雨降って足元が固まる
「百目鬼さん。」
俺は髙の声にハッとして、自分の涙を軽く右手で拭っていた。
涙を拭いながら、嬉しいという気持ちが湧き出ている事に、俺は今になって気が付くことになった。
久々の、楽しい程の高揚感もだ。
あの日を思い出して玄人の姿に感じた憤りで涙をこぼしておきながら、涙が流れるごとに、玄人が生きているという事を実感していくのである。
玄人の遺体を発見したその時を思い浮かべた涙が、今や生きているあいつがいると、嬉しさの涙を流して泣いているのだ。
あいつは生きている、と。
あぁ、あいつを今すぐにでも抱き上げてやりたい、と。
「涙が出て、ほっとするっていいですね。俺はあの日、クロの遺体を見つけて、怒りの感情は押さえきれないほどありましたけれどね、俊明和尚を亡くした時のような悲しいって気持ちが湧かなかったんですよ。あぁ、死んでいると彼の死を受け入れただけで、明日からの俺の世界も無いだろうと、俺という存在も不確かになるだろうと、砂のように足元が崩れて不確かで、俺の内側は完全に空っぽで、一生刑務所でもいいような捨て鉢な、いいえ、そんな気持ちさえなかった。あんなに暴れて高揚感が一欠けらも湧かないって初めてでした。それで、続き、ですか?」
「いえ、もうやめましょう。いいです。わかりました。あとは何があっても何とかしますよ。僕には間抜けな山口と言う部下がおりますからね。お手の物です。」
「ありがとうございます。それで、立松の埋め立て地の方は何も報道が無いので気になっていたのですが。」
俺と山口は玄人を病院の救急センター前に放りだすと、一目散に、いかにも立松が暴行した被害者を捨てたという風に病院の駐車場を飛び出したのだ。
そして、玄人の復讐が出来なかった山口は、立松の愛車のアルファロメオに復讐をした。
彼らが玄人の遺体を埋める予定地に、立松の愛車をぶち込んで炎上させたのだ。
そここそは、裕也が暴きたがっていたと俺に語った埋立地なのである。
「立松の車が大破して燃え盛った現場ですね。翌日には消防と警察が現場検証をして、彼等の被害者の遺体を発見しています。被疑者死亡でまとめるしかないですね。家族全員死亡の殺害事件ですから、遺体の引き取りから何まで、被害者の婚約者の友人である長柄裕也が全て引き受けるそうです。」
「やぱりあいつは全部知っていたんだな。」
「僕が聞いたところでは、彼が玄人君が危険だと気が付いたのは落書き事件からだそうです。それは真実でしょう。彼が安藤里桜と南部圭祐の婚約を認めなかったから、半年前に彼らが殺されたのだと、まるで玄人君のように泣き叫んでいましたよ。」
「……武本だから、しょうがない、か。」
「ふふ、僕もようやくわかりかけてきましたよ。武本でしかないって考え方。どうしてそう考えるのだろう、と悩むよりも、そう考える人達だからと受け入れると簡単ですね。でも、それだとかわさんが泣いてしまいますかね。」
楊は昨日のうちに玄人の見舞いに来ているが、玄人の顔を見ただけでとんぼ返りをしたのは事件が詰まっているからだけでない。
玄人は楊を目にして、喜ぶどころか叫び声をあげて、意識の混濁まで引き起こしたからなのだ。
「どうして楊に脅えたのでしょうね。」
「僕こそ知りたいですよ。かわさんは酷い落ち込みようで、山口は仕事が手に付かずで、二人ともぼけっとしていて使えない。僕一人が動き回って散々ですよ。」
「使えないって、ひどいですね。楊に関しては俺こそ意味が解りませんが、山口はあの日、自分のせいだとずっとクロに謝っていましたからね。恐らく、見守るのではなく、隣にいてあげればクロが誘拐される事は無かったと、あの暴行さえ自分の責任だと思っているのでしょうね。武本親族に似てます。ですが今回ばかりは俺も俺の後ろに置いておけば良かったと後悔していますから、山口の落ち込みは仕方が無いでしょう。」
「ははは。それは困ったなぁ。それじゃあ山口はこれから堂々と職務放棄してしまうじゃないですか。なんとかしてくださいよ。」
「奴が警察を首になったら、俺が雇ってやりますよ。それでいいでしょう。」
「玄人君みたいに謝礼の出る社会奉仕ですか?」
「ははは。当り前でしょう。衣食住まで世話してやるんだ。」
「可哀想だ。山口は本当に可哀想だ。可哀想ついでに、あいつはもう少し警察に置いておきます。再教育が必要そうですけどね。」
落ち込む山口を心配しているようで、再教育という言葉を楽しそうに口にした目の前の鬼畜に、俺は本気で山口が可哀想に感じた。
そして、笑える可哀相といえば、玄人の誘拐の報を聞いて病院に飛び込んできたという孝継こそであろう。