変異じゃねえ、成長って言うんだよ
そろっと出した手だったが、動きだしたら怖れも何も消えていた。
僕は楊の左肩にそっと自分の右手の指先を触れさせていた。
「えっと、かわちゃん。違うよ。違う。たぶん、多分だけど。僕の蜘蛛達は、かわちゃんが大好きって騒いでいたんだと思う。うん、そう。淳平君に言われて僕も納得した。恐怖のざわざわじゃなかった。蜘蛛達から恐怖を感じなかった。」
そこで、僕を苦しめたあの男についても、蜘蛛達がざわざわしても敵意が無いざわざわだったことにも思い当たった。
だからこそ、僕は楊とあの男を間違えていたのだ。
楊は僕が彼の左肩に置いた右手に自分の左手を重ねて、目尻が赤い疲れたような瞳を柔和に微笑ませて僕をじっと見つめた。
「胸のときめきのざわざわでも構わないぞ。」
「かわちゃん、たら。」
「かわさん、カルビ追加でお願いします。あと、豚バラも。」
僕達の雰囲気を台無しにした無礼講な物言いだと気付けば、山口はハイボールを既に三杯は飲んでいた。
楊の「明日は午前休にしてやったから百目鬼の家に泊めてもらえ。」の言葉に、山口は部下としてしっかり素直に従っているらしい。
そして焼肉の後に神奈川に戻る予定の楊は、素面のまま無礼な部下のための追加注文をしていた。
「頼んだ品は自分で焼けよ。」
「お前は本当に親鳥みたいだな。」
僕は突然に口を挟んだ良純和尚を見返し、彼が海鮮を焼きだしていたことに気が付いた。
「か、蟹ですか?蟹ですよね。」
彼は足を一本僕の皿に置いてくれ、僕は蟹の足の切込みのある所から身を必死に取り出す作業に集中し始めた。
ズワイガニの方が好きだが、焼き肉屋では甲羅のしっかりしたタラバの方が向いているのだと頭の隅で考えながら、僕は必死に身を取り出していた。
「俺にもくれ。畜生。お前だけ別会計の理由がわかったよ。お前の優しさなんだな。」
笑いながら良純和尚は楊の皿にも蟹の足を入れてやる。
そろそろと差し出された山口の皿にもだ。
「僕の蟹!」
「お前の蟹じゃないだろう。変異は嫌だと騒ぐ意味がわからないが、お前は何にも変わっていないよ。山口はこれから髙に再教育で変えられるらしいけどね。」
「うそ。」
かしん、と山口はテーブルに箸を落とし、僕と楊は良純和尚の言葉に笑い声をあげた。
でも、僕が変わっていないと言い切る理由を知りたいと良純和尚を見返すと、彼は僕の皿に蟹の足をもう一本入れた。
僕は反射的に蟹の身を解す作業に集中し直した。
「お前はさ、蟹酢をかけて蟹を食うのは邪道だと騒いでいただろ。蟹もズワイガニじゃないといけませんってね。それがどうだ、焼いたタラバに蟹酢をかけて食っているじゃないか。それはな、変わったんじゃなくて、広がったって言うんだよ。子供が苦いものや酸っぱいものが食べれるようになることは、変異じゃない、成長って言うんだ。」
「でも、僕が変わったら、成長なんかしたら、僕は良純さんのコバンザメができないじゃないですか。僕はこのまま、このままでいたいんです。」
僕の皿に蟹の足がもう一本追加され、追加した男は見上げる僕ににやりと笑って酷い言葉を言い放った。
「阿呆。」
「あ、ほう?」
「阿呆。俺のそばにいたけりゃ、いたいだけいればいいだろう。喜ばしい事じゃないか。お前の成長は俺のたまものだってことだ。成長は成長できる環境が無ければ起こせやしない。俺のところで健康になって、閉じられた空間から飛び出せるようになったんだろ。飛び出したら、生き残るために成長して学習していかなければならない。子供のままじゃいられないんだよ。お前はね、ようやく大人へなろうと精神が成長し始めただけなんだよ。」
僕の体はぞわっとした。
大人になる?
死んだときの子供の体のまま成長しない体、手足だけが少々伸びただけの蜘蛛のようなこの体の中で、僕という意識が成長したらどうなってしまうの?
ヤドカリみたいに次の殻を探すの?
次の殻が見つからないヤドカリは、死ぬことがわかっていても窮屈な古い殻を脱ぎ捨てるしかない。
そしてそのまま乾いて死んでしまうというのに。
「いやだ!駄目です。僕は成長したくない。今の僕のままでいたいんです。良純さんの懐から飛び出したくはありません!」
僕は箸をテーブルに置くと、自分の言葉のまま、良純和尚の懐に飛び込んだ。
そこは安全で、僕がいつまでも変わらないでいられる場所だからだ。
そして彼は、僕を懐に入れたまま、「ホタテ!」と追加注文を入れていた。
「おい、百目鬼!その打っちゃり感は何なんだ。そこはもっとよしよしする所だろ。あるいはさ、もう少し懇々と優しく諭してやるとかさ。」
「そうですよ。そんな適当なあやし方なら、僕が、この僕がクロトを抱き締めてあげますよ。っていうか、元気になったクロトを抱きしめさせてください。」
僕は山口の言葉を聞いて、本気で良純和尚の懐から出るまいかと体を強張らせた。
すると低く素晴らしい笑い声と一緒に僕はさらっと良純和尚に撫でられ、しかし彼は僕ではなく山口へと話しかけていた。
「おいおい、俺達は夕飯を食いに来ているんだろ。俺は家に帰っても何も作る気は無いからね。空きっ腹を抱えて寝たくなければ、今しっかり飯を食え。」
僕は彼の懐から飛び出すと、蟹の身を解し始めた。
病院ではご飯が不味いと、幾晩も、幾晩も、ひもじいと泣きながら眠ったのだ。
体中が痛みで辛いと食欲が湧かなくても、一日が二十四時間もあれば、痛みよりも腹が空いたと飢えに苦しむ時間が少しくらいはあるものなのだ。
「あ、ちび、えらーい。自分から飛び出して来たね。」
「え、えと。調教に近いですね。そうか、髙さんと百目鬼さんの気が合うはずですよ。」