黄泉平坂の死人
「そういえばお前が直接ここに来るなんて久しいな。最近は若いのが来ていただろう。」
「あれは死んでしまいましてね。」
「嘘だろう。まさか、それこそあの子の力か?南部の命を吸い取って生き永らえたのか。立松は確実に殺したと。――そうか、素晴らしい。あれは素晴らしい肉なんだな。」
「えぇ、思ったよりも良い肉でしたのでね、残念ながら今回は見送りました。能力の開花の輝きは見せましたが、まだまだです。あの子は弱々しく人に縋らなければ生きていけない幼子と聞いていましたから、あそこまで痛みに耐えて自己を律せるなんて考えもしませんでしたよ。だからこそ、煌いて、美しいのでしょう。僕がつい欲を出して手を緩めてしまう程にね。」
「能力が完全に出たら屠れないのではないのか?」
「僕を誰だと?屠れますよ。それに、何だって熟した方が栄養価が高く、おいしいものでしょう。」
自分が喰らいつきたい熟成肉を夢想したか、腐った男はヒヒヒと厭らしい笑い声をあげながら、自分の座る重厚な書斎机に体を沈めた。
「あぁ、楽しみだ。それで、あの子を屠るのはいつだ?あとどのくらいだ?」
依頼人の焦りはわかる。
彼の血肉はそろそろ限界で、新しい生贄の血肉を必要としているのである。
「まあ、熟しごろを見て、ですね。それに今回はこれでいいじゃないですか。立松以下十五名の切り身はあるのですから。六名に関してはかなり痛めつけられていますから、肉も柔らかく仕上がっているでしょう。」
彼は自分が持っていたアタッシュケースを客の書斎机に乱暴に置き、蓋のロックを外して鞄の中身を見せつけた。
そこには百グラムぐらいに小分けされてビニールパックされた赤い肉が、満載された氷の中で綺麗に整列して十五個入っていた。
すると、肉の赤身を見た客は頬を紅潮させて喜びの兆しを見せたが、すぐにそれを押し殺し、値引きを狙っているのか不満そうな声を敢えて出したのである。
「だが、やはりあの子が無いのではな。あの子の体には五十年の約束があるのだろう。」
「いえ。あの子はもう二十歳ですから、あと三十年の約束ですね。」
いやらしく笑う客の襟もとには議員バッジが光り、その客が地元ではなかなかの人気を持つ政治家であることを男に思い出させた。
それから、整った顔立ちだろうと生来の意地汚さを見せつける人間のどこがいいのかと、男は笑顔を顔に貼り付けたまま考え、だが、すぐさま彼の地元は彼によって恩恵を受けているのだから当たり前かと、政治家が人格者でいる必要のない事を忘れていた自分をあざ笑った。
大学を出たての夢見がちな青年達にNPO団体を立ち上げさせ、地元出身の子供達にその団体への就職と団体からの学業援助というわかりやすい偽善。
大きな団体で勤務者が多ければ、近隣の飲食店は活気を帯び、様々な備品を納入することで近隣の小売店の経営者達をも潤す。
金満となるのが萎びた地方の一角でしかなくとも、金を得た者がその金を使えばその土地の経済が回り、売り上げの少ない過疎地の個人商店を生き返らせる活力ともなるのである。
今や、彼の地元は彼の名前に町名を変えそうな勢いだ。
恥知らずな彼がそれを喜ばずにそれを固辞しているのは、彼の名前に町名を変えては、そこは縁起の悪い黄泉の国の地名の一つになるからからでしかない。
奴の名は平坂千児。
平坂の平坂は黄泉平坂の平坂なのだと、彼自身が知っているからだ。
なぜそんな馬鹿な名前なのかと注釈をつければ、飲み屋で浮かれた平坂が馬鹿なことを叫んだからに過ぎない。
「俺は不老不死だ。黄泉平坂を超えた、千の屍を喰らった鬼の子だからだ!」
まぁ、それは嘘だと男は自分に認めた。
戦時中にあちらこちらの役場は空襲で燃えてしまった。
その時に紛失した何千、何万人もの戸籍。
戦後に戸籍を失った人々に再び戸籍を作って何処の誰かわかるように整えたのだが、平坂に対しては男が冗談で彼の名前を作って登録してしまっただけである。
それまでは平坂は安達ケ原の鬼のように、人目を避け、暗がりに身を隠して存在して来ただけの悪鬼であり、名前も無い「もの」でしかなかったからだ。
思い出して再び、男はふふふと声が出るほどの笑顔を浮かべた。
男を目下の者と振舞う俗物が、実は目の前の男の悪戯によって恥ずかしい名前で現世に固定されたのだという事実を知らないのである。
顔に作り笑顔を浮かべたままであるので、彼の内面から来る笑いの違いなどこの反吐の出る政治家には関係ないだろうと心の中で独りごちながら、だが。