状況ヲ破壊セシ
三十代のこの歳で、僧侶の格好どころか滑りやすいスリッパの足元で、大人には上りにくい小学校の階段を屋上まで全力疾走させた楊を恨みながら、俺は屋上まで一気に駆け上がった。
しかし屋上に辿り着いて見れば、プールの入り口で扉を開けたまま動けなくなっている楊を見つけただけだった。
「何やってんの。」
楊は俺に血の気の引いた顔で振り返ると、何も言わずに顎をしゃくった。
開いた扉の向こうの外の世界では、フェンスの上部にしがみついた玄人の下で、山口がおろおろしながらも玄人の右足首を掴んでいるのだ。
「お前ら、何をしちょるんだ!」
「うわ!とどめき!ばかやろ!」
楊が慌て声で怒鳴り返して来たことで、俺がかなりの大声を出てしまったと今更ながら反省せざるを得なかった。
何しろ、驚いて振り返った山口が掴んでいた玄人の足首から手を放してしまったようだし、運動神経も体力も筋力も無い筈の生き物を、彼の実力で登るには無理な場所からぼとりと落下させてしまったからだ。
「あ、ああ、セーフ。まにあった。ば、ばっか、百目鬼!変な声をかけるな!ちびが落ちちゃったじゃん!」
俊足の楊が俺が叫び出すと見るや慌てて玄人の元に駆け出していたようで、俺が叫んだ数秒後に落下した玄人を抱きとめてくれていた。
「そうですよ!状況を見てくださいよ!」
続いて俺を罵倒したのは、玄人を抱えてぐらついている楊を支えている山口だ。
「うるせぇよ!状況を見て叱ったんだろうが!なんだ!怪我も治っていないくせに危ねぇ事をしやがって。クロ!これ以上俺を心配させんじゃねぇ!」
「いや。だからお前の声でびびったちびが落ちたんじゃん。」
「かわさんがいなかったら、クロトが落ちて大怪我していたところですよ!」
「人は二メートル程度じゃ死なねぇよ。」
「ば、ばっか。裏っ側に落ちたら死んじゃうでしょう。あっちは二メートルどころじゃないじゃん。ちびより頑丈なリクガメだって四階から落とされて尊い命を失ったんだからね。覚えているの!」
楊はその四階から落とされた亀のために十数万の治療費を獣医に捧げ、努力空しく死んだ亀の読経を俺に押し付けたのである。
俺は楊のあまりの馬鹿さ加減に切れて、本気の通夜と葬式を楊の部屋であげてやったのだと思い出した。
その葬式には本当の飼い主が現れ、あまつさえ顛末を聞いて感動したと涙と鼻水を垂らしていたが、そのそいつが、楊を巡査部長から警部補にあげたという県警の副本部長だったのには開いた口が塞がらない。
「亀は覚えているけどよ、クロがどうやってもあっち側に落ちる要素が無かっただろうが。こん馬鹿どもが!」
楊と山口は同時に冷静になったのか、ぱっと同時に手を放し、二人に抱えられていた玄人はぽとりと落ちてプールサイドのタイルの上に転がった。
「クロ!痛くないか!お前ら怪我人を固いタイルに落とすなよ!」
俺の叫びに再びハッとした刑事二人は慌てて玄人を起こそうと手を出したが、転がっている玄人はその手を振り払い、俺の方へと這いずった。
そして、必死な顔で、二十五メートルプールを俺との間に挟んだ彼は、俺に対して初めてというほどの大声で叫んだのだ。
「僕の名前を呼んで僕を祓ってください。」
山口が慌てたように玄人を引き寄せて抱き締めると、彼も俺に意味不明の事を叫んだ。
「絶対やめて下さい。クロトの言う事を聞かないで下さい。クロトが死にます!」
抱きしめらながら玄人は山口の腕の中でもがきながら、泣きながら再び叫んだ。
「僕はこれ以上人を殺したくないです。お願いです。良純さん。」
解る事は、二人は俺が玄人の名を呼べば玄人が死ぬと思い込んでいると言う事だ。
今日だけで何度玄人の名前を呼んだと思っているんだ、この馬鹿共め。
俺はこの二人の馬鹿さ加減にも、玄人の今の状態が俺の責任だという事にも、そろそろ堪忍袋の緒が切れたのだ。
俺が叫べば玄人が死ぬと奴らが考えているのならば、俺は叫ぶ。
この世に未練を残すものがいないほど、一滴の情けなどなく冷徹に。
この停滞した状況を打開するために、俺は、吼えてやる。
「たぁけぇもぉと、くろとぉ!こん馬鹿野郎が!」