302 恋愛指南書
あれから、また数日が経過して……。
その間、家庭教師の先生にも来て貰って、エリスとアルと一緒に勉強をしていたり。
ジェルメールで頼んでいたエリスのお仕事着が早速、贈られてきてプレゼントしていたり。
何かと皇宮の中で、やることも多く、慌ただしく過ごしていた私は……。
今日、ルーカスさんがやって来て、お父様に正式に仮初めではあるものの“婚約関係を結ぶ”ことになったと、2人で報告をしに行く予定になっていた。
“仮初め”と言っても、これはあくまで私とルーカスさんの2人だけの秘密で。
お父様も含めて『本当のこと』は、誰にも言えない状態なのが心苦しかったりするんだけど……。
それでも、私自身がルーカスさんと表向きにでも婚約すると約束した以上、お父様に対して、きちんと報告することは絶対に避けられないので、そういう意味でも今日はドキドキと緊張していた。
ただ……。
事前に、エヴァンズ家から正式な書面が作成されて、お父様には話がいっているので、今日初めて、その事実をお父様が知ることになる訳でもないのが救いだろうか。
それでも、今、不安な気持ちが抑えられないのは……。
この間、一緒に食事をした時に、いつになく厳しい表情を浮かべながら。
【エヴァンズから、正式に婚約の書類が届いたんだが事実か?】
と、確認されて。
『一度、エヴァンズの息子と一緒に来なさい』と、言われて以降……。
どうしてか、むっつりと喋らなくなってしまったお父様と接したからだった。
最近は、食事の間にも、自分の近況を聞かれたり。
私の傍にいつも居てくれるローラやセオドア、アル、それからエリスのことも含めて、その日あったことなどの他愛もない日常生活の話をすることが増えていただけに……。
それ以上、喋る訳でもなく、突然無言になったお父様に『どうしたんだろう……?』という戸惑いの気持ちでいっぱいになってしまった。
――お父様も、色々なことを考えてくれた上で、私とルーカスさんが婚約するのが、一番最善だと思ってくれているはずだし。
当然、お父様に対しても……。
ルーカスさんと一緒にきちんと報告をするつもりだったから、そこまで怒られるようなことでもないと思っていたんだけど……。
【もしかしたらエヴァンズ家から書面が届くよりも先に、私から、お父様に事前に報告をしておいた方が良かったんだろうか……?】
巻き戻し前の軸も含めて、私に縁談の話が持ち上がったこと自体、そもそも今回が初めてのことだったし、今も分からないことだらけという自覚はあるので。
……きちんとしたマナーや、順序が踏めていなかったのかも。
でも、もしもそうだとしたら、お父様はその場で私に間違いを指摘してくれるはず、だよね……?
何か、自分が認識していない所でやらかしてしまったのかと、正直言って、今も内心ではビクビク、ドキドキしていたりする。
最近になって、お父様との食事会に同席してくれることが増えたお兄様も、その場に一緒にいてくれたんだけど。
お兄様やセオドアは、私がルーカスさんと婚約することに渋々同意してくれたものの、未だに良くは思っていないみたいで……。
何となく、お父様のその表情と態度に“どんな意味”があったのか聞きづらくて、結局、その日はそのまま、お開きになってしまった。
そうして……。
【お父様は、私とルーカスさんが婚約するという話に喜んでくれると思っていたんだけど、違ったんだろう、か……?】
という、心のモヤモヤが……、中々、晴れてはくれず。
今朝起きてからも、内心で、心細い気持ちを抱えたままになってしまっているんだけど『いつまでもこうしてる訳にはいかないな……』と思って、私は重たい身体を引き摺るようにベッドから降りた。
それから……。
いつものようにドレスに着替えて、朝食をみんなで終えたあと、ローラに髪の毛を簡単に結って、ハーフアップにして貰っている間に、自室の扉をノックする音が聞こえてきて……。
傍で控えてくれていたエリスが扉を開けてくれると。
「お姫様、おはよう」
と……。
お兄様と一緒に、ひょっこりと顔を出すようにして現れてくれた“ルーカスさん”に声をかけられて、私は鏡台の前に置かれた椅子から立ち上がった。
「おはようございます、お兄様、ルーカスさん」
丁度、身支度も終わりかけたタイミングでやって来てくれた2人に、口元を緩めながら微笑みかけたあと、ハッとして……。
「あっ、ご、ごめんなさい、ルーカスさん。
もしかして、随分、待たせてしまいましたか?」
と……。
もしかして、約束の時間までには、まだ時間があると思って“ゆっくりめに準備”をしていたけど、私の支度にルーカスさんを待たせてしまったんじゃ……と、思いながら声をかければ。
ルーカスさんは私の問いかけを否定したあとで、いつものように茶目っ気たっぷりに微笑んでくれた。
「いや、今来た所だから、全然待ってないよ。
それよりさ。……お姫様、この間のクッキーのお裾分け本当にありがとね」
そうして、ルーカスさんからお礼を言われて。
そう言えば、この前会った時に少しでも役に立てればと『黄金の薔薇で作った薬』を手渡したくて、そのカモフラージュにクッキーを渡してたんだっけ、と思い出した私は……。
かけられたその言葉に、ふるりと首を横に振った。
「いえ、私は特別、何もしていないので……。
お渡しした時も話したかと思うんですけど、クッキーは私の侍女のエリスのお母さん、男爵夫人が作って下さったものなんです。
いっぱい貰ったので、最近会う人には、皆さんにお裾分けしていて……」
クッキーにしても、黄金の薔薇にしても、そうだけど。
どちらも私自身は貰ったものであり、それのお裾分けをしているだけだから、そこまできちんとしたお礼を言われるようなことは何もしていない。
だから、出来れば、クッキーのお礼に関してはエリスに……。
という気持ちで、エリスを紹介するように話を振れば、ルーカスさんがいつものように人好きするような笑みをエリスに向けながら。
「あぁ、うん、そうだったよね。
えぇっと、俺と会話をするのは、初めましてだよね?
お姫様の侍女の、君、エリス、ちゃん……?
って、侍女に“ちゃん付け”は、可笑しいか。
とにかく、ありがとう。……夫人が作った野菜のクッキー、美味しく頂いたよ」
と、声に出してお礼を伝えてくれた。
その瞬間、まさか自分に話が振られることになるとは欠片も思っていなかったのか……。
もの凄くびっくりして目を見開いたあと、慌てた様子で、エリスがルーカスさんに対して頭を下げるのが見えた。
「……っ、い、いえっ、とんでもございません。
ルーカス様っ、そのっ、……はっ、はじめまして。
私の母が作ったお菓子を喜んで下さったなら、嬉しいです」
そうして、恐縮したようにエリスが緊張しながら声を出すのを見て。
ルーカスさんは基本的に誰に対しても優しい人だから、そんなに緊張しなくても良いのになぁ……、って思ってしまう。
それと同時に、エリスが私に初めて付くようになった頃のことを思い出して、何だか懐かしい気持ちになってしまった。
今でこそ、私とも、ローラやアルやセオドアとも緊張が解れたように、話してくれることが増えたエリスだけど。
最初に来てくれた時は、ずっと不安そうな表情を浮かべているようなイメージだったから。
今まで何とも思わなかったけど、もしかすると、エリスは人見知りだったのかもしれない。
そう考えると、今までのエリスの態度にも辻褄が合うし、一気に親近感が湧いてきた。
話さなければいけない場面もあるから、礼儀とかに関しては心得ていて、自分の言葉を伝えることは出来るけど。
私も過去の事があって、どちらかというのなら、今も、人と話すのがそんなに得意な方ではないし。
誰かと打ち解けるようになるまでは、かなり時間がかかってしまうタイプだから……。
私がエリスに対して、勝手な仲間意識を感じていると……。
「まぁ、でも何より、一緒に同封されていた手紙の方が俺は嬉しかったけどね。
お姫様の直筆のメッセージ、あの日、あんまり時間が無かったのに、俺の為にわざわざ書いて添えてくれてたんでしょ?
心の籠もったお手紙が何より、一番有り難いなって思うよ」
と、ルーカスさんに話を戻された上で、改めてお礼を言われたことに、内心でホッと安堵する。
センシティブな事だから、こっちから聞けないし、話題にも出来ないけれど……。
これは、少なくとも額面通り、私が渡した手紙に対してそう言っている訳ではなく、黄金の薔薇で作った薬について伝えてくれているんだろうと、思う。
ルーカスさんの大切な人の病気の症状がどんなものか、私には予想もつかないし、効くかどうかも分からない薬を手渡したものの。
あとあと考えた時に『勢いで渡して、押しつけがましくなかったかな……』と、変な方向にネガティブになっていたから。
そうじゃなかったのなら、本当に良かったな、と思う。
「ふむ……。
最近、図書館で借りた本の中に、人間の男が主に使う言葉集として、人を喜ばせる方法について書かれた興味深い指南書があったのだが、今のお前の言葉と似たような事例があったぞ。
ルーカスも、そういった本を常日頃から勉強しているのだな……っ!」
そうして、私とルーカスさんが遣り取りをしていると、急にアルがマジマジと何の脈絡も無く話に割って入ってきた。
私に、断りを入れてくれつつ。
普段、皇宮の中でも暇を持て余しているアルは最近、図書館に通うのにハマっているから、そこで得た知識なんだと思うけど……。
一体、アルは、どうして、その本を読んだんだろう……?
もしかして、以前にも、ボーイとかフェアリーとか異国の言葉を勉強したりしていたから、その一環なのかな……?
――アルは、本当に勉強熱心だなぁ……。
私が内心で、もっと、アルの姿勢を見習わないといけないと思いながら、ひとしきりその話に感心していると……。
「いやっ、アルフレッド君、ちょっと待ってっ……!
俺は、別にこれ、勉強した賜物とかじゃないから……っ!
っていうか、どう考えても、それって、女性に対する喜ばせ方的な奴じゃない?
皇宮の図書館に置くには、絶対に不適切でしょ、その本っ!
置いた奴、一体、何処のどいつだよ……っ!」
と、何故かルーカスさんが凄く焦ったような表情を浮かべながら、弁明するように声を出してきて、私はアルと一緒に首を横に傾げた。
そうして、よく分かっていない私とアルを置いてけぼりにするように……。
「へぇ、マジかよ、アンタ。
……そんな本を見て、わざわざ、勉強を……?
しかも、それをっ、まだ、10歳の姫さんに……?」
「そうか。……ルーカス、最低だな」
と、セオドアとお兄様の2人から……。
結託したように、揃ってシラッとした視線をルーカスさんに向けた上で。
どこか揶揄うような言葉が飛んできて、私は更に頭の中に疑問符をいっぱい飛ばしてしまった。
「違うってっ! っていうか、別にその本見てても、最低にはならないでしょうよ、殿下っ!
お兄さんも、絶対、分かってて言ってるでしょっ!
俺のは120%、お姫様に対して感謝の気持ちから出た言葉であって、そこに下心とか、疚しい気持ちは一切ないんだってばっ……!」
そうして、何故か『お姫様は俺のこと、信じてくれるよね……っ!』と、ルーカスさんに懇願されるように見られて。
私は、よく分からなくて戸惑いながらも、勢いに押されて『あ、あのっ、……は、はい』と、思わずこくりと頷いてしまった。
「ふむ、よく分からぬが、あの本に書かれている内容は間違いだったのか?
例えば、今日も綺麗だ、だとか。
……君の瞳に乾杯、というものもあったぞ。
確かに僕も、人であれ物であれ、美しいものに綺麗だと伝えるのは可笑しなことではないが、人間が乾杯をするのはグラスであって、君の瞳に乾杯をするのは用法的にも変だと思っていたのだ。
だが、今の今まで、何かの比喩なのかと思って、真に受けていたんだが……。
むぅ……、人間の言葉とは時に難解なものであるな」
「……あぁ、違っ……。
いやっ、もう本当に、俺は一体、どこから説明して、どこまで訂正すればいいんだよ……っ」
それから、アルの本当に不思議に思っているような、真っ直ぐな言葉に……。
確かに私も『君の瞳に乾杯』という言葉は初めて聞いたな、と思いつつ。
そんな褒め言葉があるんだろうかと……。
そうして、言われた方はどんなシチュエーションでそれを言われたら喜ぶんだろう、と感じて気になってしまう。
――乾杯って言ってるくらいだから、きっと、食事の席で使う言葉なんだ、よね……?
ルーカスさんの方を見れば、何だかもの凄く疲れたような表情をしているし、自分も気になっていると何となく言い出しづらい雰囲気になってしまったんだけど、聞いてもいいものなのかな……?
1人、そわそわしながら、ルーカスさんも含めてみんなの様子を窺っていると。
そっと、背後から耳を塞ぐようにして、大きな手のひらが私の耳を覆ったことに気付いて、私は疑問を感じてそっと振り返る。
見れば、セオドアが私の耳を塞いでくれながら……。
「このまま聞いてたら、悪気の無いアルフレッドの口から、もっとヤバい内容が出てくるかもしれねぇし。
どうせ、碌なものじゃねぇんだ。……姫さんは、何一つ、知らなくて良い」
と、耳元で声を出してくれて、私はどういうことなのか分からず、更に首を傾げてしまった。
その間、私には聞こえないように配慮してくれたのか、アルに対して耳打ちで、ルーカスさんがどういうことなのか説明をしてくれたんだと思うんだけど。
全ての話を聞いたアルの……。
「ふむ、詳しく事情を聞いても、よく分からぬのだが。
例えば僕がそれをルーカスに言うのは可笑しくて、アリスに言うのはオッケーなのか?」
という言葉が、セオドアが私の耳を覆ってくれているのに。
アルの声が思ったよりも大きなものだったせいか、耳に入ってきて、私は困惑する。
「あー、うん。……そうだね。
平たく……、本当に平たくっ、大きい括りで言えばそうなる、かな」
そうして、説明するのを諦めたかのように、最後、投げやりになったルーカスさんの言葉が聞こえてきた後で、セオドアが私の耳から手をそっと離してくれると。
「アリス、今日も綺麗だぞ」
と、ルーカスさんから聞いて実践しようと思ってくれたのか、にこりと満面の笑みで、アルが私にそう言ってくれたことで。
『確かに、誰かに褒められたら、凄く嬉しい気持ちになるかも……』と、私も感じることが出来た。
だからこそ、褒められたら、褒め返さなければいけない、という気持ちになって……。
「ありがとう、アル。
あのねっ、アルも、いつも優しくて……。
そのっ、男の人に言うのは適切じゃないかもしれないけど、綺麗だなって、思うよ……っ」
と、私はアルに向かって、微笑み返す。
天使みたいな風貌をしているアルのことを、見た目は10歳の男の子だけど、それは私に合わせてくれているだけで。
実年齢はこの中で誰よりも高いし、可愛いって言うのは失礼だと思うから……。
同じ言葉になっちゃうけどお返しして、2人でというか主に私が照れながら、ニコニコし合って穏やかな一時を過ごしていると。
「……あぁっ、ごめんっ、やっぱり、訂正させてっ……!
アルフレッド君っ……、その言葉は普段、誰彼構わずに、表で言っちゃ駄目な奴だ。
いや、辛うじて、その言葉までは、まだ、大丈夫って言うべきか……。
とにかくっ、色々と言っちゃったけど、あの本に書かれてることは全部、間違いだと思ってくれていいし。
お姫様も、別に、それに返す必要はないからねっ!?」
と、ルーカスさんからそう言われて。
『人に“綺麗”っていうことの、何がいけないんだろう……?』と、混乱しながらも。
お兄様を見ても、セオドアを見ても。
このまま誰も、アルが見た本の詳細についてや、その真相について詳しくは教えてくれなさそうだし……。
結局、その本に書かれている内容は、人に言うのも駄目だし“あまり見ちゃいけないような物だったのかな……?”と、私は無理やり自分を納得させることにした。