330 マイペース人間
いつもの見慣れたジェルメールのスタッフさんの口から、唐突に聞こえて来た『Si Belles』というお店の名前には、私自身、辛うじて聞き覚えがあった。
確か、ジェルメールと同様に、巻き戻し前の軸でも凄く有名な高級衣装店だったと思う。
シベルというその言葉は、他国の言葉で『とても美しい』という意味を持つんだったはず。
私自身は、実際に一度もお世話になったことはないんだけど。
もしかしたら、巻き戻し前の軸では、ジェルメールよりも人気だったかもしれないと感じるくらいに、貴族の令嬢達がこぞって、足繁く通うと有名だったお店だ。
――そこのデザイナーさんが、わざわざジェルメールに、敵情視察にやってきたんだろうか……?
この間、近隣店舗に出来て潰れたという詐欺まがいのお店とは比べものにならないくらい、王都でも指折りのお店だと思うし。
そういう意味でいうのなら、ジェルメールとは確かに、本当の意味での正当な『ライバル関係』に匹敵すると、感じるんだけど……。
その辺りの『相互関係』が今ひとつ把握出来ていないながらも、スタッフさん達の間に一気に緊張感が走り、普段、落ち着いた雰囲気で和やかなジェルメールの店舗内が、今はどこかピリピリとしていて。
その様子から、ただ事ではないかもしれないと、思わずハラハラと、勝手に心配する気持ちが湧き出てきてしまった。
「状況に関しては、把握したわ。
私が表に出るから、他のスタッフは、今すぐお客様の接客に戻って頂戴。
いいわねっ? どんなときも、みんな“いつも通りの笑顔”で、お客様に対して失礼がないようによっ!」
そうして、グッと、一度息を呑み込んでから。
普段の明るさが微塵にも感じられないほどに、珍しく、どこか疲れたように『はぁーっ……』と、深いため息を溢したあと。
直ぐに、切り替えて、いつも通りのシャキっとした仕事の時の表情に戻り……。
ジェルメールのデザイナーさんが、パンパンと2回手を叩いて、周囲の視線を自分の方へと向けさせ、スタッフさん達を鼓舞するように一声かけて、スタッフルームから出ていったのを見送って。
私は、この部屋に残っていた人達と『気持ちを共有』するように、互いに困ったような表情で顔を見合わせた。
【とりあえず、状況が落ち着くまで……。
私達は、この部屋で待機していれば、それでいいんだよね?】
シーンと、一気に静まり返った室内に、誰一人、何も言葉を発しない中で。
「あ、あの……っ、僕は一体、どうしたらいいんでしょうか?」
と……。
一瞬だけ訪れた“静寂”を打ち破るように、オロオロしながら“声”を上げたのは、新人のスタッフである緑色の髪の青年で……。
「あぁ……っ。
えっと、さっきは焦っていて、碌に事情も説明しないまま、あなたにヴァイオレットさんを呼びに行かせてごめんねっ!
それで、申し訳ないんだけど、既存のスタッフは、店内にいらっしゃるお客様の対応もしなければいけなくて、新人のあなたに構ってあげられるほどの余裕はないの……っ!
確か、今日はまだ、休憩に入っていなかったはずよね?
お客様を放置する訳にはいかないのは、当然、仕事の取引先である相手に対しても同じこと。
休憩と仕事が混ざったような感じになってしまって、本当に申し訳ないんだけど。
本来なら、お帰り頂く予定だった皇女様や皆さまが退屈しないようにお茶を出してから、あなたもこのまま休憩に入ってくれたらいいわ……!」
そうして、彼の言葉に、この場の状況を直ぐに察して“的確な指示”を出したのは、普段から私も見慣れている『ジェルメールの、古参のスタッフ』さんだった。
それから……。
直ぐに、私達の方に軽くお辞儀をしてから……。
「皆さま、慌ただしくしてしまい、本当に申し訳ありません。
直ぐに、ウチのスタッフにお茶を用意させますので、どうぞごゆっくり、おくつろぎ下さい」
と、簡潔に最低限のことだけを伝えて。
デザイナーさんの後を追うように、スタッフルームを出て行った彼女を見送って。
【凄くテキパキしていて、流石は、ジェルメールで働くスタッフさんだなぁ……】
と、私は思わず感心してしまった。
今日、お店で働いている従業員のうち、誰が休憩を取っていないのかも含めてだけど。
多分、店内にいるお客さんに応じるスタッフについても、しっかりと“フロア全体の人数”を把握することが出来ていないと、こうして直ぐに新人さんに対して、休憩の指示は出せないと思う。
特に、今回みたいに、イレギュラーとも思えるような“突発的な事案”に関しては、スタッフの対応について、マニュアルが徹底化されている訳でもないだろうし。
ましてや、自分よりも立場が上の人の指示を仰ぐこともなく、状況に応じて直ぐに判断出来るのだから……。
デザイナーさんだけではなく、改めて『ジェルメールで働くスタッフさん全員が、仕事に対する意識を高く持っているんだろうなぁ……』と感じる出来事だった。
私自身も皇女という立場だから、年齢なんかは関係なく、これから先、公務をしなければいけないことも必然的に増えてくると思うんだけど
例え業種や立場が違っても、“丁寧な仕事ぶり”というのは見ていて本当に気持ちがいいもので。
『誰かの仕事に対する姿勢』みたいなものを垣間見ることが出来ると、その立ち回りも含めて本当に勉強になることの方が多い。
【私ももっと、彼女達のことを見習って、皇女として頑張らなきゃ……】
ジェルメールのデザイナーさんと、古参のスタッフさんが部屋から出て言ったあと、1人、彼女達の働く姿勢を痛切に感じていると。
この部屋に取り残されてしまった、緑色の髪をした新人のスタッフさんが……。
どこか気まずそうな雰囲気を漂わせながら、此方に視線を向けてくれたのを感じて、私も、意識を引き戻すように彼の方へと視線を向けた。
「皆さま、ごめんなさ、……あっ、えっと、申し訳ありません。
今直ぐに、僕が人数分、お茶をご用意しますね」
そうして、まだまだ働き始めたばかりということも影響しているのか。
デザイナーさんや、古参のスタッフさんの仕事ぶりとは比べものにならない初々しい感じで、敬語にもあまり慣れていないのか。
どこか、たどたどしくそう言ったあとで。
目の前の新人さんが、ふと、何かを思いついたかのように、目を大きく見開いてから、ほんの少しだけ慌てた様子になって。
「あ、っ……でも、駄目だなっ。
そもそも、紅茶なんて淹れている場合じゃないんじゃ……っ、!?
えーっと、こういう場合って、そのっ、どうしたらいいんだろう……?」
と、半ば独り言のような、困ったような声を出してくるのを聞いて……。
私は、彼のその態度を不思議に思いながら首を傾げた。
「あの……、どうかされましたか……?
何か、仕事の面で、判断に迷うようなことでも……?」
そうして、もしかしたら、新人さんだし……。
何か判断に迷うようなことでもあったんだろうかと、不安になりながら、私は彼に向かって声をかける。
仮に、仕事をする上で、もしも、何か判断に迷うようなことがあったのなら、ジェルメールのスタッフではない私達には当然、応えることは出来ないし。
そうなってくると、一度、働き慣れているスタッフさんを呼びに行った方がいいという結論になってくる。
その辺り、どうすればいいかの判断は『早ければ早いほど良いんじゃないかな……』と思いながら、質問をすれば。
目の前の新人さんは、どこか焦りが感じられる表情のまま私を見たあとで、ほんの少し躊躇うような仕草をしてから……。
「い、いえ……。
あの……、余計なお世話をするようで、申し訳ないのですが。
そのっ、シベルのデザイナーというのは、こういうお店で働いている人間なら誰しもが知っている、ウチのデザイナーであるヴァイオレットさんと肩を並べるくらい有名な人なんです。
えっと、その人が、建国祭に向けて、僕達のお店に敵情視察に来たのなら……。
その……、皇女様にも、関係がある話なのではないかな、と思いまして」
と、おずおずと困ったようにそう言ってきた。
余計なお世話というのは、もしかしたら『差し出がましいことを言うようで』って言いたかったのかな……?
彼の口から出てくる敬語に、何て言うかちょっとだけ、ちぐはぐな違和感を感じつつも。
何となく纏っているオーラで、その全てが許されてしまうような雰囲気を持っている不思議な人、という感覚を抱きつつ。
突然言われた“その説明の意味”が直ぐには理解出来なくて……。
咄嗟に、彼の視線と同じように、私自身も困ったような表情になってしまったのが、隠すことも出来ずにバレてしまったのか。
「あ……っ、いえ……!
あ、あのっ、全然……、そのっ……、問題がないなら良いんですけど。
今回、建国祭に出す衣装に関しても、皇女様とヴァイオレットさんの共同で作るもの、なんですよね……?
それにファッションショーで、モデルとして登場するのも皇女様で。
今回の建国祭のファッションショーには、関わりが凄く深いと聞きました。
でしたら、皇女様は、何かあった時の為に、今回うちの店に敵情視察に来たというシベルのデザイナーと、ヴァイオレットさんの話を出来るだけ聞いていた方が、良いのかな、って……。
えっと、ごめんなさい。……全部、僕の勝手な判断なんですけど」
それから、とつとつと、不慣れな敬語を使いながらも。
より詳細に、自分の思ったことについて説明してくれる緑色の髪をした新人さんの言葉にびっくりしつつ。
私自身、そこまで考えられていなかったけど……。
『確かに、彼の言っていることも一理あるかもしれない』と思ってしまった。
私達が建国祭のファッションショーに関わる以上は、一応、ライバル店っぽいシベルのデザイナーさんと、ジェルメールのデザイナーさんの相互関係については、把握しておいたり……。
どうして、今日、わざわざシベルのデザイナーさんがジェルメールにやってきたのかなど、その事情についても、ある程度、分かっておいた方が良いのかもしれない。
……だけど、何となく、勝手に、盗み聞きする訳にもいかないと思うから。
その辺りの判断に関しては本当に難しいな、って思うんだけど。
彼の言葉に、私が1人、眉を寄せて、どうするべきか凄く迷った表情を見せたことで、不安に思われてしまったのか……。
「あ、あのっ……!
や、やっぱり、ちゃんと、聞いておいた方が良いと思いますっ……!
僕では、きちんとした判断がつかないですし。
先輩のスタッフはみんな接客中で、それどころじゃないから……っ!
万が一、それで、僕の判断が間違ってれば、僕が怒られるだけで済みますけど。
本来、聞いていた方がいいことを、聞き逃して、取り返しのつかないことになってしまうのは心苦しいですし、僕には責任が負えないので……っ!
お、お願いですっ……! こっそり聞いていれば、きっと、誰にも見つからないと思いますし。
皇女様、僕のことを助けると思って、一緒に来て貰ってもいいですか……?」
と、もの凄く切羽詰まったような、まるで捨てられた子犬のような顔をされて……。
その表情に、『なんだか、私自身がもの凄く悪いことをしているみたい』と、ギュッと胸が痛んで、申し訳なく感じるよりも先に。
新人のスタッフである彼に、真っ直ぐに目を見つめられて、ぎゅっと手首を掴まれた瞬間。
「オイ、アンタ……。
とりあえず、どうすればいいのか判断が出来なくて、逼迫してんのは伝わったから、姫さんの腕から今すぐ、その手を離せ」
と、直ぐさま、セオドアが私の腕をぎゅっと握ってきた“スタッフさんの腕”をガシッと掴んだのが見えた。
――多分、私の為を思って行動してくれた、セオドアのその手を……。
『……っ、』と、びっくりしたように、目を見開いて一度だけ息を呑み込んでから。
彼は、躊躇することもなく、もう片方の手で更にギュッと上から手を重ね合わせ。
「……あ、そ、そうだ……っ!
確か、騎士の人も、ファッションショーには関係あるんですよね……?
あのっ、丁度良かったですっ……! 僕と皇女様と一緒に、来てくれますか……っ?」
と、セオドアに対しても、全く臆することなく。
まるで、純粋無垢といったような雰囲気で、声を出したのが聞こえてきて……。
その、あまりにも珍しい光景に、私は思わず目を瞬かせた。
今まで過ごしてきた日々があるからか、割と人に絡まれることの多い私に対して、過剰なまでに防衛反応を働かせてくれて、本当は優しいのにパッと見では勘違いされる率が高いセオドアに。
まったく、怯えたりすることもなく、寧ろ一緒に来て欲しいと誘う胆力があるこの人は、多分、きっと凄く良い人な気がするし、その反応につい驚いてしまった。
「あぁっ……!? ……んな、捨てられた子犬みてぇな目つきで見てくるんじゃねぇよ。
はぁ……、なんつぅか、マジで、気力が削がれるっつぅか。
大概、俺も人のことは言えねぇけどよ。アンタ、変わり者っつぅか。
人から、マイペース人間だって言われねぇか……?」
「え、……っ、そ、そうなんですか……、?
僕、そんなこと、今、初めて言われました、けど……」
「はぁ……、自覚のねぇ、ド天然タイプかよ。質が悪い……。
あー、……っていうか、この男はこう言ってるけど、姫さんは、どうしたいんだ?
俺は、姫さんがしたいようにするのが一番いいと思うけど」
「……あっ、えっと、そうだね……。
何て言うか、こっそり立ち聞きするのは、本来ならあまり良く無い気がするんだけど。
私達のことを考えてくれた上で、凄く困ってるみたいだし、ジェルメールのデザイナーさんは、そんなことでは怒らないんじゃないかなって感じるものの。
一応、建国祭のファッションショーに私達も関わる以上、2人の話自体は、把握しておいた方がいいのかな、って、思ったり……」
「あぁ、……まぁ、確かにそうだよな。
はぁ、仕方ねぇな。……オイ、付いていってやるから、とりあえず、姫さんから手、離せ」
「本当ですか……っ! あぁぁ、ありがとうございます。
皇女様! 騎士の人っ! 本当に何てお礼を言ったらいいか。
では、直ぐに、僕と一緒に行きましょう……っ!」
「オイ、アンタ、人の話、聞いてるかっ!?
いい加減に、姫さんの手、離せって……っ!
ついでに、俺の手も離せ! ……馬鹿野郎っ! 成り行きで、グイグイ引っ張ろうとすんなっ!」
そうして、凄い勢いで、腕を引っ張ってくる目の前の青年に困惑しながら、非力な私とは違い、普段のセオドアなら簡単に振りほどくことも出来るとは思うんだけど。
相手が、ジェルメールで働くスタッフさんであり……。
他意のない、何の力も持たない一般人ということもあってか、どうするべきか悩んで、力の加減に悪戦苦闘しているセオドアと、思わず視線がカチリとぶつかったあと、私は小さく微笑み返した。
悪い意味としてではなく、あまり人の意見に関しては耳に入らないタイプの人なのかもしれないし……。
善意の気持ちが大きくて、そこに悪気みたいなものは、一切混じってなさそうだから、このまま『身を委ねてしまった方』が良い気がする。
私の視線で、直ぐに何を言いたいのか悟ってくれたセオドアが、諦めたようにほんの僅かばかり抵抗していた力さえも抜いてくれるのを感じて、ホッと安堵しながら……。
取りあえず、善は急げという感じで、今すぐにこの部屋から外に出ようとしている、新人のスタッフさんのその勢いに流されかけていたけど。
恐らく今の遣り取りは聞いていたとはいえ、みんなに対して、しっかりと声はかけておいた方がいいと思って……。
「あ、アル、ローラ、エリス、それから皆さん、本当にごめんなさい……っ!
直ぐに、戻ってくるので、少しだけ、この部屋で待ってて貰えると嬉しいです」
と、みんなの方を振り向いて、口を開くと……。
殆ど全員が、戸惑ったような表情を浮かべる中で。
ただ1人、アルだけが……。
凄く不思議そうな、何とも言えないような表情をして、どこか考え込むように眉間に皺を寄せているのが見えて、私は首を傾げる。
その表情の意味がどんなものだったのか、私が思考を巡らせて、その答えに行き着くよりも先に。
目の前のスタッフさんに強引に引っ張られるような形で、私はスタッフルームから、セオドアと一緒に出ることになってしまったから……。
結局、アルのその表情の意味に関しては、どことなく後ろ髪を引かれる思いを感じながらも、今の段階では、分からず仕舞いだった。