけクールダウンするように冷静になってきた。
「あの時……、僕は別に、お前のことを助けようと思って助けた訳じゃない。
あの女の用意した仕事に従うのは性に合わなかったから、適当に仕事を完遂したと、でっち上げただけだ」
……だからこそ、勝手に僕のことを、まるで救いの神かのように思われても困る。
更に言うのなら、それで恩返しをされるどころか、足を引っ張られるとは思わなかった。
これが、俗に言う飼い犬に手を噛まれるという状況なのか……。
別に僕は、便宜上、誰かに伝える時に他の言い回しを知らないからそう言っているだけで、アーサーの飼い主になった訳でもなければ、契約して雇い主になった覚えもないんだけど。
「……今日、お前がしたことは、僕の立場をも危うくさせてしまうものだ。
僕に感謝をしているのなら、なおのこと、お前が善意でやったことは僕の計画の邪魔でしかないことを知れ」
僕の強い言葉に、アーサーが申し訳なさそうな表情で俯いてしまった。
アーサーに非があるかどうかと言われれば、確かにアーサーにも非はあるだろう。
でも、それら全てを統括して、実際に判断した上で承認したのは、この街の権限を握っている№2を名乗るこの男の方なのだ。
「……まさかとは思うが、年老いて、耄碌したのか、ツヴァイ……?」
僕の問いかけに、ツヴァイはジッと此方を見ながらも、やがて、その口元をほんの少しだけ穏やかに緩めた。
……そこで、悟る。
「アーサーをわざと向かわせて、こうなることも読んだ上で……。
敢えて、僕を怒らせたのか……っ?」
何のために……?
と、言われたら、その答えは一つしか無い。
僕の内情を探るために、敢えて普段とは違うことをして、いつもの日常から変化を起こさせたと言うことだ。
ぎりっと、小さく歯がみする。
年老いて衰えるどころか、過ごしてきた人生経験や“くぐり抜けてきた修羅場の数”で、この男はここで生きていくために、あまりにも知恵をつけすぎている。
歴代のツヴァイの中でも、群を抜いて、優秀すぎるが故に……。
「……仕方がないだろう?
アーサーもお前さんに律儀に忠誠を誓って、碌に自分の境遇に関しては口を割ろうとはしないし。
お前さんも、また、最近の動きに関しては一向に儂に詳しい説明もしてこない。
それどころか、突然の仕事を此方に全部丸投げしてきては、尻拭いだけさせてくる始末だ。
だが、アーサーとお前さんの間で、“あの女”という第三者の存在を知れたのは僥倖だ。
お前さんが“誰かの元”で勝手に動いているという情報もな……っ!
こうでもしないと、お前さんが今、何を考えて、どういう動きをしているのかも、儂には碌に分からないからな」
「……狸親父め……」
ツヴァイの言葉に、分かりやすく僕は眉を寄せながら、抗議をするように声を出した。
そうすれば、口角を上げて、小さく笑みを溢していたツヴァイが、一転、真剣な表情になって、僕のことをジッと見つめてくる。
「お前さんほどでは無いが、儂ももう、あまりにも長い年月を生きてきている。
この人生で培ってきたものは幾つかあるが……。その一つが、絶対的な、勘だ。
アイン、お前さんの、この無秩序で混沌とした街を、一つに纏め上げるという、その手腕は本当に大したものだと儂は思う。
お前さんの監視システムのお陰で、この街で生きていれば、日常とも呼べる問題事や諍いにいち早く気づいて対処することが出来るからな。
……だが、それだけでは、決して、人を従順には動かせない。
コインに裏と表があるように、基本的に、この世の中の全てには裏と表が存在している。
それと同時に、儂らはお天道様には決して顔向け出来ない生き方を自ら望んで選んでいる。
儂らが、この汚い掃きだめのような場所に存在することで、表は今日も煌びやかに毎年行われる祭りを通常通り開催して、賑やかに平穏を保ってる。……違うか?」
そうして、ツヴァイから降ってきた、あまりにも長ったらしくて、回りくどいその言葉に、僕は小さくため息を溢した。
その言葉の意図が、分からない訳じゃない。
寧ろ、この責任感の強い男がこの街を愛しているからこそ、その発言が出てきたことを僕は誰よりも知っている。
それから、ツヴァイの言う『勘』というものが、決して馬鹿には出来ないものだということも。
「裏と表は共存することが出来ると儂は思う。……だが、決して混ざり合ってはいけないものだ。
裏が正常に機能していることで、表もまた、正常に機能していることを忘れてはならぬ。
掃きだめと呼ばれるこの街は、行き場を無くした人間が、最後に行き着く場所だ。
……それを、最近のお前さんはどうだ……?
ルーカスと接触し、挙げ句の果てには、ジェルメールという高級衣装店にその身分を隠して勤務しながら、この国の皇女様と仲を深めている。
このスラムを取り仕切っている裏の番人が、表と関わりを持ち始めたのは、一体何が理由だ?
儂の勘が、あまり良くないことが起きるんじゃないかと、ずっと告げている……。
最近のお前さんの動きは、以前にも増して、あまりにも目に余る。
儂らの平穏を脅かすような真似を、もしもお主がするつもりなら、幾らNo.1という立場であろうとも放置するようなことは出来ぬ」
そうして、今度はさっきと立場が逆になって、批難めいた視線で僕のことを見てくるツヴァイに、僕は、ほんの少しだけ先ほどまでの怒りに関しての溜飲を下げてから……。
はっきりと、ツヴァイに向かって向き直ると、声を出した。
「僕を怒らせて、平時と変わったことをして、その反応を見ようとしても無駄だ。
……僕の邪魔をするのなら、ツヴァイ、幾らお前であろうとも、……次はない」
いつもよりも、ただ冷淡に、最終通告のようにそう伝えれば。
ツヴァイは僕を見ながら……。
「それはもう、儂は、お前さんにとっては用済みということか……?」
という言葉を返してくる。
怒っている訳でもなく、ただ冷静に、真っ直ぐ此方を見返してくるその瞳の強さに……。
オロオロと一人、僕たちの間で、どうすればいいのかとアーサーが戸惑うのが見えた。
「お前が死んでも、ツヴァイの名は残るだろう。
……そうなれば、人を変えても、システムは形を変えることはなく、この街はまた、いつもと変わらずに機能する。
だけど、僕はお前のその優秀さも含めて買っている。
僕の邪魔さえしてこなければ、老い先短いお前の寿命までは確実に生きられる」
そうして出した僕の言葉に、暫く双方、見つめ合ったまま、一向に動きを見せなかったけれど、最終的に折れたのはツヴァイの方だった。
僕から視線を外し『ここまで儂が言っても、何も教えてはくれないのか……』と落胆したような口調でそう言って、肩を落としたあと……。
「……そうか。
儂が死んでも、この街はまたいつもと変わらず機能する、か。……本当に、そうなれば良いがな」
と、声を出してくる。
……心の底から、本当に、そう思っているのだろう。
僕から目を逸らしたツヴァイは、僕に対して自分の有能さを証明しようとそう言っている訳ではなく、この街がもしかしたら無くなってしまうのではないかという方を懸念している。
イコールして、それは『何かしでかすんじゃないか』と、僕のことをまだ疑っているということだ。
「この街は、お前が生きているうちは無くならないだろう」
「……っ、! アイン……っ!!」
「……未来なんて、本来は、誰にも分からないものだ。
僕が作った監視システムだって、これから先の未来でも、永劫、機能するとも限らないだろう……?」
「それは、お前さんが作ったこの街を、お前さんの手で壊すことはないと……、信じてもいいということか?」
僕の言葉の裏を勝手に深読みしようとしながら、此方を見てくるツヴァイに、僕はこくりと頷き返した。
「裏も表も、表裏一体、だ……。
どっちが、表で、どっちが裏かなんて、世界の歴史を見れば分かるだろう?
いつだって、勝てば官軍、負ければ賊軍で、……この世界は常に強い者に支配されている。
戦う術を持たない弱者はただ、食い物にされてしまうだけだ……」
そうして、僕の言葉に、どういう意図があるのかと、ツヴァイが訝しげに眉を寄せてくる。
だけど、スラムで長いこと暮らしてきたこの男にも、その言葉の意味は身にしみて分かっているだろう。
長年、自分が生きるためには、誰かを裏切ることも辞さないような汚泥に塗れた土地で暮らしてきているのだ。
そこにあるのは、当然、誰もが美しいと思うようなキラキラと光り輝くものではない。
生きていくための知恵をつけねば、欺瞞に満ちたこの街では、誰のことも信じられずに、疑心暗鬼に陥って、何も持たない者から自然に淘汰されていく。
「このスラムでも、全体を纏め上げて統治するのには、それなりに時間がかかった。
……上に立つ人間が、必ずしも弱者を守るための聖君だとは限らない。
だけど、お前が生きている間は、上手くこの街を纏め上げられるだろう」
……僕なりに、この街には少なからず愛着がある。
僕がいなくなったとしても、ツヴァイならこの街を上手く纏め上げることが出来るだろうし。
仮に、今代のツヴァイが死んだとしても、新たなツヴァイがこの街を纏め上げてくれるだろう。
そうして、どれくらい繁栄するかは分からないが……。
形あるものはいつか崩れて無くなってしまうように、もしかしたら僕の作った監視システムも、やがては機能しなくなる日がくるかもしれない。
――そうなるのは、余程のことがない限り、大分先のことになるだろうけど。
「少なくとも、これから先、僕はこの街には関与しないと約束をしよう。……後はお前の好きにしたらいい」
……敢えて話の本筋を明後日の方向へと逸らしつつ。
ツヴァイの本当に気になっているであろう問いにだけ、答えられるように声を出せば……。
偏屈なツヴァイのその顔が、みるみるうちにしかめっ面になったのが目に入ってきた。
「……儂の、好きにしたらいいだと……?
一体、お前さん、何を考えているんだ? まさかとは思うが、この街から、消えるつもりか……!?」
そうして、一つ答えたからもう充分だろうと判断した僕は、ツヴァイのその問いかけに答えることなく、その言葉を自分の意思で無視したあと……。
「あ、そうだった……。
さっき、お土産でドーナツを買ってきたから一緒に食べることにしよう」
と、はたと思い出して、自分の手に持っていたお土産をツヴァイに手渡した。
僕のその言葉に、前のめりになって怒っている雰囲気だったツヴァイの瞳がぎょっとして、今、向けていた怒りの矛先をどこに向けていいのか分からない様子で、毒気を抜かれた感じになってしまったあと……。
「……ドーナツだと。……そんなもので、この儂が釣れるとでも思っているのか……っ?」
と、信じられないようなものを見る目で、そう言ってきて、僕は小さくため息を溢しながら、アーサーの方へと視線を向けた。
全く、年を追うごとに面倒くさい爺さんになってしまって…。
少しは、僕の苦労も知ってほしい。
「食べないなら、僕とアーサーだけで食べるから、別にツヴァイは参加しなくても良いんだけど」
はっきりとそう伝えれば、怒っていた様子だったツヴァイが『ドーナツには罪はないからなっ……!』と此方に向かって吠えるように声を出してくる。
結局、食べるのなら最初から怒らなければいいのに……。
必要以上に無駄なエネルギーを使ってしまうだけで、あまりにも効率が悪いと思うんだけど。
人間とは本当に、無駄なことが好きな生き物だ。
「アルヴィンさん、その……、これから先のこと……、俺は」
そうして、多分だけど、僕の唯一の失態は、成り行きとはいえ、必要以上に、アーサーに情報を与えすぎたことかもしれない。
アーサー自身にも勿論、伝えていないことは沢山あるから、それで僕の動向が気になったというのも、今日の建国祭で僕たちの後をつけてきた理由の一つでもあるのだろう。
僕自身、この先、一体、どうすればいいのかなんて、カウンセリングは一切受け付けていない。
自分の行く先は、常に自分で決めるものだ。
それは、僕も、ツヴァイも、そしてアーサーも、等しくみんなそうであるべきだと思っている。
無言でドーナツを頬張っていたら、やがてアーサーも、まだ何か言いたげなツヴァイも僕に話しかけるのは諦めたらしい。
人間が生み出した唯一の功績は、食べ物が美味しいことくらいじゃないだろうか。
僕たちにとってはただの嗜好品でしかないけれど、美味しいものを生み出すための飽くなき探究心には目を見張るものがある。
……だけど、人間の性質は僕たち精霊とは真逆のものだ。
この薄汚れた世界の中で、僕は途轍もない時間、たった一人、嫌というほど目の当たりにしてきた。
赤を持っているというだけで、僕の唯一である、マリアがされてきたあまりにも理不尽で残酷な仕打ちも……。
僕の子供たちとも呼べる精霊が、たった一人の契約者を見つけて暮らしてきた、誰にも迷惑をかけていない、その何の変哲もない幸せな日常を、振りかざした正義の名の下に、目の色を変え迫害し……。
自分たちが生きるためなら、住みやすい場所にするためなら、自然を破壊して、動物の住処でさえも奪い尽くして。
――相容れない存在は、邪魔だと差別して、敵意をむき出しにしてくる……、その傲慢さも、全て。
……まるで昨日のことのように思い出し、心の中が、真っ黒に染まってしまいそうになる。
その度に、マリアの幻影が、僕のことを救い上げてくれた。
急激に味のしなくなったドーナツに小さくため息を溢し、僕は仕方なく、歯形のついた自分のドーナツをツヴァイに押しつけることにした。
「オイ、食べかけを儂に寄越してくるんじゃないっ……!」
呆れたような口調で此方を見てくるツヴァイのことをスルーしながら、僕は今日、わざわざ自分から会いに行ったアリスのことを思い出す。
【アリス……。……僕だけの天使。
きっと、もう、君は、気づいているだろう……?
自分の能力の有用性と、その本質に……】
声にならない声は、口の中で音にならずにかき消えて……。
今度、また会う時は、必ず……と、最後にアリスに言いかけてやめた言葉の続きをぽつりと、心の中で溢す。
【今度、また会う時は、必ず、……君のことを迎えに行く】
僕が心の底から待ち望んだその日が来るのも、……もう間近に迫っていた。
そうして、同様に、僕がこの慣れ親しんだスラムから離れることになるであろう日も、また……。