藁をも掴むつもりがタヌキを掴んだがために!
楊は元々実の弟のように玄人を可愛がってきたのだ。
一回目の玄人への見舞いの際、玄人に悲鳴を上げられた上に目の前で気絶された楊が、玄人のその素振りによってかなり落ち込んだだろうことは、その時の楊の表情で簡単に予想がついていた。
それでもそれから一週間は経っているのだと、俺から楊へ玄人が落ち着いたとメールを打った事もあり、山口が一緒ならばと彼は玄人に会いに来たのであろう。
「お前が酷い事をする幻覚はちびは一つも見ていないじゃないか。ちびは拷問中に俺に何度か殺されそうになった幻覚ばかり見ていたんだろ。あいつは俺がそんな奴だって思っていたんだよ。慕っていたんじゃなくてさ、怖いから俺の後を付いて、なんでも言うことを聞いてって奴。逆にお前にはさ、恐怖なんかひとっつも感じていなかった。笑えるよね、良純さんは凄く怖いんですって言葉はさ、あいつにとっては絶対的な安心空間だよっていう誉め言葉だったって事じゃん。逆に誰とでも仲のいい俺は、誰とでも繋がる危険人物だったってことだよ。」
俺は面倒になってしまったのかもしれない。
気が付けば俺は楊を慰める事をあっさりと放棄して、混乱した玄人の現状はどうなのかと、俺よりも玄人に詳しいかもしれないと望みをかけて、玄人の主治医に電話をかけていたのである。
元々その主治医が玄人を俺に押し付けたのだ。
武本家菩提寺の住職の弟という三厩隆志は、犯罪学者として大学で教鞭をとっているが、れっきとした医師免許のある精神科医でもあるのだ。
よって、三厩は鬱を患っていた玄人の症状を遠い所から観察して、医師として診断もしてくれてもいたのだ。
問診どころか診察もせずに遠い所からっていうのが意味が分からないが、武本関係の人間だからと思う事にしている。
一々常識で武本関係を考えても意味が無いと俺は学習したのだ。
裕也にしろ、孝継にしろ。
今回の大怪我と玄人の様子は、玄人が意識を取り戻してすぐに三厩に報告はしていたが、相も変わらず玄人が寝ている時に彼の診察をしていたという訳の分からなさだ。
持ってきたカルテらしきものに必死に玄人の怪我の具合を書き込み診察する彼の姿に、いくら武本だからと思っている俺だとしても、常識人な俺が違和感を捨てきれるものではない。
「あんたは精神科医だろう?」
「精神ってね、肉体とのバランスが大事でしょう。」
信楽焼の狸のような初老の男は、俺を見返すこともなく手持ちの書類に何かを書き込みながら気もそぞろ風に俺に答えていた。
書き込むだけでなく、時々手に持つその小筆で玄人の体に落書きも記入しているのだ。
そうだ。
俺がその時に感じていた違和感を引き起こした原因の一つが、ボールペンでも万年筆でもなく、奴が握るのが小筆だったからだ。
携帯用の墨の入った小瓶に筆先をつけながら、玄人の体に梵字を次々と書き込んでいるのである。
千手観音や阿弥陀如来を現すキリークに、普賢菩薩を現すアンだ。
それから大日如来を現すバン。
そうだ、不動明王のカーンもあった。
つまり干支をも現すその梵字を、玄人の体のここかしこに奴は書き込んでいたのである。
「おい。俺としては目覚めているそいつを診察してくれた方がしっくりくるね。本人だって、本物の医者に大丈夫って言って欲しいものだろう?それから、クロの体に何を悪戯書きをしてるんだよ。」
「大丈夫って言えるためのおまじない。」
三厩が帰った後、墨で真っ黒になった玄人の清拭を病院はせざるを得ず、清拭を担当することになった看護師に俺が物凄い目で睨まれた事をも思い出した。
しかし、清拭が終わったあとの玄人の体が、暴行による内出血の黒さが三厩が黒くする前よりも薄れているような錯覚を俺が感じたのも事実である。
「医者のくせにおまじないってなんだよ。」
「百目鬼、どうした?」
俺は回想中のあの日の言葉を声に出して仕舞っていたらしい。
俺の言葉に楊は反応し、目元は赤いながらも顔からは手が取り除かれて、身を起こして俺に目を向けていたのだ。
「いや。クロのことであの藪医者にお伺いを立てようとしているだけだよ。」
「あぁ、三厩さん。」
スマートフォンは数度程呼び出し音を立てた後に応答があったが、俺が自分のスマートフォンをどうして床に叩きつけなかったのか褒めてやりたいほどである。
「ごめんね。現在僕は旅行中。電話になんか応答できません。ぴー。」
留守電にしとけよ。