343 漠然とした不安感
「う、うわっ……!
お、お前っ……! とっ、突然、控え室から出てくるなよなっ……!
びっくりしただろうが……っ!」
そうして、ギゼルお兄様と視線が合ったと思ったら……。
その瞬間に、直ぐさま距離を取って、私のことを物理的に思いっきり避けたあと……。
むっつりとしたような険しい表情でそう言われてしまって、私は思わず落ち込みながら、シュンとしてしまった。
――たまたま、控え室から出るのが被ったからって、そんな風に言わなくてもいいのに。
ギゼルお兄様には、嫌われていると分かってはいたけど、前に私のデビュタントの時に謝ってくれたし……。
そんなはずがないのに、心の中で、少しでも仲良くなれるかもしれないという、淡い期待が自分の中に僅かばかり生まれてしまっていたのかもしれない。
お兄様から“何かを言われること”に関しては、日常茶飯事のことだったから、慣れているはずなのに、何故か今日は、いつもに比べて、一段と傷ついてしまう。
まさか、目が合っただけで、ここまで、あからさまに嫌がられるとは思ってなかったし、それだけで、心が折れそうというか……。
凄く悲しくなってきて……。
「あ、あの……、ごめんなさい」
と、思わず、反射的に口をついて、謝罪の言葉が出てきてしまった。
そうして、とりあえず、お兄様が例え、私と一緒にいるのが嫌だとしても。
これから先、少なくとも今日一日中、ずっと一緒に行動しなければいけないことを思えば……。
なるべく、『これ以上、ギゼルお兄様の逆鱗に触れないように、距離を取って過ごした方が良いのかも……』と、私もギゼルお兄様から、そっと距離を取ると……。
「あっ、いやっ、ち、ちがっ……! だから、そうじゃなくて……っ。
あー、もうっ……! とりあえず、危ないから気をつけろ……っ!
……ほら、万が一にでも、ぶつかると、そのっ……。
お、お前もっ……、怪我をするかもしれねぇだろうが……っ!」
という予想外の言葉がお兄様から返ってきて、私は思わず顔を上げてキョトンとしてしまった。
【あ、あれ……、?
今、お兄様の口から私が怪我をするかもしれない、って、心配してくれるような言葉が出てきたり、した……?】
――もしかして、怒ってた訳じゃないのかな……?
一瞬、私の聞き間違いだったのかもしれない、と思いながら、目をぱちぱちとさせたあと、改めてお兄様の方を凝視すれば……。
「オイっ……!
お前、何、俺のことを、ジッと見つめてきてるんだよ……っ!
いいか……っ!? お前は、今日、俺の半径一メートル以内には、絶対に近づいてくるなよ……!
あと、人の目を三秒以上見てくるのも禁止だっ!
お前が近くにいるってだけで、ざわざわするっていうか……っ、俺の心の中が思いっきり掻き乱されるんだよ……っ!」
と、続けざまに、そう言われて……。
何て言えばいいのか、分からないんだけど……。
優しい言葉をかけてくれたかと思えば、急激に冷たくなるという、その緩急の付け方に全くついて行けずに、私は思いっきり戸惑ってしまった。
そんなことを言われても、実際、開会式になれば『隣同士の椅子』に座らなければいけないのは勿論のこと……。
パレードだって、どうしても、お兄様と必然的に近くなるようなタイミングも出てきてしまうと思う。
だから、それは流石に無茶ぶりというか、不可能だと思うんだけど……。
「あ、あの……、私自身、ギゼルお兄様に嫌われていることは、分かっていますし……。
なるべく、お兄様のご迷惑にならないよう気をつけるので。
開会式やパレードの都合上、お兄様と仕方なく距離が近づいてしまった場合は、許して頂けますか……?」
――今日一日のことを考えれば、どうしても、近づいてしまう時は出てしまうと……。
なるべく、突然降ってきた“お兄様の言い分”を何とか自分の中で落とし込んで……。
当たり障りのないように気を遣いながら、今、自分に出来る精一杯のことを伝えると。
「……ッッ、! あ、っ、あぁ、そ、そうだよな……っ!
それについては、仕方がないもんな……っ!
あ、あと……、その……っ、勘違いするなよっ……、!?
別に、俺は、お前のことが嫌いだから、そう言っている訳じゃなくて……っ」
と、もごもごと、思いっきり口ごもってしまったお兄様から言葉が返ってきて。
その言葉が上手く聞き取れずに、私は思わず首を横に傾げてしまった。
『それについては、仕方がない』と、言ってくれた前半部分に関しても、“勘違いするなよ”と、言われた部分も辛うじて、私の耳にはきちんと届いたんだけど。
最初の勢いは何処に行ったんだろうというくらい、お兄様があまりにも、後半にかけて声を小さくしてしまったこともあって、どうしても、聞き取り辛くなってしまい……。
「お兄様、ごめんなさい。
勘違いするなよ、と言われた後の言葉が上手く聞き取れなくて……。
良ければ、何て言ったのか、もう一度、教えて頂けませんか……?」
と、私はギゼルお兄様に向かって問いかけるように声を出した。
さっきまでの話の流れで、なるべく、今日一日、ギゼルお兄様とは関わらないようにした方が良いんだろうなということは把握したものの。
流石に、言われた内容を聞き逃してしまっていると、もしかしたら今度はそのことで、『さっき言っただろう……っ!』という話になって、お兄様を怒らせてしまうことになるかもしれないし。
申し訳ないと思いながらも、おずおずと、聞き返せば……。
「あぁ……っ、えっと、だから、その……。
あぁっ、クソっ! そんなもんっ、……!
もう一度だなんてっ、小っ恥ずかしくて言えるかよ……っ!
っていうか、アレだっ! ……そのっ、……俺のっ、心の……っ、!
心の準備が、まだ整ってないからっっ……!
だから、今日はなるべく、俺に近づくなって言ったんだ……っ!」
と、吠えるようにそう言われて……。
私は、あまりにもお兄様の言っている内容の意味が分からなさすぎて、ポカンとしてしまった。
『お兄様の心の準備が必要……』って、一体、どういう意味なんだろう……?
さっきの話から、いきなり、話が飛躍しすぎているような気がして……。
私がお兄様に近づくのと、お兄様の心の準備が整うことに、一体何の関係があるのか分からず。
どれだけ思考を巡らせてみても、その理由に今ひとつピンとこないまま、1人、戸惑っていると……。
「ギゼル、それだと、お前の言いたいことの半分も、アリスには伝わらないだろう?
焦るなとは言わないが、交流を持つつもりがあるなら、出来るだけもう少し柔らかくなるよう“他に言い方”を考えてみろ……。
あと、そこの犬っころ。
……お前はさっきから、なるべく首を突っ込まずに見守ろうと努力してるのは、伝わってくるが。
少しは、あからさまに眉を寄せて不機嫌になるその表情を、自分でも何とか出来るようにコントロールする努力をしておけ」
と、私達の様子を見かねたのか、ウィリアムお兄様が仲裁に入ってくれるような形で割り込んでくれた。
そうして、ウィリアムお兄様にそう言われて『一体、どんな顔をしていたんだろう……?』と不思議に思いながら、セオドアの方へと視線を向けてみたんだけど……。
私が視線を向ける頃には、セオドアはもう、いつも通りに戻っていて。
私からは、セオドアがどんな表情をしていたのかは結局、分からずじまいだった。
「……例え、そこに、どんな理由があろうとも。
敬愛している自分の主人が、誰かに強い言葉で否定するように近づくなと言われてたら、従者としては身を引きちぎられるような思いになるのは当然のこと……、でしょう?
デスガ……、皇太子様ノ、有リ難イ、オ言葉ニ、感謝シマス」
「オイ。……突然何なんだ、その取って付けたような片言の敬語は……」
そうして、セオドアの言葉に、呆れたような溜息を溢したウィリアムお兄様が、そのあと、片眉を吊り上げ、ほんの少しだけ驚いたように目を見開きながら……。
『お前……っ』と、小さく声を出して、セオドアの方を、マジマジと凝視してくるのが見えた。
私自身、セオドアに対しての“贔屓目”は、多少入っているかもしれないけれど……。
どうしても、頭の中で考えてしまうと、片言になってしまうという欠点はまだあるものの、文法に関しては間違っていないから、一緒に敬語を練習した特訓の成果が、少しずつ出てきていると思う。
きっと、ウィリアムお兄様もセオドアが片言ではありつつも、きちんと敬語を喋れていることにびっくりしたんじゃないかな。
――あれ……、? だけど、可笑しいな……?
【私と練習をしてた時は、片言でも、もっと気持ちがこもってた気がするんだけど。
練習したあとに、私以外の誰かに敬語を使うのは初めてだから、もしかしたら緊張しちゃったのかな……?】
内心で、そのことを不思議に思いながらも……。
セオドアが外に出た時に、少しでも困らないようにと始めた敬語の練習が、ちょっとずつでも実になって、上手くいっていることに私はホッと一安心する。
ウィリアムお兄様は、有り難いことに普段はあまりそういうのを気にしない人だけど。
こういう、テレーゼ様や従者達など、他の人の目もある公の場だと、やっぱり、どうしても敬語で話さないといけない場面も出てくるから……。
出来ることなら、話しておけるに越したことはないはず。
「……全く、嘆かわしいことだ。
そろそろ、開会式の本番が始まるというのに、まるで緊張感の欠片もなく……。
ギゼル、そなた、斯様な場所で、1人騒いで、一体、何をしているのだ……?
皇族たるもの、ウィリアムのように、常に規律正しく、誰にも恥じぬような姿で在らねばならぬ。
そなたには、今までにも、私の口が酸っぱくなるほど伝えて来た筈だが、もう忘れたのか?」
そうして、私達の会話を見て……。
ぴしゃりと、厳しいような……、ほんの少し冷たい声色で、テレーゼ様がギゼルお兄様に苦言を呈してきた瞬間。
この場が一斉に、水を打ったように、シーンと静まり返ってしまった。
「申し訳ありません、母上。
……皇族の一員として、以後、気をつけるように致します」
その言葉を聞いて、さっきまでの表情を掻き消して、真顔になったギゼルお兄様が、一瞬だけ身体を強ばらせながら、テレーゼ様の方へと謝罪をするのが見えて……。
私も慌てて、その場で思いっきり頭を下げた。
「あ、あの……、テレーゼ様。
ギゼルお兄様だけではなく、私も一緒に喋っていましたし……、本当に、申し訳ありません。
公の場で、皇族としての在り方としては、正しくなかったと思います……っ」
それから、ギゼルお兄様だけではなく、お兄様と一緒に喋っていたことで、これから本番なのに、緊張感が足りていなかったことを、改めて、私もテレーゼ様に向かって謝罪すれば……。
一度、私に視線を移してくれたテレーゼ様が、持っていた扇を開いて口元をそっと隠し、ほんの少しだけ目を細めたのが見えた。
そうして、一瞬出来た、空白の時間に、緊張感が漂ってきて……。
怒っているのか、呆れているのか、それとも何とも思われていないのか……。
テレーゼ様の“その反応”からは、窺い知ることが出来なくて、私は、無駄にドキドキしてしまう。
「母上。……もしも、ギゼルが悪いというのなら、一緒になって話をしていましたし、そういう意味では俺も同罪です。
ですが、例え公の場であろうとも、まだ、開会式本番が始まっている訳ではなく、今、この場には自分たちの身内しかいません。
……お互いの親睦を深める意味でも、俺は、どんなに他愛のない雑談にも意味があると思っています。
時間的に、そろそろ、父上も来る頃ですし、俺たちの話を止めるということなら、母上の行動は正しいと感じますが。
わざわざそのように、目くじらを立てて怒るようなことでもないでしょう?」
それから……。
ウィリアムお兄様が、さらっとテレーゼ様に向かってそう言って、その場を収めようとしてくれると……。
「そなたは、本当に弟思いの、よく出来た兄だ。
ギゼルを止める為に仲裁に入っただけであって、別に、そなたは初めから騒いでなどいないであろう?
だが……、他愛ない雑談にも意味がある、か……。
ウィリアム、そなた、一体、いつから、そのようなことを言うようになったのだ?
陛下は、無駄なことを嫌う御方。……そなたも、陛下の後ろ姿を追って、常に正しくあろうとしていたはずだが……」
と……。
テレーゼ様は、その言葉に、あまり納得することが出来ない雰囲気で、低い声で問うように、お兄様にそう言ったあと。
チラリと、横目で私の方を一瞬だけ見てから……。
「……まぁ、今は、そのような事を議論した所で、詮なきこと。
私も、このような場であまり口煩いことを言いたい訳ではないのでな……。
晴れ晴れしい建国祭のこの善き日に、そなた達が、陛下が来る前にしっかりと体裁を整えて、開会式に臨めると言うのであれば、それで良い」
と言いながら、バッサリと、話を打ち切ってしまった。
もしかして、今は名実ともに皇后の立場でもあるから、こういう時、お父様に代わって自分が注意しなければいけないと思ってくれたのかな……?
それにしては、何だか、ウィリアムお兄様に向ける視線と、ギゼルお兄様に向ける視線にどこか違いがあるような気がして……。
私は思わず、自分が感じた違和感に首を傾げてしまった。
私自身、普段、あまりテレーゼ様とギゼルお兄様との遣り取りに関しても、テレーゼ様とウィリアムお兄様の遣り取りに関しても見ることがないから、一概には言えないんだけど……。
何て言うか、テレーゼ様が、ギゼルお兄様に対して、特に厳しくて、冷たかった気がするのは、私の気のせいなのかな……?
「随分と賑やかだな……?
お前達、一体何の話をしていたんだ……?」
そうして……。
上手く言葉には出来ないけど、テレーゼ様がギゼルお兄様に向ける態度に、どことなく漠然とした不安感を抱いていると……。
私達がいた別の方向から、聞き慣れた、威厳のある声が聞こえてきて……。
私は振り返って、その姿をはっきりと視界に入れる前に、慌ててドレスの裾を摘まみ上げ、カーテシーを作ると、その場で頭を下げた。