303 婚約の報告
さっきまでの、みんなのいつもと変わらない遣り取りのお蔭で、今朝起きてから、お父様に報告しに行くのに緊張していた気持ちも大分解れていることに気付きながら……。
当初の予定通りに、私とルーカスさんは2人で、お父様のいる執務室に向かうことにした。
私とルーカスさんのことを気に掛けてくれているのか、お兄様やセオドア、それからアルも一緒に付いてきてくれるみたいで。
みんなと一緒に宮の廊下を歩きながら、お父様の仕事部屋へと向かう。
その道中で……。
「あ、そうだ。
お姫様に会ったら言おうと思ってたんだけど、今日さぁ、俺と正式にデートしてくれないかな?」
と、ルーカスさんにそう提案されて、私は首を傾げた。
「……デートですか?」
「うん。
俺とそういった関係を結ぶのにさ、いつまでも宮にある庭園がデートスポットじゃ、味気がないでしょ?
一応、陛下には事前にデートに行く許可は貰ってるし、折角だから、この間のクッキーのお礼もしたいしね。
何かプレゼントを贈りたかったんだけど、お姫様の欲しいものとか、好みみたいな物も分からなかったから、一緒にどこか出かけたついでにお返しさせて貰えたらって思ってさ」
デートと言われれば、もしかしてだけど、また王宮の庭に行くのかな、と漠然と思っていたら……。
ルーカスさんは、私に対しても凄く考えてくれているみたいだった。
――クッキーのお礼だなんて、別に気にしなくてもいいのにな……。
内心で、そう思いながらも。
一応“仮初め”であろうとも婚約関係を結ぶ以上は、私とルーカスさんの婚約関係を知っている人達からしたら、定期的にでも、一緒に何処かに出かけたりしていないと、不自然に思われたりするのかも……。
ルーカスさんの提案で、大々的に発表はしないと2人で決めたけど。
宮で働く一部の人達や、ギゼルお兄様やテレーゼ様みたいに、私の家族にあたる人も私達の婚約関係について、知ることにはなると思うから。
そういう人達から“私達の関係が怪しまれることがないように”と、配慮してくれたんだろうか。
まさか事前に、お父様に許可まで取ってくれているとは思っていなくて、咄嗟に言葉が出てこなかったんだけど……。
「オイ。……まさか、アンタ。
姫さんを人の目の多い外に連れ出して、出歩くつもりかよ……?」
と……。
セオドアが少しだけ眉を寄せて、ルーカスさんにそう言ってくれたのが聞こえてきて。
私は、セオドアがどうしてそう言ってくれたのか、直ぐに理解出来て、有り難い気持ちが湧き出てしまった。
私の髪が赤い所為で、もしかしたら外で嫌な思いをするかもしれないと思ってくれているんだろう。
私自身、最近になって外に出ることは増えているけれど。
それはジェルメールだったり、皇室とも関わりの深い教会だったりで、今までは私の髪色について、あれこれと言われない安全な場所だという確証があって……。
そこまで、自分の髪のことを気にしなくても良い状況だった。
だけど、どうしてもデートとなると、否が応でも人の目に付かないといけなくなるし、そうはいかないだろうって思ってくれたんだと思う。
それと同時に、お兄様もルーカスさんに対して難しい顔をして難色を示してくれているのが分かって、2人のその懸念に……。
『心配してくれてありがとう。……でも、多少のことなら、きっと大丈夫だと思う』と、口を開きかけたところで。
「あー、勿論……。
その辺の対策はきちんとしてるっていうか、外を歩くときにはどうしようもないけど。
店の中……、王都で流行りのカフェとかに行くつもりだったんだけど、そっちに関してはしっかりと予約を取って、個室を押さえていますとも。
因みに、デートって言っても、俺とお姫様の2人じゃなくて、此処にいる全員で行くつもり。
どうせ、俺がお姫様と2人で出歩くなんて、例え陛下が許しても、みんな、許可してくれないでしょっ?
まぁ、実際、陛下にも二人っきりで行くことには難色を示されて、安全面で、お姫様の騎士であるお兄さんは勿論のこと、殿下の同伴があるんなら、別に構わないって先に釘を刺されてるしね」
と、ルーカスさんの方から声をかけてくれた。
お父様が、私とルーカスさんが二人っきりで出かけることに難色を示したというのは意外だったけど。
ルーカスさんが、事前に、色々と考えて動いてくれたんだなということが、話を聞いているだけでも分かるし、その配慮に『あ……、ありがとうございます』と、私が声をかければ。
「珍しいな。お前がそんな所まできちんとしているとは……」
と、目を見開いて驚いた様子のお兄様の声が聞こえてきた。
「そりゃぁね。……今までのことも含めて考えたら、俺だって一応、学習しますとも。
第一、殿下とお兄さんも、アルフレッド君もだけど、俺に対して未だに不信感を持ってるでしょ?
婚約関係を結んだ以上は、お姫様に対してもそうだけど、全員に認められるくらいには、これから誠実に対応しなきゃいけないって思ってるからね」
そうして、口元を緩めながら穏やかに笑うルーカスさんに、私は何処となく違和感を感じてしまった。
【自分だけが……。
ルーカスさんと秘密を共有して、仮初めの婚約関係を結ぶということを知っていて、その言葉に“嘘が混じっている”と分かっているからだろうか……?】
どうしてか分からないけれど……。
何となく、その雰囲気が可笑しいというか。
はっきりと、こうだって説明出来る自信はないのに。
気付いたら足下からボロボロと崩れ落ちてしまって、崖の下に落ちてしまうような、そんな危うさが感じられたように思えて……。
よく分からない焦燥感に苛まれて……。
「あ、あの、ルーカスさん……」
と、声をかければ。
にこりと、いつもの感じで『誰にもバレることのないように上手く立ち回るから、大丈夫だよ』と言わんばかりに、安心出来るような笑顔でウィンクをされて、私は目を瞬かせる。
――そんなことを、聞きたかった訳じゃなかったんだけど。
もしかして、私がこの婚約関係を不安に思っていると思われたんだろうか……。
その雰囲気は、もういつもと同じ状態に戻っていて、一瞬だけ、ルーカスさんに感じた危うさのようなものも、その一切が掻き消えてしまっていたから。
私は、今感じた自分の違和感に『気のせいだったのかな……?』と、思ってしまう。
そうこうしているうちに、あっという間にお父様の執務室まで辿り着いてしまって、頭の中で考えていたことを必然的に切り替えなくてはいけなくなってしまった私は……。
頭の片隅に、今感じた違和感を追いやって。
ルーカスさんと目線を合わせたあと“礼儀作法をきちんとした上で、しっかりと報告しなければ”という気持ちに切り替える。
そうして、コンコンと、二度、扉をノックしてから『お父様、私です。ルーカスさんと一緒に来ました』と声をかければ……。
中から『……入りなさい』というお父様の声が聞こえてきて、私達はお父様の執務室に足を踏み入れた。
巻き戻し前の軸でも、誰かとの婚約関係を結ぶなんてことは、したことがなかったから。
この挨拶が、事前にエヴァンズ家からの正式な書面が届いていて、お父様も了承済みの形式的なものだと分かっていつつも、内心でもの凄くドキドキしていたんだけど。
私の表情が硬い以上に、書類の整理をするのに執務室の椅子に座っていたお父様の表情が、何だかいつもにも増して怒っているとも取れるくらい硬い気がして、私は首を傾げる。
「帝国の太陽に、ご挨拶を」
そうこうしているうちに、隣にいてくれたルーカスさんが……。
お父様へと最上級の敬礼をして挨拶をしてくれたのが見えて、私は慌てて、自分もドレスの端を持ち上げてお父様へと頭を下げた。
「……お前達、顔を上げて、楽にしていい」
そうして、お父様のいつも以上に無機質とも思えるような声色に、ビクっとしながらも、かけられた言葉に従って頭を上げれば。
「陛下、私の方から、ご報告させて頂いても宜しいでしょうか?」
と、ルーカスさんが普段は絶対に使わない“私”という一人称を使いながら、お父様に声をかけるのが聞こえてきた。
ルーカスさんのその言葉に、お父様が無言で頷くと、隣で背筋をピシッと伸ばしたルーカスさんが。
「忙しい合間を縫って、お時間を取って下さり、本当にありがとうございます。
事前に書面でお渡しした通り、エヴァンズ家、嫡男として……。
この度、皇女殿下との婚約関係を正式に結ばせて頂く運びになりました。
彼女が成人するまでの間も含めて、これから先、互いに良きパートナーとなり。
益々の繁栄を願って、国のために、共に高め合いながら過ごしていければと思っています」
と、声を出してくれて。
私は、その口上に思わず、凄いなぁという尊敬の気持ちが湧き出てきてしまった。
お父様に対して、はっきりとした口調で喋ってくれるルーカスさんの言葉は、私達の関係が“仮初め”だとは到底、思えないくらいきちんとしていて。
普段、砕けた感じで接してくれることが多い所為か……。
こんな風に真面目な表情で、しっかりとした言葉を話すルーカスさんって、滅多に見れないから、こういう姿を見るとやっぱり侯爵家の嫡男として基本的な教養は学んできているんだろうな、と思う。
その上で、普段、砕けた感じで親しみやすい雰囲気を敢えて出しているんだろうなっていうことも……。
「……そうか。
アリス、お前もその意思をきちんと固めたと思って、間違いないんだな?」
そうして、ルーカスさんの話を黙ったまま聞いてくれていたお父様に突然声をかけられて、私は慌ててこくりと、頷き返した。
「はい、お父様。
先ほど、ルーカスさんが話して下さった通りで、相違ありません。
私では力不足かもしれませんが、少しでも国で過ごす民のことを思いながら、これからも行動していければと思っています」
それから、しっかりと、お父様の目を見て伝えれば、それまで厳しい表情を浮かべていたお父様から『ハァ……』という、小さな溜息が聞こえてきて、私は思わず身体を強ばらせる。
何か、間違ったこととか、マナーの面できちんと出来ていなかった部分があっただろうか?
この間、お父様と一緒に食事をした時にも感じた不安がむくむくと、表に出てきてしまいそうになるのを堪えながら、お父様の一挙一動を恐る恐る気に掛けていると。
「まさか、この私が、娘を奪われる辛さに直面しようとは……」
一体、何て言ったんだろう?
本当に、小声で、お父様が何かを呟いたのが見えたんだけど、あまりにも小さすぎたせいで、その声が私の耳に届くことはなく。
私は首を傾げながらも。
「あ、あの……っ。
お父様っ、婚約のマナーに関して、私、もしかして、何か間違ったことをしてしまった、でしょうか……?」
と、お父様に直接、問いかけることにした。
このまま、分からないモヤモヤをずっと抱えてしまっているのは良くないし……。
もしも自分が間違っているのなら、今後の為にも、きちんと教えて欲しいという意味も込めて、質問すれば。
隣でルーカスさんが、『おひめさま……いや、皇女様』と声をかけてくれた後で、心配しなくても大丈夫だよという温かい視線を向けてくれる。
その視線に、尚更、困惑していると。
「いや……。
アリス、お前のマナーに関しては、別に問題がないから安心しなさい。
これは、私の問題だ。……お前が気にすることじゃない」
と、珍しく歯切れの悪くなったお父様から言葉をかけられて、私は自分が間違っている訳じゃなかったんだ、とホッとする。
それと同時に、さっきからお父様が厳しい表情を浮かべていた理由について根本的な部分が解決している訳ではなくて……。
1人、この場で、困ってしまっていたら……。
「陛下……。
事前にお渡しした、書面にも書かせて頂いた通り。
混乱を招くことのないよう、皇女様と私が正式に婚約関係を結んだことは、彼女の年齢を考慮して暫くは皇宮内にいる一部の人間にのみの通達でお願いします」
と、ルーカスさんが続けて声を出してくれて。
お父様の真意が未だよく分かっていないまま、私の意識もそっちに向いた。
「あぁ、分かっている。
最近、アリスの周囲で不穏なことが立て続けに起こっているし。
お前とアリスの婚約となれば、エヴァンズが更に皇室との絆を深めたと見て、心中、穏やかではいられない輩も出てくるだろう。
基本的には、常に忠義を重んじて、バランスを見て中立であり続けるエヴァンズなら文句は出ないだろうし、好意的な意見の方が多いだろうが……。
大々的な発表に関しては、アリスの年齢が成人近くになるまで控えておいた方がいいと私も思う」
そうして、お父様にそう言われたことで、お父様が、私とルーカスさんが婚約関係を結んだ後のことについて……。
今、考えられるだけの懸念に、しっかりと思考を巡らせてくれているのを感じて、驚いてしまった。
私自身、そこまで、深く考えられていなかったけど、誰が優位に立っているかとか、そういう派閥の問題は、どうしても今後出てきてしまうよね……。
そういう意味でも、自分の身の回りに関しては特に気をつけておかないといけないのかもしれない。
内心で、改めて危機感を感じて、注意する必要があるな、と思っていると……。
「はい。……ご配慮頂き、感謝します、陛下」
という、ルーカスさんの穏やかな声が、隣から聞こえてきた。
「あぁ。……それに“もう二度と”その件で失敗する訳にはいかないし、な……」
それから、本当にぽつりと……、お父様から降ってきたその言葉に、私は首を傾げた。
【もう二度と、その件で失敗する訳にはいかないって、一体、どういう意味なんだろう……?】
お父様の今の言い方だと、誰かと誰かの婚約発表を……。
まるで、失敗してしまったみたいな言い方にしかとれないけれど。
私の身近にいる人を思い浮かべてみても、ウィリアムお兄様に関しても、ギゼルお兄様に関しても将来を約束しているような、特定の人がいる訳じゃないし。
直ぐにパッと思いつくような人がいなくて、困惑してしまう。
――他に、考えられるとしたら、もしかして、お父様とお母様のこと、だったり……?
そこまで考えてみたものの、お父様とお母様の結婚については、お母様が生まれる前から決まっていた強固なもののはずだし。
多少、派閥とかで問題があったとしても、お父様が失敗してしまったと思うほど、後悔している理由については、思い至らなくて……。
『多分、違うよね……』と、私は、頭の中で今、浮かんだ考えを否定して打ち消した。
「……コホン、っ。
まぁ、とにかく、エヴァンズ家の嫡男として、きちんと育てられてきているんだ。
お前のことは“小さい時から”私もよく知っているし、万が一なんてことはあり得ないだろうが、アリスはまだ幼い。
よって、二人っきりになるのは極力避けて、節度の保たれた健全な付き合いとして、どこかに行く時は、傍で身を守る為のアリスの側近である騎士を連れて行くのは勿論のこと。
必ず、ウィリアムか誰かを一緒に同伴させるように」
「あー……。
陛下っ、皇女様のことを心配しすぎて、素の部分が思いっきり出ちゃってますってば。
この間も、それっ……、俺に伝えてきてましたけどっ。
何回も言われなくても、勿論、充分に心得てますから、本当に問題ありませんって」
そうして、私が内心であれこれと考えている間にも、ルーカスさんとお父様の遣り取りは進んでいて。
さっき、報告しに来た時とは打って変わって、お父様だけではなく、ルーカスさんも、随分とお互いに砕けた口調になったことに驚きながら……。
私は、2人の会話を聞いて、お父様がルーカスさんと私が二人っきりでデートをするということに難色を示した理由にやっと納得がいった。
以前、マナーを教えに来てくれたルーカスさんと一緒に、初めてデートっぽいことをするために、皇宮にある庭園に行ったとき、お兄様も今のお父様と全く同じ反応をしていたのを思い出したから。
きっと、私の年齢が幼いから、大人と二人っきりで行動するのは傍目から見てもはしたない行為というか、あまり良く無い行動なんだろう。
そうなのだとしたら、成人になるまではずっと、デートにはお兄様同伴が望ましいということなのかもしれない。
巻き戻し前も含めて、そういう知識について、まるで無かった私は、恋愛小説の知識だけで、デートといえば、男女の二人っきりでするものだと今の今まで思い込んでいたけれど。
成人までは、どこの人達も、身内の人に付いてきて貰うのが常識なのかも。
『お前のことを信用していない訳じゃないが……』と、言葉を濁しながらも、お父様にしては珍しくはっきりとは伝えずに、ごにょごにょとした声になっているのを聞きながら……。
「あのっ、……お父様、安心して下さい。
ルーカスさんにご迷惑をかけないよう、きちんと節度やマナーを守って、ルーカスさんと外に出る時は必ずお兄様に付いてきて貰うようにしますね」
と、声をかければ。
どこか、安心したような表情を浮かべたお父様と……。
『あぁ……、お姫様、多分それ、絶対に勘違いしてると思う……っ!』というルーカスさんの苦笑したような視線が見えて、何か間違ってしまっていただろうかと不安に感じてしまう。
その瞬間。
「いや、アリス。……お前のその考えは、間違ってはいない。
例え、婚約関係を結んでいたとしても、節度のある付き合いというのは何よりも大事なものだ。
……これから先も、ルーカスと外に出るようなことがあったり、何か分からないことが出てきたら、自分の判断で全てを決めず、必ず俺や父上に伝えるように」
と、今まで黙って話を聞いていたお兄様が、真面目な表情で横から声をかけてくれた。
その言葉に、お兄様もそう言っているし、やっぱり間違いじゃなかったのかな、と……。
混乱しながらも、こくりと頷けば。
「殿下、お姫様のことが心配だからって、本当にさぁ、過保護すぎるって……」
という、ルーカスさんの呆れたような声が聞こえてきた。
その、普段と何ら変わらない遣り取りに。
自分が緊張していたからそう思うだけかもしれないけど、最初に此処に来た時に感じた張り詰めたような空気感は何処にもなくなっていて、ホッと安堵しながら……。
――そう言えば、もうすぐ建国祭なんだよね。
と……。
前に、ジェルメールのデザイナーさんから聞いたことを思い出して。
もしも、今、ここで聞けるのなら……。
婚約の話とは、また逸れてしまうけど。
建国祭の内容や、私が参加しなければいけない催し物に関しても、事前に、お父様に聞いておいた方がいいかもしれないと思う。
あれからも、何度か、一緒にお父様と食事をしたりもしていたけど、バタバタと忙しかったりで、今の今まですっかりと忘れていた。
それに、この際だから、ジェルメールが近くに出来た競合のお店に営業妨害されていることと、その店舗で関与もしていないのに『私の名前』が、勝手に使われていることなども含めて皇室を通して抗議出来ないかなども一緒に伝えられれば、と思いながら……。
私は、ルーカスさんとお兄様の遣り取りに割って入るような形で、お父様に向かって口を開いた。