314【ルーカスside】
皇宮へとお姫様を送り届けてから……。
とは言っても、お姫様の護衛だから騎士のお兄さんが付いてくるのは勿論のこと、殿下はいるし、アルフレッド君はいるしで。
予め分かってはいたにしても、マトモなデートとは到底言い難い一日を過ごしたんだけど。
特に何ごともなく全員と別れて、俺は、そのままの足でテレーゼ様の元へと向かっていた。
いつものように、特に面会手続きをすることもなく。
秘密の抜け道を通って皇后宮の庭に入った俺は、テレーゼ様が外に出ていないことを確認して、その辺りで働いているあの方の侍女に声をかける。
前に此処で偶然会った時みたいに、テレーゼ様が外に出ていればそれで良いし。
出ていなかったら、今みたいに適当に侍女を見つけてテレーゼ様に取り次いで貰えればいいだけだから、特別、困ることもない。
ジャケットの内ポケットの中にはあの日、ナナシに渡された毒の入った小瓶が今も入っていて……。
今日一日中、平然を装いながら持ち歩いてたけど、内心気が気じゃない思いだった。
当然、あれから“その中身”については、足がつかないように、スラムに持ち運んで、非合法で運営されている馴染みの店で確認済みだ。
中の毒はナナシに事前に聞いていた通り、成人した女性が全てを飲み干したとしても致死量にまでは決して届かないようになっていた。
……まぁ、だから、良いかと言われれば、それとはまた別問題なんだけど。
俺の行動については、今もナナシの監視下には置かれているだろうから、恐らく俺が瓶の中の毒の成分を確認したことについても既にナナシにの耳にも届いているとは思う。
スラムの出身っぽいナナシが、俺よりスラムに熟知していても何ら可笑しいことではないし……。
どっちみち、何もしなくても全てが筒抜けなんだから、それについてはあまり気にもしていない。
問題は、俺の言動全てがナナシに見張られているこの状況で。
……この毒をいつ、どうやって、テレーゼ様に飲ませるか、ということだ。
テレーゼ様のこと、お姫様のこと、殿下のことを思って、という免罪符の元に……。
そういったことを全てひっくるめた上で、人として自分を正当化させて“最後の一線”として、その道を踏み外すことが出来るか、という部分も含めて。
――本当に、無理難題を押しつけられたものだな……
と、内心で思う。
1人、テレーゼ様が来るのを待っている間。
『はぁ、っ……』と、小さく溜息を溢していたら……。
「全く、……そんなにも辛気くさい顔をして、一体どうしたというのだ?
そなたにしては、随分と珍しいこともあるものだな?」
と、此方に向かって、笑いかけてきたテレーゼ様の姿が見えて……。
俺はどこまでも自然に見えるよう表情を変化させながら、にこりと“無邪気な笑顔”を作り出して、テレーゼ様へと視線を合わせた。
「あぁ……。……そう見えちゃいました?
流石、テレーゼ様。……貴女に嘘はつけませんね」
そうして、取り繕うこともなく、しっかりと本音混じりの言葉を返す。
いつでもそうだけど、毎回、ただ取り繕って嘘の仮面を纏うだけでは『聡い人間』を騙すにはまだ足りない。
ましてや、今日みたいに表情の変化を見られて、その上“溜息”まで聞かれているのだとしたら、下手な嘘は通用しないだろう。
こういう時は、正直に伝えるに限る。
そうして、その上で、聞かれたくないことを予め自分の裁量で、続けて質問されることを封じながら……。
「テレーゼ様のことなので、もしかしたらもうご存知かとは思いましたが、お姫様と俺の婚約が正式に決まりましたので、そのご報告に参りました。
ここ最近、ずっとそのための書類を作ったり……、陛下に謁見したりで慌ただしく動き回っていたので、流石の俺でも柄にもなく疲れが出てしまったようですね」
と、“息をするように、嘘を吐く”。
オーバー気味に、ドッと疲れたような雰囲気を纏わせながら、茶目っ気たっぷりに苦笑して見せれば……。
どこか呆れたような視線を向けてきたあとに、テレーゼ様が、俺を見ながら悠然と微笑んできた。
その“貌”は、一見すると、この方が民心を掴むために、表で見せているものと全く同じものだけど。
かれこれ、3年もこの方に仕えていれば、その表情にどんな意味があるのかくらい、俺にとって読むのはいとも容易く……。
直ぐに何を言われているのかを悟って、さっと自分の手のひらをテレーゼ様の前に差し出した。
「失礼しました。……お手をどうぞ、ご主人様」
そうして、にこりと、微笑んだあとで、直ぐに気付かなかったことを詫びれば……。
テレーゼ様は無言で当たり前のように俺の手を取ってから、俺のエスコートで庭にある円卓を囲う椅子に優雅に腰掛ける。
それから、直ぐに後を追うようにして、侍女長がティーカップを二つ分、持ってきたのを見ながら……。
俺もテレーゼ様の促すような視線に従って、この方の対面にある椅子へと腰掛けた。
テレーゼ様が庭に出てきたその瞬間から、皇后宮の外で仕事をしていた様子だった侍女長以外の侍女の影は一切なくなっている。
――客人が来たら、それがどんな人間であろうと、主人の許可なく其処に立ち入ることは許さない。
ある意味で、徹底されているその動きには、いつも感心してしまうばかりだ。
目を細めて、ティーカップに適量注がれていく紅茶を眺めたあと、一度、お辞儀をして去って行った侍女長の後ろ姿を見送れば……。
ほんの少しばかり、静寂が辺りを支配するように、冬を象徴するような冷たい北風がぶわりと俺たちの間を吹き抜けていく。
そうして、俺はテレーゼ様が口を開くのを、大人しくて可愛い忠犬を装って、ただひたすらに待つ。
それから、どれくらい経っただろうか……。
カチャリ、と一拍、間を置いて、紅茶の入ったカップを持ち上げ、その中身を口に含んだあと。
静かに、俺の方を見たテレーゼ様は、ゆるゆると口元を緩めて、俺に向かって笑みを溢してきた。
「……ルーカス。
私は前にも言った筈だが、改めて、そなたに問うことにしよう。
婚約などというもので縛れると、そなた、本気でそう思っているのか?
もしも、陛下の御身に何かあったら、アレの味方をするのは誰だと思う?」
――いつか、この場所で質問された、その内容を……。
そっくりそのまま、問いかけられて。
俺も笑顔を作りだしながら、テレーゼ様の方へと真摯に見えるように視線を向けた。
確か、その後に続く言葉は、俺の記憶が間違っていなければ……。
【侯爵家がしゃしゃり出てきたら、私の力でも止めることは出来ぬのだぞ】
という言葉だったはず。
一語一句、その内容を思い出しておきながら……。
「お姫様との婚約で“ある程度”のことは縛れると思ってますよ、俺は。
例え、それで、仮に公爵家が出てくるようなことになろうとも」
と、真剣に言葉を返す。
お互いに交差した視線に、テレーゼ様の元々吊り上がっている瞳が“その真意を探るように”俺の方へと向いてきて。
訪れた、再びの無言の時間に、目を逸らすこともなく俺は、どの角度から見ても“誠実に見えるように”テレーゼ様のその瞳を真っ直ぐ見続ける。
どれくらい、そうして互いに見合っていただろうか。
ギリギリの薄い所で保たれていた、張り詰めたような均衡は、あっさりと崩れ去り。
……視線が絡み合う中で、先に、目を逸らしたのはテレーゼ様の方だった。
その目線を一度下へ、テーブルの方へと向けたこの方は、再びティーカップを取って、一口紅茶を優雅に口にされたあと……。
再度、俺へと微笑みかけながら、その瞳を向けてくる。
そのお姿に、話の続きを促されていることには直ぐに気付いた。
俺の話を、少しでも聞いてくれる気にはなったんだろう。
まるで、今この瞬間にも、自分の忠義を試されているような居心地の悪さを感じながらも……。
俺は表面上、そのことはおくびにも出さずに、平然を装ったままアルカイックスマイルを顔面に貼り付けながら、いつもと何ら変わらない声を出す。
「……それに、どんなにあの子を周りが持ち上げようとも。
あの子は、殿下を差し置いてまで、上に成り上がろうとするような性質は持ち合わせていない。
それは、あの子の傍にいるようになって、俺が彼女に感じたことの一つです。
公爵が今の段階でどのような意図を持っていたとしても、普段パーティーと名の付く物には一切出てはこないと有名なあの方が、彼女の為にデビュタントへ参列した。
……これは、確かに見ようによっては、彼女の後ろ盾に付いてお姫様のことを後押しするためとも取れますが。
逆に言えば、可愛い孫娘の為に、あのような場に出てくるくらいなんですから、彼女の意思を何よりも優先する可能性の方が高いと思いませんか?
……心配するのは分かりますが、テレーゼ様のその懸念は、恐らく杞憂に終わると思いますよ」
そうして、ハッキリと、今自分が思っていることも含めて説明すれば。
俺の意見はこの方にとっての及第点に届いたのか……。
ほんの少しだけ前のめりになって話を聞く態勢に入った、テレーゼ様のその瞳は、まるで面白いものを見たと言わんばかりに下げられた。
「そなたの意見は、よく分かった。
実際に、アレが寝首を掻こうとウィリアムを狙うことはない、と……。
この私に向かって、そう言いたいのだな?
そなた、前にも聞いたと思うが、随分とアレに肩入れしているのではないか?」
そうして、さっきまで浮かべていた表情の、その一切を消したあとで。
まるで能面のように真顔になったテレーゼ様に、確認するようにそう問われて、俺はそのままの笑顔を貼り付けたまま、テレーゼ様に向かって声を出した。
「いえ、肩入れも何も、この目で見てきたからこそ、それだけは確かだと思いますよ。
何一つ穢れていない真っ白な存在だからこそ、あの子が、人に刃を向けるだなんてこと、出来るはずがない。
彼女の身が危険になってしまった瞬間に、その傍らにいる番犬が敵と認識したもの全てに牙を向く可能性はあっても」
そうして、真面目な表情になりながら。
「何もかもを投げ捨てて、自分の命さえ、どうだっていいと向かってくる。
……本気を出したノクスの民と、戦う覚悟はおありですか……?
恐らくあの狂犬に勝てる可能性がある人間は、あなたの手駒の中ではナナシしかいないでしょう?」
と、俺は真剣な声色で、テレーゼ様へと質問を投げかける。
ナナシがこの方を裏切ろうとしているなんてこと、今の段階では恐らく、ナナシの傍にいる人間以外だったら俺しか知らないことだから。
ナナシのことを本気で飼い慣らしているから大丈夫だと認識していて、それこそ、寝首を掻かれるだなんて夢にも思っていないのかもしれないけれど……。
どうしてかは分からないけれど、ナナシがお姫様に肩入れして、尚且つ、テレーゼ様のことを毛嫌いしている事実がある以上。
どっちみち、もしもテレーゼ様がお姫様のことを排除しようと動いた時に、お姫様の身に何かあって、騎士のお兄さんが報復に動きだしたとしたら……。
その時、ナナシはテレーゼ様の身を守るために、こっち側に付いて立ち向かうようなことはしないだろう。
ただテレーゼ様を排除したいだけなのか、それとも他にも何か隠されているものなのか……。
未だにナナシの本当の目的みたいなものは見えてこないから、なんとも言えない所ではあるけど、現状ですら既にああなのだから。
あっさりと裏切って、寧ろ、あの子の為に、お兄さん側に付いて、テレーゼ様を更に破滅へと追いやる手助けをする可能性の方が高い。
だとしたら、どっちみち、今の段階でも、これから先のことを考えても……。
これから先の、テレーゼ様の進む道に待ち受けているものは、きっと奈落でしかない。
騎士のお兄さん相手に、上手く口で丸めこもうとしたり、交渉だなんて生ぬるいことは一切通じない。
彼女の身に何かあれば、お姫様の為に、血眼になって、例え自分の身を削ることになろうとも、彼女に手を出した人間とその裏にいる人間を執念で探し出すに決まってる。
その後の結末は、多分、後味の悪いものにしかならないはずだ。
……それが、分かってるから。
今まで自分がやってきた罪が消える訳ではないし、過去に戻ることなんて、出来なくても……。
――俺等はまだ、今、ここで、立ち止まることは出来るんじゃないか……。
と、僅かな希望を持ってしまう俺は、結局、臆病で何も出来ない甘ったれた人間なんだと思う。
「ルーカス、まさかとは思うが、私の影がアレに負けるとでも……?」
そうして、暫く経ってから……。
俺の質問に、テレーゼ様は薄ら笑いを浮かべながら、自信に満ちたような表情で俺のことを見てきた。
その表情には、やっぱり、テレーゼ様はナナシが裏切っているとは欠片も思っていないようなもので、俺は『分かりきっていたことだけど……』と、頭の中を即座に切り替える。
「……いえ、負けるとは。
ただ、相打ちになる可能性もありますし、いざとなったら、ナナシがあなたを裏切るような可能性なども視野に入れておいた方がいいかと思いまして。
前に彼とは、お金で結ばれていると仰っていたので……」
そうして、苦笑しながら、本音の混じった言葉をテレーゼ様に向けて、敢えてその反応を窺えば。
「アレが私を裏切る、か……。
面白い発想だが、ずっと前から、スラムで暮らすアレの仲間が暮らしやすいようにと、後援してやっている以上、アレが私を裏切ることはないであろうな」
という言葉が返ってきた。
「それに、仮に裏切ってきたとしても大丈夫な様に私が裏で手を回していないとでも?
そなたと同じように、アレの弱みは私がきちんと握っているし、アレが裏切ってきたその瞬間に、それらを奪うだけ。
その事は、そなたが、誰よりも一番理解している筈であろう?」
そうして、はっきりとそう言われたことに、俺は決して表には出さないよう、溜息を出すのを何とか口の中で必死に堪えた。
……そうだ、テレーゼ様が、自分の傍に仕えている者の弱みを握っていない訳がない。
俺にとってのソフィアや家族が、その対象だったように……。
本来なら、確かにそうだと、俺自身もはっきりと言い切れる。
だけど、そもそも、ナナシに最初っから目的があったとして、この方がナナシを見つけて近づいたのではなく。
ナナシの方から、この方に見つけて貰えるように全て計算された上で、動いていたのだとしたら……。
テレーゼ様が握っているナナシの弱みというものは、本当にナナシの弱みとなり得るものなのか?
それさえも、作り出されたものなんじゃないかと、正直、今の段階では、疑わざるを得ないピースが揃ってしまっている。
例えば、自分の嫌いな人間を大切な人であると見せかけることで、テレーゼ様に誤認させ、身代わりを作り出している可能性だって、決してあり得ない話ではないと思う。
あの、マイペースな感じのナナシにそんな器用なことが出来るのかと言われれば、難しいかもしれないけど。
それでも、何らかの理由があって、ナナシが目的を持って自主的にテレーゼ様の傍に仕えようと決めたのならあり得ない話ではないし。
だとしたら、この間、酒場でナナシと話した時の、あっさりとしたような雰囲気にも納得がいく。
――あれは、大切なものを人質に取られているような人間が出来るような雰囲気じゃない。
テレーゼ様の全てを奪うことが、ナナシのどんな目的に繋がるかまでは分からないけれど……。
この方を貶めることなど、容易いと言わんばかりの余裕は常にあった。
このまま、ナナシのことを聞いても、これ以上の情報は得られないだろうし、この方の考えを変えることも出来ないだろうな、と判断した俺は……。
一旦、そのことは、頭の片隅に追いやることにして、アプローチの方法を変えることにした。
「……ずっと気になっていたんですけど。
テレーゼ様は一体、どうして、そこまで執拗に彼女のことを……?」
そうして、一言、俺がそう言えば……。
片眉を吊り上げたテレーゼ様が怪訝な表情をしながら、まるで『……どういう意味だ?』と言わんばかりの瞳で俺の事を見てくる。
「いえ、これは俺の単なる好奇心なんですけど……。
このまま行けば、あなたが当初から懸念していた、殿下の将来は殆ど安泰のはずですし。
そこまで心配する必要など、どこにもないな、って……。
あなたが赤を忌み嫌っているのは、過去に片目が熱を持った所為で生死を彷徨った殿下のこともあるので、不吉なものだと毛嫌いするのまでは理解もできますけど。
それにしては、些か、彼女が表に出てこないように、特に最近になって余計に抑え込むのに力が入りすぎているように感じてしまって。
だって、テレーゼ様自身も、どんなに上手く立ち回ろうとも、このまま行けば、いつ陛下に全てが知られてしまうか分からないという爆弾を抱えてはいるでしょう?
それって……、何でかなって、今まで、ずっと不思議に思ってたんですよね」
そうして、俺がはっきりとテレーゼ様に問いかけると。
俺を見ながら、ほんの少しだけ、遠く、過去の記憶を思い出すかのように目を細めたあとで。
「……丁度いい。
そなたに、一つ、昔話をしてやろう。
最初っから全てを持って生まれてきた、その髪以外は恵まれた赤を持った女と、哀れな貧乏貴族の娘の話だ」
と、歪に、口元を歪めながら、俺に語って聞かせるように、口を開いたテレーゼ様の姿が目に入った。