さあ、体を返せ
山口だけが報告も兼ねて良純和尚のいない時間に来る約束だったのに、山口は一人ではなく、楊を引き連れて病室のドアを開けたのである。
ざわざわ、ざわざわと、蜘蛛達が波が立つように大騒ぎしていくことに僕はびくびくとし始め、またあの男が来たのだと僕が心底脅えているところに、ドアを開けたのが山口と楊だ。
僕は山口の後ろから顔を出した男が楊ではないあの男だと思い込み、混乱したまま、咄嗟に逃げ出してしまったのである。
どうやって自分がベッドから逃げ出したのかは自分でも説明できないが、布団をかぶって作った暗闇から、次の暗闇へと、いつの間にか移動していたのだ。
隣の部屋のベッドの下と言う暗闇。
楊が叫び声をあげている横で、山口は涼しい顔で病室を出てきたのだそうだ。
僕の見えるものが僕に触れれば見えるだけと山口は以前から言っていたが、僕の動いた黒い軌跡も読み取ることが出来るようだと、僕をすぐに見つけられた種明かしを自慢気に説明してくれた。
「動いた後に軌跡が残るなんて、まるで僕はナメクジみたいだね。」
彼にそう言ったら、否定もせずに吹き出して笑っていた。
そんな気味の悪い僕だと知っているのに、彼はまだまだ優しい。
「帰りたくないのは、かわさんが怖いから?」
僕は顔もあげずに、反射的に、ちがう、と答えていた。
「かわちゃんは怖くない。でも、ざわざわ、ざわざわ騒ぐの。僕が怖いのはあの男。」
「クロト、そんな奴はいないでしょう。あれは幻覚だったでしょう。」
「ううん、あの男は本当にいる人。かわちゃんと全然違う。なのに、どうしてかわちゃんにもざわざわするの。」
「クロト、きっとそれは――。」
「君が完全に変異したからだよ。殺しをしたくてうずうずしているんだ。顔と姿さえ認識できれば呪いは飛ばせる。さぁ、号令を。」
いつのまにか僕達の座る座席シートの後ろに黒い影が立っており、それは僕の小学生の頃の顔で僕ににやにやとした笑顔を向けた。
「クロト?」
「僕がクロトの半身だよ。クロトが誰も憎まないのは、僕を切り離したから。僕はいい加減にクロトと同化したいのに。ねぇ、僕が号令をかけて、あの間抜けなかわちゃんを殺してもいい?君は今までの玄人のした悪行を受け入れて来たじゃない。僕をも受け入れられるよね、受け入れたら、君は本当の玄人になれるんだよ。」
黒い影は子供のような笑い声をあげた。
「僕は玄人じゃない。」
「じゃあ、僕が本当の玄人だ。その体を返してもらう。まずは生贄だ。再生には破壊されるという犠牲がつきものだもの。かわちゃんを破壊すれば、邪魔な君も破壊できるかな。」
「まって!ちょっと待って!」
僕が手を差し伸べた時には影はそこにおらず、僕の手は宙を漂っているだけで、そして、山口は僕を強く引き寄せて抱き締めた。
「クロト!あれの言葉を聞くんじゃない。あれはただの死神だ。」
「だって、だってあれは、かわちゃんを。」
少年のけたたましい笑い声に僕と山口が声の方向を振り向くと、黒い人型は僕が殺されたその現場、プールの底に立って、そして、何という事か、僕の周りにいた黒い蜘蛛達が全部その影の周りに集まっているのだ。まるで黒い渦巻のように、だ。
「あぁ、駄目。駄目だよ!」
「さぁ、さぁ、破壊が嫌なら同化しようよ。そうすれば君は憎しみも恨みも持てる。知りたかった感情を手に入れれば、欲しかった共感力も手に入るんだよ。」
少年はすっと右手を挙げた。
僕は反射的に右手を少年の方へと伸ばした。
「ダメだ!戻ってきて!僕が王だ!そいつの言うことを聞かないで!」
僕の声に反応した黒い蜘蛛達は、ぐんっと蛇の鎌首のように形作って持ち上がり、そしてなんと彼らは観覧席に座る僕めがけて一気に押し寄せてきたのである。
「あぁ。」
「クロト!」
僕はその軍団に巻き込まれ、山口と引き離され、気が付けば僕の蜘蛛たちによって僕の体はフェンスの上部に叩きつけられて貼り付けられてしまっていた。