一先ず戻った日常
玄人は寝ている。
山口はわからない。あいつは常にアンテナを張っている野生生物みたいな所がある。
あいつらは下の階の居間で雑魚寝させ、俺は二階の自室にいる。
玄人の貞操は、……まぁ大丈夫だろう。
「それで、山口がなんだって?」
電話の向こうの楊は少々口ごもったが、もともとその情報を俺に伝えるために電話をかけて来たのだと思い出したのか言葉を続けた。
「髙の話だとちょっと狙われているらしい。昔の事件の報復かなぁってさ。」
「なんだっけ。確かロシアンマフィアの幹部を半殺しにしたんだっけ?その復讐ならば、それは怖そうだ。山口は知っているのか?」
「知らせての今日のお休みと明日の半休。それでさ、髙がね、ちびの身の安全が確実なら大丈夫だってね。不安があると山口が暴走しちゃうからさ。ちびの事、お前ならがっちり守るだろうけど、改めて頼むよ。」
ハハハっと乾いた笑いが出た。
楊に頼まれるまでも無く、玄人からは目が離せない。
彼は確かに変異していたのである。
玄人は雨に激しく脅える様になっていた。
家に帰りついた途端に雨が降り出し、その一滴が玄人の頬に当たった途端に、彼は声なき声をあげてその場にしゃがみ込んだのだ。
俺と山口で体を強張らせた彼を家の中に運び入れ、部屋の隅で雨音に脅える玄人がようやく落ち着いたのはほんの一時間前だ。
水に酷く脅える様になってしまったのはプールの底に沈められた記憶からかと思ったが、落ち着いた彼が俺達に初めて拷問の内容を語ったことで理解した。
玄人は拷問室で殴られ蹴られて意識を失う度に水を掛けられて意識を取り戻させられ、そしてまた殴られるという暴行を受けていたのだというのだ。
「また、また水を浴びたら僕は目が覚めてしまう。僕は、ここにいたい。もう、もう、あの部屋に戻りたくない。」
俺は玄人の告白を聞いて、俺が立松に対してなんて優しかったのだろうと、自分を酷く罵る羽目になったのである。
明日には風呂に入れるつもりだが、どんな反応を示すのか今からでも不安で一杯だ。
「あのさ、ちびは本当に大丈夫なのか?」
「どうした?数時間前に元気なあいつと別れたばかりだろ。」
静かになった楊の様子を考えるに、彼は山口から玄人の様子を聞いてしまったのだろうか。
脅える玄人の隣に何も言わずに座り込んで慰めていたのは、俺ではなく山口だった。
あれは不思議な慰め方だった。
何も言わずに玄人の真横に、玄人と同じように体育座りで座っているだけなのだ。
まるで捨て犬同士が肩を寄せ合って雨を凌いでいる哀れな風景で、飯を作らない宣言をしていた俺が、真夜中だというのに蒸しパンを作ってやった程である。
しかし、蒸しパンの匂いで玄人は顔を上げ、目を煌かせながらパンにむしゃぶりついたのである。
俺は良かったと思うよりも、何時間も彼らを見守っていただけの自分を責めた。
「ねぇ、俺はそんなに頼りないかな。」
「まだ言っているのか。クロに脅えられた事がそんなに不安か。」
「お前には何をされても、そっけなくされても、そんな事ないじゃん。」
「俺達は四六時中一緒にいるんだよ。ほんのちょっとそっけない時間があってもいいだろう。子育てはね、時々放り出して息抜きしないとやってられないものなんだって。そんなにあいつに懐かれたいんならね、今度は本気でお前の家に押し付けてやろうか。」
電話の向こうは先ほどまでの暗い声を忘れるほどの笑い声をあげて俺を散々からかったが、電話を切る時に、いつもと違う普通の人のテンションで「ありがとう。」と言いやがったのである。
「バカ野郎が。お前たちは本当に同じだよ。今の自分が変わったら自分が嫌われると脅えている。常に同じ自分を周りに見せようと振舞っている。同じような事があっても、すべてが同じでなければ、同じリアクションなど無いだろうにね。」
俺は部屋の小机に乗っている額縁を見つめた。
俊明和尚が俺の詩だと李白の詩をしたためたのである。
旅人の旅路をいつまでも見守っているという詩の内容は、寝無し草の旅人が俺で、旅人を見送る俊明和尚が李白であり、俺を残して死にゆく彼の気持でもある。
「あなたも似ていますね。いつまでも俺の前では変わらずに親父でいた。だからこそ俺はあんなにもあなたに縋って、そしてあなたは、俺に縋られて楽しんでいましたね。俺は本当に楽しいですよ。玄人に必死に縋られてとても楽しい。あなたは俺のお陰で幸せだったのですね。」
「でも、僕が変わったら、良純さんのコバンザメができないじゃないですか。僕はこのまま、このままでいたいんです。」
玄人が焼肉屋で口にした言葉がことのほか心地良かったのは、俊明和尚が俺の修業を見ていると言い残したその通り、玄人によると本当に俺の近くに幽霊として残っているらしいのだが、俺は俊明和尚の存在を本気で信じる事が出来たからである。
俺が彼によって変わり、そして変えられたからこそ、ひたすら俺を求める玄人に対して感じた喜びを、あの人も確実に感じていただろうと俺にはわかるのである。
そして、俺は彼を愛し続け、彼と言う父親への思慕を断ち切ることは無い。
酒に酔っているような高揚した気持ちのまま、俺は部屋の電気を消すと布団に横になった。
すると、きゃーと階下から脳天に響く玄人の甲高い嬌声が上がったではないか。
「畜生!あのガキどもが!」
俺は布団から飛び起きると、真夜中に騒ぐ子供に雷を落とすために階段を下りて行った。
俊明さんに叱られたいばかりに、俺も真夜中に楊と何度酒盛りをして騒いだだろうか。
実の父親は、俺が邪魔だと家から追い払った。
だが、俊明さんに俺は叱られても、彼から家を追い出されることは無いのだ。