319 敬語の練習
あれから、お昼にルーカスさんや、みんなと一緒に城下の街にお出かけする長い一日が終わり……。
私は皇宮に帰ってきて、エリスやローラに、買ってきた焼き菓子のお土産を渡してから、いつものようにみんなと一緒に晩ご飯を食べたあと、自室でゆっくりとしていた。
今、思い返してみても、はたして、アレを『デート』と呼んでいいものだったのか、初めてのことばかりで、恋愛初心者の私にはよく分からないことだらけだったのだけど……。
セオドアやお兄様、それからアルも含めて。
みんなと一緒に、どこかにお出かけが出来る機会なんて、そうそうないことだから、個人的には凄く楽しい一日を過ごさせて貰えたなぁ、と思う。
本当なら、もっと傍から見て、何となくでも『恋愛をしている』と分かるくらいには、私自身も何かをしないと、いけなかったのかもしれないんだけど……。
――結局、今日一日中、ずっとルーカスさんのエスコートに、任せっぱなしになっちゃってたなぁ……。
私とルーカスさんの間では、私達の関係は“期間限定”の、お互いに仮初めのものだって分かっているけど。
一応、かなり限定的な人に絞られてくるものの……。
宮中で私達の婚約を知っている人達から見た時に、私達があまりにも余所余所しい雰囲気だったら、その関係性自体が、疑われることになりかねないもんね……。
その辺りの調整というか。
例えば、今日、私に手を差し出して、さりげなく“エスコート”をしようとしてくれていたとか。
なるべく、形だけでも婚約者同士っぽいことをしようとしてくれていたであろう、ルーカスさんを思い出して……。
そういう時に、上手く返すことも出来ずに、自分の反応があまりにも薄すぎて良く無かったのでは……?
と、今日の私自身の対応を思い返してみては、きちんと出来ていなかったのかもしれないと、不安に苛まれて、なんだか心配になってくる。
【……うぅっ、人との距離の詰め方って本当に難しい……っ!
普通に人として好きだという感情と、恋愛の好きって……、一体、何が、どう違うんだろう……?】
――恋愛っぽく見えるように、と言われても、どうしたらいいのか分からず、結局いつも通りの対応しか出来てなかった気がする……。
1人、頭の中でぐるぐると、今日のことをひとしきり反省しつつ。
私は、考えても考えても、煮詰まってしまって……。
答えの出てこない問いから、一度目を逸らして、一息吐いたあと、廊下に繋がる自分の部屋の扉を開けた。
私が、ギィっという音をあまり立てないように、控えめに扉を開けると……。
いつものように、警護の為にと、セオドアが私の部屋の外に立ってくれていて、直ぐにパチリと、お互いの視線が交差する。
「……っ? 姫さん、どうした? もしかして、眠れないのか?」
そうして、セオドアが、私が外に出てきたことについて……。
優しく声をかけてくれたのを、ふるりと首を横に振って、その質問を否定したあとで。
「ううん、……違うの。
あのね、もしも、セオドアさえ良ければなんだけど。
これから一緒に、言葉遣いの勉強が出来たらなって、思って……」
と……。
私は、おずおずとセオドアを見上げながら、声をかけた。
今日、お父様にルーカスさんと一緒に、婚約の報告をしに行った時もそうだったんだけど。
セオドアが人に対して『敬語を使っている時』って、やっぱりどうしても滑らかとは言えなくて、セオドア自身が凄くやりにくそうだなって、感じることが多くて。
私は別に、セオドアが敬語じゃなくても、普通に接して貰えると嬉しいって思っているから、全然困らないんだけど……。
これから先、セオドアが他の人と接する時に、敬語が滑らかに使えないことで、どうしてもそれだけで、生まれのことを持ち出して、見下されてしまったり。
困るような状況が増えてしまうんじゃないか、って思うと、凄く心配になってしまった。
何より、そんな理由で、セオドアが誰かから『下に見られてしまうような状況』が起きてしまうこと自体、私自身が嫌だなって感じるから……。
「私は、普通に接して貰えると嬉しいから、セオドアが“敬語”じゃなくても、全然、困らないんだけど。
今日、お父様にルーカスさんと婚約の報告をしに行った時、セオドア自身が、結構、困っていたような気がして……。
だから、これから先、セオドアが“出来るだけ、困ること”がないように。
良かったら、夜のこの時間を使って、私と2人で言葉遣いの練習をしてみないかなって思って、声をかけたの。
ほら……っ、私とだったら、どんなに敬語を間違えても、気にしないでいられるでしょう?
……あっ、でもね、もしも嫌だったら、強制じゃないし、忘れてくれていいからね……!」
そうして、なるべく、セオドアに対して……。
自分の今感じていることや、どうして言葉遣いの勉強をしようと思ったのか、その意図が正確に伝わるようにと、一生懸命、言葉を選びながら説明すれば。
私を真っ直ぐに見つめながら、セオドアから……。
「あー、そんなにも、俺のことを傷つけないように、一生懸命にならなくても大丈夫だって。
姫さんが俺のことだけを考えて、心配してそう言ってくれてんのは、充分、伝わってる」
と、苦笑しながら返されてしまった。
それから……。
『言葉遣いか……、マジで不得意分野でしかねぇんだが』と、困ったような表情を浮かべながらも。
セオドアは私の説得に納得してくれたのか、すんなりと、私の部屋に入ってきてくれた。
……といっても、私とセオドアが夜に二人っきりで過ごすのは今日が初めてのことじゃない。
いつだったか、セオドアが私の警護にずっと付いてくれていたと初めて知った時、二人っきりで話したあの夜と同じように。
私が、ベッドに入っても、直ぐに眠りにつけない時とかに、夜遅くまで会話に付き合って貰ったりしたことは、今までにも何度かある。
最初は私が、ローラ特製のミルクティーの入ったマグカップを持って外に出て、セオドアと話していたんだけど。
季節が冬を迎え、本格的に寒くなってからは……。
『風邪を引く……』と、私の体調を心配してくれたセオドアを部屋に招き入れて、私の部屋でセオドアと話すようなことが殆どになっていた。
……自分が眠りにつくまで、傍に誰かが居てくれるという安心感に、どうしても甘えてしまっている状況になっているんだけど、セオドアは私の我が儘に、いつも優しく付き合ってくれて、本当に有り難いと思う。
「あ、あのねっ……、セオドア。
敬語が必要って言っても、私にまで気を遣う必要はないからね……。
でも、色々な場面で、きちんとした言葉遣いを喋れるようになっていたら、これからきっとセオドア自身が大変な思いをする可能性がグッと減ると思うの」
それから、部屋の中に、セオドアを招き入れて、ベッドの傍に置かれている椅子に座って貰ったあと。
私自身はベッドに座って、セオドアに『どうして、敬語を覚える必要があるのか……』という根本的なことから、力説すれば。
私にそう言われても、やっぱり、凄く苦手意識があることなのか……。
セオドアは、私を見ながら、あまり気乗りしない様子で『はぁ……』と、深い溜息を溢した。
「……敬語が喋れねぇことが、問題だってのも。
それで姫さんに迷惑がかかってるってのも、俺自身、頭では、分かっちゃいるんだけどな……?
特に興味も関心もねぇ、何なら“欠片も敬いたくもねぇ奴”に。
頭を下げるのも、敬語を使うのも、なんつぅか、気持ちが悪いっていうか、虫唾が走るっていうか。
姫さんに対してなら、幾らでも使える気がするんだけど。
こういう意味でも俺は、あの男みたいには世渡りに向いてねぇタイプ、なんだろうな……」
そうして、ほんの少しだけ唇を尖らせたあと。
セオドアにしては珍しく、まるで駄々を捏ねる子どものような幼い雰囲気でそう言ってきて、私は思わずびっくりしてしまう。
きっと、多分だけど、その言葉には、本音しか込められていないということが感じられる上に。
今、セオドアの口から出てきた“あの男”という表現に『もしかして、ルーカスさんのことを言っているのかな……?』と。
内心で、思いながら……。
「私自身は、全然、迷惑なんかじゃないよ。
でも、言葉遣いのことで、セオドアが周りの人から下に見られてしまうのも、軽んじられるのも、私が嫌なの……」
と、声を出せば。
セオドアから……。
「分かった。……姫さんがそう言うのなら、なるべく覚えられるように、善処する。
つぅか、人を相手にしてるって思うから、敬いたくねぇって、気持ちが先行して嫌な感情が湧き出てくるのかもなっ。
相手を、ジャガイモみたいな野菜だとか、無機物だと思えば何とかなるかもしれねぇ……」
と、何とも言えない言葉が返ってきてしまった。
そ、それって、もしも爵位が男爵だったら、まさしく男爵いもになってしまうんじゃ……。
頭の中で、貴族の格好をした人の顔が、ジャガイモになって。
『どうもこんにちは! 何を隠そう、私が、いも男爵です……!』と。
ダンディーな雰囲気で自己紹介している姿を、ほわほわと思わず想像してしまってから、直ぐにハッとして、慌てて、その妄想を打ち消した私は……。
人と思わなければ何とかなるかもしれない、という所からでも……。
一先ずは、セオドアが前向きにそう言ってくれたこと自体が良いことだよね、とポジティブに考えることにした。
「良かった。……じゃぁ、一緒に頑張ろうね」
そうして、セオドアに向かって、張り切って声をかければ。
ベッドの傍に置いてある椅子に座ったまま、セオドアが私の方へと真っ直ぐに視線を向けてくれながら。
「……それで? 先生っ、俺は、まずは、何からやればいいんだ?」
と、すっかり教わる気になってくれたのか、先生と生徒という立場になりきって、此方に向かって、ほんの少し口元を緩めながら微笑んでくれる。
その姿に、この間、セオドアに護身術を教えて貰った時とは、立場が反対になっているなぁ、と感じつつ。
「……何だか、この間、セオドアに護身術を教えて貰った時と、立場が正反対になっちゃったね?
人に何かを教えることなんて初めてだから、私自身、教えるのは凄く下手かもしれないけど、頑張るね」
と、思わず、セオドアにつられるようにして、ゆるっと微笑み返せば……。
「あぁ、言われてみれば、確かにそうだな。
……姫さんは、物わかりのいい生徒だったけど、俺はマジで出来が悪いから教える方は苦労すると思うぞ」
と、苦笑しながらセオドアにそう言われて。
私は『そんなことないよ……!』と、慌てて、ふるふると首を横に振った。
寧ろ、セオドアは私に護身術を教えてくれる時、教え方ひとつとっても本当に丁寧で、分かりやすく教えてくれていたし。
普段から、飲み込みは凄く早い方だと思うから、きっと口ではそう言っているだけで、頑張れば、言葉遣いの練習も上手に出来ると、私は思う。
「……えっと、じゃぁ、まずは……。
“です”、“ます”という丁寧語と、尊敬語、謙譲語の3つの違いを覚えることから始めようか?
それが分かって使い分けられるだけでも、大分、周りの人からの印象も変わってくるはずだから……。
今のセオドアの感じだったら、何々を“した”って全部言い切ったあとの語尾に、です、ますを付けてるから変な感じになっちゃってると思うんだ」
そうして、私は、敬語を使っている時のセオドアの言葉遣いを、なるべく頭の中で詳細に思い出しながら声をかける。
確か、今日、ルーカスさんとお父様に婚約の報告をしに行った時。
セオドアは……。
【今年のファッションショーが、護りたいあなたへ送るプレゼントっていうのがテーマ、らしい。……です。
だから、ジェルメールのデザイナーから、騎士である俺が姫さっ……皇女様と、一緒に出るよう、お願いされたっつぅか……。
適任扱いされた感じだ。……です】
と、言っていたと思う。
これは、本当に一例だけど……。
どう言えば分かりやすいか、ゆっくりと、言葉を選びつつも。
『断言したあとに、です、ますを付けるのはあまり良く無いかも……』ということを伝えながら……。
一体どこを直せば、きちんとした敬語や言葉遣いになるのかということを、頭の中で訂正するように組み立てつつ。
「誰かがしたことについて言う時は、です、ますを使うよりも“されました”とかの言葉を使う方が綺麗じゃないかな……?
例えばなんだけど、今日、みんなで遣り取りをした時の会話だと。
今年のファッションショーが、護りたいあなたへ送るプレゼントがテーマになっていて……。
ジェルメールのデザイナーさんに、騎士の立場から自分が適任だと言われて、ファッションショーに出て欲しいと“お願いされました”、みたいに言い換えたらいいと思う。
ゆっくりでいいから、違和感のないように頭の中で一度、組み立ててから喋ってみると、だいぶ、きっちりとした言葉遣いにはなってくるよ」
と、私はセオドアに向かって、なるべく分かりやすいように噛み砕いて説明する。
そうして……。
改めて、誰かに敬語の説明をするってなると、凄く難しいなぁと、ひしひしと感じながらも。
敬語の種類にも尊敬語とか、謙譲語とかがあり、主語が誰になるかで違いがあって……。
尊敬語の場合は目上の人を敬う為に使うから、相手が主語で『いらっしゃる』とか『おっしゃった』とかになるし……。
謙譲語の場合は、自分がへりくだることで、相手を立てる為、自分か身内が主語で『拝見する』とか、『申し上げる』などという風に決まっていたりする、ということを。
何とか、分かって貰えるようにと、四苦八苦しながら、セオドアに教えていると。
暫くは、私と一緒に言葉遣いの勉強を頑張ってくれていたんだけど……。
徐々にストレスが溜まって、とうとう限界が来てしまったのか、思いっきり眉を寄せた後で、まるで、もう、勉強自体をしたくないというように、溜息を溢し……。
「……はぁ、マジで、ややこしい上に難しいなっ……!
何だよ、尊敬語と謙譲語と丁寧語、って……。
ご丁寧に、三つも、カテゴリーに分類しやがって。
わざわざ、そんな“ややこしいこと”しねぇでも、どれか一つ使えれば、それでいいだろ。
こんな、クソみたいな制度を考えた奴、マジでどこのどいつだよ……っ!」
と、唇を尖らせながら……。
私じゃなくて、既に決められた常識に対して、セオドアが拗ねたような雰囲気で、言葉を出してくる。
その姿に、一度にいっぱい詰め込みすぎちゃったかも、と感じながら『ごめんね。少し、休憩する……?』と、声をかければ、拗ねたような雰囲気はそのままで。
「姫さんが良い子、良い子って頭を撫でてくれたら、頑張れそうな気がする」
と、言われて、私はキョトンとしてしまった。
……まさか、セオドアの口から、そんな言葉が出てくるとは思ってなくて、思わず、どうしたらいいのか分からず固まってしまっていると。
私の反応を見て、さっきまでの雰囲気とは一転、セオドアが苦笑したあとで、私を真っ直ぐにジッと見つめてきて。
「……あー、失敗したか。
これだけじゃ、絶対に通じねぇし、どう考えても、分かりにくいよな……」
と、言いながら……。
きゅっと、私の手首を掴んでくる。
やんわりと掴まれているから、別にそれで、痛いとは感じなかったんだけど。
そのセオドアの、普段とはあまりにも違う対応に、頭の中を疑問符でいっぱいにしながらも、『……セオドア……?』と、恐る恐る声をかければ。
「姫さんが、俺に良い子、良い子って、してくれねぇんなら……。
俺が姫さんのこと、代わりに甘やかしていいってことだよな?」
と、謎の理論で、そのまま腕を引っ張られて、抱きしめられたあとで、ポンポンと優しい手つきであやすように頭を撫でられてしまった。
「……???」
その状況に、1人、困惑し……。
セオドアの腕の中で、ただ、されるがままになりながら、オロオロしていると。
「……俺じゃ、本当の兄妹には、どうやったって、なれねぇけど。
姫さんは、誰に対しても“いっつも、遠慮して”して欲しいことも碌に言わないんだから。
たまには、誰かに思いっきり甘やかされる一日があってもいいと思うぞ」
と、セオドアから、続けて言葉が降ってきて。
そこで初めて……。
もしかして、前に教会に行った時に、兄妹みたいな“小さな子供たちの関係性”を、羨ましいと眺めていたことを気にしてくれていたのかな、と思い至った私が。
ぎゅっと抱きしめてくれているセオドアを見上げて、お礼を言おうと口を開きかけた瞬間。
「……まぁ、家族つっても、俺も、マジでそういうのに縁がなかったから。
こういう時“どうしてやるのが、正解か”なんて、本当の意味では多分、理解出来てねぇんだけどな。
どんなに、絵本にあるみたいに、絵に描いたような幸せな家族ってのを、手本に真似てみても。
所詮は、擬似的なものにしかならねぇし、実際、よく分かってねぇから、俺じゃ、ぎこちないかもしんねぇけど」
という言葉が、先にセオドアの口から出てしまって……。
思わず、私はセオドアの腕の中で、その言葉を否定するように、ふるふると首を横に振った。
「ううん。……私も、そういう愛情っていうの、今までは、あまり貰わずに生きてきたから。
絵本の中の、絵に描いたような幸せな家族が、本当はどんな風に過ごしているのか、あんまり、理解出来ていないのは、多分、一緒だと思う。
でも、今、セオドアに、こうやって“頭を撫でて貰ってる”のは、びっくりはしたけど、凄く落ち着くし、本当に嬉しいよ」
だから、ありがとう……。
という、気持ちを込めて真っ直ぐにセオドアを見つめれば。
私の顔を見るために視線を下げてくれたセオドアが安堵したように口元を緩めながら『……そりゃ、良かった』と声をかけてくれる。
本当の家族がどういう風に過ごすのが正解なのか。
ウィリアムお兄様やお父様と、段々、仲が深まってきた今でも、私自身、その距離感の取り方も含めて、今ひとつよく分かっていないんだけど。
身近にいる人達に、どうされたかったのか……。
何をして欲しかったのか、と言われれば……。
幼い頃に封じ込めて捨ててきた願いは、数え切れないほどあって、本当はずっと覚えてる。
「……セオドアは、こうして、誰かに頭を撫でて欲しかった、の?」
そうして、そっと、セオドアがさっき、私にしてくれたみたいに。
手を伸ばして、セオドアの黒髪に触れれば……。
セオドアは私を見ながら……。
「……そんなことも、もう、忘れちまったな。
多分、ガキの頃は、して欲しかったんだとは、思うけど……」
と、苦い笑みを溢してくる。
「うん、そうだよね。
叶えられることがないって分かりきっていたら、……望むのも、恐くなっちゃうもんね」
例え、含みのある言葉で、濁したとしても。
――私自身、同じだったから……。
セオドアの、その気持ちは、痛いくらいに本当によく分かる。
お母様も、お父様も、お兄様も……。
今でこそ、少しずつ良くなっていると感じるけど、身近にいる人の愛を求めても、一度も此方を見てくれることもなく、返ってはこないと分かっている状況で、ずっと追い続けるのは本当に苦しいことだから。
いつしか、全部を諦めることが、当たり前になってしまって。
これ以上傷つかないでいいように、自分を守るために、防御本能で、感覚自体が鈍くなってしまうことも……。
心の底から欲しかったものを、手放したのは、そうしないと生きられなかったからで、本心じゃない。
ほんの些細な願望も、手放さないことで、もしもいつか、叶えられるのだとしたら……。
本当は、ずっと想い続けていたかった気持ちなのだと、分かっているから。
セオドアの暖かい腕の中で、さらり、とセオドアの柔らかい髪に触れながら。
私は、セオドアの顔を見つめて、ふわり、と笑みを溢した。
「あのね、セオドア……。
生まれてきてくれて、ありがとう。
……こうして、私に、出会ってくれて、いつも、私のことを考えてくれて本当にありがとう」
――私じゃ、セオドアの本当の家族の代わりにはなれないかもしれないけれど。
いつだって、言われたかったその言葉は、誰の口からも言われることはなく。
蔑まれて、尊厳を踏みにじられて、いっそ、生まれてこなければ良かったのかもしれないと、思いながら。
幼い頃に捨ててしまった、誰かからかけて欲しいと思っていた自分の望みを、ただ、真っ直ぐにセオドアに向かって、本心から伝えれば……。
「……っ、」
と、小さく息を呑んだような音がしたあと、ぎゅっと、私の身体を抱きしめる、セオドアのその腕に思いっきり力がこもったのが感じられた。
「……俺を、甘やかしてどうするんだよ……っ。
そんなの、俺だっていつだって、姫さんに感じてる。
生まれてきてくれて、ありがとう。……俺を救い上げてくれて、本当にありがとう……」
「……えへへっ、じゃぁ、私とセオドア、おんなじ気持ちだね?」
他の誰でもなく、セオドアにそう言って貰えると、本当にそう思ってくれてるんだな、って感じられて凄く安心するし……。
何て言うか、今まで、決して満たされなかった“空っぽのコップ”に、想いの欠片がいっぱい注がれていくみたいな感覚がする。
――生まれてきてくれて、ありがとう、って、本心からそう言って欲しかった。
一度でいいから、誰かにそう言われていれば。
それだけで、ただ、真っ直ぐに、この先の未来も生きていけるような気がするから……。
それと同時に、セオドアに出会えて本当に良かったと、心の底から思えるのは。
私達は、本当に何もかもが、足りなさすぎて……。
今までの境遇も含めて、多分似通っているからこそ、お互いにどうして貰えたら嬉しいのか、幼い頃、どういう言葉をかけて欲しかったのか……。
何も言わなくても、こうして、通じ合えるからなんだと思う。
……そうして、お互いが落ち着くまで、今まで誰からもかけられることがなかった“その時間”を埋めるように、そのままの状態で、暫く、そうやって。
私達は無言のまま……。
決して、お互いに喋らないからといって、息が詰まるようなこともなく、二人っきりで優しい一時を過ごした。